いつも、絶えず、どんなことにも

2020年7月5日 礼拝メッセージ

テサロニケの信徒への手紙一 5章12~28節

 

わたしたちは、いつ何を経験するか分かりません。現在経験しています、このコロナウイルスの流行も、昨年はまさかこのような事態になるとはだれも想像していなかったと思います。また、先日は九州で豪雨があり、多くの被害が出ています。このところ、このような災害や色々な事件が頻発していますが、そのようなニュースを聞くと、当事者はもちろん、それを聞くだけでも不安や悲しい気持ちに襲われます。そのような苦しみの最中にあって、私たちは聖書から変わることのない希望をいただきたいと願います。聖書から、生きる力と喜びをいただきたいと願います。

今日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の部分です。それはまさに、苦しみの中にあったテサロニケの人々に向けてパウロが送った、神様からの励ましの言葉です。その中で、最も良く知られている聖書箇所は、16~18節の中のこの御言葉であると思います。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

 

1.いつも、絶えず、どんなことにも

喜び、祈り、感謝が大切であるということは、恐らく多くの人が抵抗なく理解できることであると思います。もしかすると、クリスチャンでなくても、それらが大切であることに賛成する方がおられるかもしれません。しかし、そこにこの御言葉のように、「いつも、絶えず、どんなことにも」という言葉が付くとどうでしょうか。これは途端に難しくなります。なぜなら、私たちは、冒頭でお話ししたように、苦しみを経験するからです。そのような中で、私たちは、悲しみます。疲れてしまい祈れなくなってしまいます。また、予想外の事態に、感謝よりも不平不満が湧いてきます。「いつも、絶えず、どんなことにも」喜び、祈り、感謝することなど、到底不可能に感じられます。しかし、だからこそ、私たちはこの箇所に続く言葉に目を留めたいと思います。

 

「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

喜び、祈り、感謝するのは、私たちがそうしたいからそうするのではなく、神様がわたしたちに望んでおられるからであると言われています。そして、「キリスト・イエスにおいて」と言われているのは、神様がそのためにイエス様を私たちのもとへ遣わして下さったということです。イエス様は、すべての人間の悩み苦しみ痛みを負うために、十字架にかかられました。そして復活されて、聖霊を送られ、イエス様の名を信じる全ての人の心の内に住んでおられます。だから、私たちは、イエス様を信じるなら、いつも、このお方が共にいて下さるということを知ります。また、絶えず、このお方が私たちを助けて下さるということを知ります。そして、どんなことの中にも、このお方が働いておられるということを知ります。目に見える状況や環境がどんなに悪かったとしても、そこにおられるイエス様を認める時、私たちの心の内から、イエス様のゆえに、いつも、絶えず、どんなことにも、喜び、祈り、感謝が沸き上がってきます。これこそが、クリスチャンの信仰の根幹であり、力の源です。

 

2.すべての人に対していつも善を行う

さて、パウロは、この16~18節の聖句の直前の15節で、次のように語っています。

「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」

12節から始まる今日の聖書箇所の最初の段落は、すべての人に対して、いつも善を行うように、という勧めの言葉になっています。しかしそのようなことは、私たちが自分の力で行えることではありません。それは、イエス様にあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するという、クリスチャンの信仰が基本にあってはじめて行えることです。

私たちは色々な人に出会います。その中で、感謝できないことや、怒りを覚えることもあると思います。しかし、そのような時にも、イエス様が共におられるということを信じて、喜び祈り感謝しつつ、善を行うことを主は望んでおられます。

 

12~13節では、パウロは特に指導的な立場にある人々を尊敬するように命じています。この当時は、牧師や宣教師のように、公に認められた身分があった訳ではありませんが、御言葉に基づいてそれぞれのクリスチャンの群れを治めるリーダーがいました。そのような人々を、「主に結ばれた者」として、「愛をもって心から尊敬しなさい」と言われています。

ここでこのようなことがはじめに言われているということは、指導的立場にある人々がないがしろにされていたという現状があったのかもしれません。いずれにしても、そのような人々を敬うことは、昔も今も、簡単ではないということを示していると思います。例えば旧約聖書では、モーセが預言者としてイスラエルの民を導きましたが、彼に反抗する人々が大勢立ち上がり、モーセは大変苦労しました。指導者は、神の言葉を取り次ぎますが、語るその人自身は、一人の人間であり、完全な存在ではありません。それがゆえに、その人につまずいてしまう、ということも起きてきます。そのようなことは、現代の教会でも起こり得ることです。しかし、それがどのような人であったとしても、その人自身ではなく、その人を用いて下さる主に目を向けるなら、神様への感謝をもって、その人に接することができるということを、この箇所は教えています。

 

そして続く14節では、今度は色々な意味で助けの必要な人々に、愛を示すようにという勧めがなされています。ここでは、「怠けている者たち」「気落ちしている者たち」「弱い者たち」に対して、忍耐強く接することが勧められています。その中で、特に、「怠けている者」と訳されている言葉の元々の意味は、「規則に従わない者」「好き勝手にする者」ということです。つまり、パウロを含めた指導者たちによって教えられた御言葉の教えを無視し、自分勝手な解釈を行っている人々のことを指しています。パウロは、そのような人々を含めて、すべての人に対して、忍耐強く接することを勧めています。それは、ただ、自分勝手な教えの解釈をしている人々の間違いを指摘するのではなく、子どもに教えるように、愛をもって何が正しいのかを忍耐をもって教え諭すということです。実際パウロはそのように、父親が子どもに対するように、テサロニケの一人一人を教え諭したと、この手紙の2章に書かれています。パウロはその一人一人のために、忍耐しつつ、どれだけの祈りを積んだことでしょうか。私たちも、同じように忍耐をもって祈りつづけることを、パウロのテサロニケの人々に対する言葉と姿勢から教えられます。事実に反することをふれ回ったり、自分について間違った情報を流したりするような人は、現代にもいます。しかし、その時に、すぐにその人の間違いを正そうとするのではなく、むしろ忍耐をもって祈り続けることを、主は望まれます。主にあって、喜び、祈り、感謝し続けることによって、私たちはそのような人々にも愛をもって接することができますし、そのような中で、正しいことを伝える機会も備えられてゆきます。

 

さらに、15節では、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気を付けなさい」と言われています。テサロニケの教会は、厳しい迫害を受けた教会でしたから、色々な人々からの悪だくみや攻撃があったと思います。しかしパウロは、どのような悪に対しても、仕返しをするのではなく、かえって善を行うように勧めています。私たちは、迫害のような大きなことでなくても、人から何か嫌なことを言われたり、傷つけられたりするとき、何とかしてその人に仕返しをしようとしてしまうことがあります。実際に行動に移すようなことがなくても、心の内には、そのような苦い思いが生まれてしまいます。しかし、そのような時こそ、その人を含めたすべての人の罪をあがなって下さったイエス様を見上げ、喜び、祈り、感謝することを主は望まれています。悪に対する仕返しをしようとするとき、人は自分が正義を行っていると思うものです。しかし、ここで「悪をもって悪に報いることのないように」と言われているように、仕返しをする時点でそれは正義ではなく、悪になってしまっているということです。パウロはローマの信徒への手紙12章21節で「善をもって悪に勝ちなさい」と教えたように、この箇所でも、悪に対して善を行うことを勧めています。それは、私たち自身の中に、喜び、祈り、感謝があってはじめて可能なことです。たとえ感情的にはその人のことを赦せなくても、その感情は主におゆだねし、その出来事の中にもおられる主を見上げ、喜び、祈り、感謝してゆくということです。

 

私たちは、そのような、喜び、祈り、感謝する信仰生活を送ってゆきます。これは信仰の戦いです。常に自分の内にある自我と戦いながら、喜び、祈り、感謝することを選び取ってゆくことです。私たちは到底自分にはできない、と自分の弱さを知りつつも、心の内には19節にあるように「霊の火」が燃えています。これは、イエス様を信じることによって与えられる聖霊を示していますが、この聖霊の火が、私たちに力を与えます。その微かな火を消さずに、喜び、祈り、感謝しつづける時、この火は燃え広がる愛の炎となって、周りの人々に伝わってゆきます。「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行う」者へと、私たちが変えられてゆきます。

 

3.再臨の日に完成される

私たちはそのように、苦しみの中にあっても、主にあって喜び、祈り、感謝して、人生の日々を生きています。しかし、それが最終的な完成を遂げるのは、イエス様が再臨された時であるということが示されています。

 

23~24節「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」

 

イエス様が再び来られるその日には、私たちは復活の命を与えられ、霊も魂も体も何一つ欠けたところのない存在として、非のうちどころのないものとして、神様の御前に立つ者とされます。主と共に永遠に生きるその御国の生涯にあっては、すべての苦しみは取り去られ、もはや嘆きも悲しみも全くありません。私たちは神様と顔と顔を合わせて礼拝し、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができます。私たちはそのような天の御国での完成された人生を待ち望みつつ、今、この地上での人生を生かされている者です。そこには色々な苦しみがありますが、その中にあっても、私たちは今、共におられ、そしてやがて再び来られて全てを完成して下さるイエス様を見上げ、喜び、祈り、感謝をすることができます。そのように、いつも、絶えず、どんなことの中にあっても、イエス様と共に歩むこと、これこそ、神様が私たちに望んでおられることです。

 

 

 

再臨の主を見上げて歩む

2020年6月28日 礼拝メッセージ

テサロニケ信徒への手紙一 4章13節~5章11節

 

今月は主日礼拝で、テサロニケの信徒への手紙一を取り上げています。この手紙は、迫害という大きな苦難の中に生きたテサロニケのクリスチャンに向けて書かれた手紙であったことを、これまで確認してきました。その意味で、時代も状況も全く違いますが、色々な意味で苦難の中に生きている現在の私たちに向けて、神様から送られた御言葉であるとも言えます。

苦難の中では、人はどうしても、うつむき加減になってしまうものだと思います。悪い方に悪い方に考えてしまい、気が付くとどんどん落ち込んでいってしまいます。しかし聖書は、苦難の中でこそ、上を向いて、神様に期待をするように私たちを導きます。今日の箇所は特に、苦難の中でこそ、再び来られる主イエス・キリストを見上げて歩むことを教えています。

 

1.復活の命が与えられる

イエス様が再びこの地上に来られるという再臨の時、最初に起こることは、イエス様を信じて死んだ人々が復活するということです。

14節「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」

 

ここで言われているように、イエス様が復活されたことは、私たちが復活するということと切り離すことはできません。イエス様が再び来られるとき、私たちはイエス様のように、栄光に輝く体を持った存在として、復活する者とされます。それこそが、再臨と共に、キリスト者に与えられている希望です。

ところが、テサロニケの人々の中には、兄弟姉妹が召されていくという死の現実を目の前にして、嘆き悲しんでいる人々がいたようです。パウロは彼らに対して、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまない」で欲しいと語っています。もちろん彼らも復活を信じていましたが、彼らは特にイエス様の再臨を待ち望む人々でしたから、それを待たずして人々が召されていくのを見て、意気消沈していたのかもしれません。

それだけ、死の力というものは強いということです。死は、希望を持たない人々、つまりイエス様を信じない人々にとっては、全ての終わりであり、空しさだけがそこにあります。それは、当時の人々にとってだけでなく、現代の私たちにとっても同じことであると思います。今日の箇所では、死ぬことが「眠る」という言葉で表されていますが日本人も、死ぬことを「永眠する」という風に言います。ところが、そこには本当の意味の安らかさや希望は全く無く、死の力の前に、人は沈黙する他ありません。

テサロニケの人々も、同じような葛藤の中にいたのかもしれません。しかし、ここでパウロは、イエス様を信じる者は、永遠の命を与えられ、イエス様が再び来られる時には、イエス様と「一緒に導き出される」、つまり、共に生きる者にされるのだということを教えています。イエス様は死の力に勝利されて復活された、それはすなわち私たちも死の力に勝利し、栄光の体を得てイエス様と共に生きる者とされるということです。私たちは、主の再臨の時に与えられるその復活の命の希望を見上げて、今を生きる者です。

 

2.イエス様と共に天に上げられる

次に、キリストにある死者の復活に引き続いて起こることは、その復活した人々と、その時点で生き残っている人々が、空中でイエス様に会うために、一緒に天に向かって引き上げられるということです。

16~17節「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」

 

ここで言われていることが、実際どのように起こるのか、私たちの頭では中々イメージできない部分があるかもしれません。しかし、そこにたとえ理解できない部分があっても、主からの約束として受け止めることが大切であると思います。ここでは、合図の号令がかかり、大天使の声があり、神様がラッパを吹かれると言われています。それは、再臨の時には、天に明確な徴があるということです。そして、イエス様が天から降って来られ、イエス様を信じる者は雲に包まれて引き上げられ、イエス様を空中でお会いすると約束されています。これらのことは、イエス様自身も、十字架にかかられる前に語っておられたことです。

マタイ24:30-31「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

ここでも、主が来られる時、天に徴があると言われています。そして、先の箇所とほぼ同じ内容が約束されています。イエス様が帰って来られる時は天から来られるということ、そして、信仰者は再臨されたイエス様と会うために、天へと引き上げられてゆくということが言われています。その時に生きているか、死んでいるかに関わらず、イエス様は一人一人を引き上げて下さり、天で共に生きる者にして下さいます。私たちは今、この地上に生かされており、いずれは塵に帰って行く者ですが、イエス様の再臨の時、復活の命が与えられ、そしてそれだけでなく、イエス様のおられる天に向かって上げられてゆくということを経験します。全く不思議なことですが、旧約聖書では預言者エリヤが生きたまま天に上げられたように、そして新約聖書では、イエス様が使徒たちの見ている中を天に向かって上げられていったように、主の再臨の時には、その時点で生きている人々は直接天に上げられ、また、イエス様を信じて既に召された人々は復活し、彼らと一緒に天に上げられていきます。私たちは今この地上にあって、そのような天を見上げて生きる者です。

 

3.主の日の裁きから救われる

そして次に、イエス様を信じる者が主の日の裁きから救われるということが起こります。

5章9節「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」

 

私たちが天に引き上げられるということと、神の怒りから救われるということは、同じ一つのことを指しています。主が再臨されるのは、救われる者を引き上げるためであるのと同時に、罪に支配されたこの世界を滅ぼすためであるからです。聖書ではその裁きの日のことを、主の日と呼んでいます。この主の日が来る、ということが旧約聖書で繰り返し預言されていました。ですから、その日がいつ来るのか、イエス様の弟子たちも、イエス様にたずねました。するとその時のイエス様の答えは、「その日、その時は誰も知らない」というものでした。だから、その日のために準備をしていなさいとイエス様は教えられました。今日の箇所でもパウロは、主の日がいつ来るのかについては語っていません。ただ、主の日は盗人のようにやってくる、つまり思いがけない時にやって来ると語っています。人々が「無事だ。安全だ」と言っている最中にその日は来ると言われています。しかし、その日、イエス様を信じて天に上げられる者は、神の怒りから救われるということが約束されています。その日には、かつてない全世界規模の苦しみとそれに続く滅びがもたらされることになりますが、イエス様はそれらから私たちを救い出してくださいます。現在も私たちは様々な苦しみの中にありますが、それでも、世の終わりに臨む最も大きな苦しみである神の怒りから救い出されるという約束に、希望をもって生きることができます。

 

4.目を覚まし、主に向かって向上してゆく

今日の箇所から、これまで三つのことを語りました。それは、イエス様の再臨の時、イエス様を信じる者には復活の命が与えられ、天に引き上げられて主に出会い、そして神の怒りから救い出される、ということでした。それでは、私たちはそのような約束を受けて、今、どう生きるのでしょうか?パウロは次のように勧めています。

5~6節「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」

 

私たち自身は罪びとであり、世の暗闇の中に生きている者です。しかし、そのような私たちをイエス様はあがなって下さり、滅びを免れさせ、栄光の体を持って天に引き上げる約束を与えて下さいました。そのような私たちは、この世にあっても、すでに「光の子」とされているということです。だから、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」。ここで注意が必要なことは、私たちは、救われるために、目を覚まし、身を慎むのではないということです。私たちは救われて、光の中にいるからこそ、目を覚まし、身を慎んで、主に感謝をささげて生きていくということです。この「身を慎む」という言葉ですが、原文の単語を直訳すると、「酔わないでいる」ということになります。それは、酒に酔わないでいるということだけでなく、あらゆる世の誘惑に注意深くあるということでもあります。しかし、そこには戦いがあります。8節では、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」とあります。信仰・愛・希望という、クリスチャンに与えられた最も大きな三つの恵みを、自らの身を守る武具として身に着け、終わりの日まで光の子である私たちを誘惑するサタンとの戦いを、私たちは歩んで行かなければなりません。しかし、そのサタンも、最終的には再臨されたイエス様によって滅ぼされてゆきます。その時、私たちは天の完全な光の中を歩むことになります。

そして最後に、11節には「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」とあります。励まし合うことの大切さは、先週も確認しました。私たちは、主の再臨の約束に基づいて、お互いに励まし合う者です。そして、それだけでなく、今日の箇所では、「お互いの向上」を心がけるように勧められています。この「向上」という言葉は、原文を直訳すると「建て上げる」となり、お互いに建て上げるということです。キリストのからだの一部である私たち一人一人が、お互いを建て上げ、主が再び来られる日、花婿であるイエス様が教会を花嫁として迎えられるように、備えをしていくということです。主がその時を待ち望んでおられるように、私たちもその時を待ち望みます。

私たちは様々な苦難を経験します。しかし、そのような中にあってこそ、再び来られるイエス様とその約束を心に留め、上からの救いを待ち望みつつ、私たち自身もお互いに建て上げ、上に向かって進んでゆきます。そのように私たちは日々、再臨の希望を与えられるイエス様を見上げて歩んでゆきましょう。

 

 

苦難の中にある励まし

2020年6月21日 礼拝メッセージ

テサロニケ信徒への手紙一 3章1~13節

 

今週は、テサロニケの信徒への手紙一の3章からの御言葉です。これまでお話ししてきましたように、このテサロニケの信徒への手紙は、苦難の中にある人々に向けられた手紙でした。そして先週お話ししましたのは、そのような苦難の中で二つのことが起こるということでした。一つは、色々な嘘の教えが広がり、何が本当か分からなくなるということです。そしてもう一つは、人々の間の争いが増え、お互いの間の愛が冷えるということです。このような状況は現代の私たちにもあてはまるものであると思います。そのような混乱と争い、もしくは無関心の中で必要とされているのは、むしろ励まし合うことであるということを、今日の箇所の3章は私たちに伝えています。苦難の中にある時こそ、私たちはお互いの間で励まし合うことがいかに大切かを知る者となります。

 

1.人間は励ましを必要とする

今日の箇所では、パウロがテサロニケの人々を励ますためにテモテを遣わしたということが書かれています。その結果、テサロニケの人々が信仰を守り続けていることが分かり、逆にパウロが励ましを受けたと言われています。そのように、パウロとテサロニケの人々は、互いに励まし合う存在でした。このテサロニケの信徒への手紙一には、「励まし」に関連した言葉が8回出てきます。それほど、彼らの関係の中で、「励まし」が大切であったということです。

1節でパウロは、「もはや我慢できず」と言っています。この表現は、5節にも出てきます。「もはやじっとしていられなくなって」。パウロが心から、苦難の中にいたテサロニケの人々のことを気にかけていたことが分かります。パウロとテサロニケの人々は、それほど長い期間一緒にいた訳ではありませんでした。テサロニケにパウロがいたのは、1か月に満たない短い期間でした。それにも関わらず、パウロはこれほどまでに熱い思いを持って、彼らのために祈り、励ましを与えたいと願いました。そこには、神様から与えられた思いと、愛が働いていました。

私たちにも、神様の導きの中で、互いに励まし合う存在が与えられるものです。それは、神様からの一方的な恵みであって、人の努力で得られるものではありません。私は先日、アメリカの神学校の時の友人と、ZOOMを通して、約4年ぶりに顔と顔を合わせて会話をすることができました。彼らはエクアドルからの留学生夫婦で、現在もアメリカに住んでいますが、私が神学生の時代、夫婦で良く交わりの時を持ち、祈り合ったものでした。なぜ、彼らと仲良くなったのか、はっきり覚えていないのですが、共に外国で暮らす葛藤を分かち合ったり、また、私たちが流産の悲しみを経験した時に、励まし、祈り支えて下さったりしたことを覚えています。そして、日本に帰国してからも、時折メールのやり取りをして、お祈りの課題などを分かち合ってきました。しかし、今回、コロナウイルスの影響で、ZOOMで会話ができるということを知り、彼らと話をすることができました。もし、コロナウイルスのことがなかったら、彼らとZOOMで話すことにはならなかったかもしれません。そのような不思議な導きを覚えつつ、改めて、互いに励まし合うことの大切さを覚えました。

私たちが人と出会う仕方は様々です。しかし、その全ての中に神様は働いておられて、必要な時に必要な出会いを与えて下さいます。そして、苦難の中にある時こそ、私たちが信仰にとどまることができるように、励ましを与える存在に出会わせて下さいます。そして、その関係は、どちらか一方だけが励まされる関係ではなく、お互いに励まし合い、愛し合う関係になってゆきます。パウロとテサロニケの人々も、そのように励まし合い、愛し合う関係を築いてゆきました。そのように、互いに励まし合うことを、主は喜ばれます。

 

2.人を通して与えられる神様の励まし

私たちは、そのように、励ましを必要とする存在ですが、本当に必要な励ましは、人間から出るものではなく、神様から出るものです。今日の箇所で「励まし」と訳されている原文のギリシャ語の単語は、別の箇所では「勧め」と訳されています。神様に向かうように勧めることが励ましの意味であるということです。励ましも、ただ人間同士の言葉による励ましなら、それは一時的なもので終わってしまいます。

2節にあるように、パウロがテモテを遣わした目的は、テサロニケの人々の「信仰を強め」ることでした。苦難の中にあったテサロニケの人々が、信仰に堅く立ち、そこから離れてしまわないように勧めるために、パウロはテモテを遣わしたということです。本当の苦難とは、信仰から離れてしまうことです。5節では「誘惑する者があなたがたを惑わし」とあります。テサロニケの人々の苦難の中には、彼らを神様から離そうと誘惑する者がいたということです。これは、人を通して働くサタンの働きを指し示しています。サタンは、人が信仰から離れるように常に誘惑をしてきます。このサタンの誘惑から引き離し、信仰に立ち帰るように勧めることこそ、パウロやテモテの励ましの内容であり、私たちもまた、苦難の中で、そのような主にある励ましを必要としています。

旧約聖書のヨブ記には、苦難の人ヨブの生涯が記されています。ヨブは大変裕福な人でしたが、彼が神様から離れるように、サタンが彼の全財産と家族を奪い、さらに全身を重い皮膚病にかからせました。そうすれば、ヨブは神様を呪うだろう、とサタンは企んだのです。初め、ヨブはそのような苦難の中でも、神様を賛美し続けますが、次第にヨブの心の内側が表れていきます。なぜ、自分は正しい人間なのに、このような苦しみが襲うのか。なぜ神は答えてくださらないのか。ヨブの心はそのように叫びました。そのヨブのもとに、3人の友人たちがやって来て、ヨブを励まそうとして言葉をかけました。しかし、そこから彼らとヨブの間で30章にも及ぶ議論が生まれてしまい、結果ヨブはますます頑なになってしまいました。

人間の言葉には、サタンの誘惑を退ける力はありません。ヨブが神様のもとに立ち帰るためには、神様の御言葉を、へりくだって受け入れることが必要でした。そのことを教えるために、神様は、エリフというもう一人の人物をヨブのもとに遣わされました。このエリフについては、ヨブ記の32章から36章までに記されています。興味深いことにこのエリフも、今日の箇所に出てくるテモテと同じく、若者であったということです。長年の経験に基づく、熟練したアドバイスではなく、これらの若者の素直な心を、主は御言葉を伝えるために用いられました。エリフの言葉から1節だけ引用します。

ヨブ記35章14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」。

苦難の中で、自分も、神も見失っていたヨブに対して、エリフはこのように語り、祈りを聞いて下さる主を待ち望むように勧めました。苦難の中で、本当に助けになるのは、そのように主を指し示す言葉です。テモテも、またパウロも、そのように主の御言葉を宣べ伝える者でした。そしてその御言葉によって、主なる神様からの励ましを人々と共に分かち合うことができました。私たちも、そのように神様の御言葉を通して、共に励まし合うことができ、そのことが今、苦難の時代の中で求められています。

 

3.再び来られるイエス様からの励まし

そして最後に、このテサロニケ3章は、これまでの章と同じく、再び来られるイエス様に対する希望の言葉でしめくくられています。

13節「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」

主の御言葉を通しての励ましは、最終的には、イエス様の再臨という希望の約束に向かいます。私たちの生きるこの世界には苦難があります。それは、ヨブの時代から、パウロの時代、また私たちの生きる現代まで、変わることがありません。しかし、聖書が伝えている希望は、その苦難の時代の先には、主イエス・キリストが再び帰って来られて、この主に属するすべての者が引き上げられ、天の御国に永遠に住むようになるということです。その御国においては、この地上にあっては弱く、不完全な者だった私たちが、神の御前で「聖なる、非のうちどころのない者」とされてゆくということが起こります。テサロニケの人々と同じく、私たちも、このような希望を励ましとしていただいているのです。

私たちはこの地上の人生で、あらゆる苦難を経験してゆきますが、そのような中でこそ、イエス様と共に生きるこのような天の御国の希望を励ましとしていただいて、また、その福音を通しての励ましを、一人でも多くの人に伝えていきたいと願うものです。

 

 

 

真理と愛を伝える御言葉

2020年6月14日 礼拝メッセージ

テサロニケの信徒への手紙一 2章1~13節

今日の聖書箇所は先週から始まったテサロニケの信徒への手紙の2章です。先週もお話ししましたが、この手紙は、苦しみの中にあり、イエス様の再臨を待ち望むテサロニケの教会に宛てられました。イエス様が再臨される世の終わりの時を見据えて、テサロニケの人々は信仰生活を送っていました。世の終わりが近づく時、色々なことが起こると聖書は語っていますが、特に次の二つのことについて、今日の箇所から教えられると思います。それは、真理と愛が失われるということです。真理が失われる、とは、色々な間違った教えが現われ、何が真理かわからなくなってしまうということです。今日でも、色々なニュースが溢れ、嘘の情報もたくさんあり、何が本当なのかわからなくなってしまうということが起こっています。これもある意味真理が失われるという状況を表しています。また、愛が失われる、とは、お互いの間の愛が薄れ、傷つけあうことや無関心が広まってしまうことです。最近では、インターネット上で誰かの誹謗中傷が行われるということが繰り返されており、先日はタレントの方がそれによって自ら命を絶つということも起こってしまいました。いずれにしても、今私たちが生きるこの時代も、テサロニケの教会の人々が生きた時代と同じく、世の終わりが近い状況を示しているということは変わりないと思います。そのような中で、今日の箇所は、御言葉を通して真理と愛が伝えられるということを教えています。福音を伝えるということは、イエス様の真理と愛を伝えるということだということです。

 

1.御言葉は真理を伝える

今日の箇所は、テサロニケでのパウロの宣教について語っていますが、そこから示されることは、神の御言葉すなわち福音は、真理を伝えるということです。

3節でパウロは「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と語っています。ここで「迷い」という言葉がありますが、これは「AかBか迷う」という意味ではなく、正しいものから迷い出るという意味です。真理から迷い出た偽物の教えということです。パウロがこのように書いている訳は、当時、そのような偽の教えがはびこっていたからであると思われます。先週も少しお話ししましたが、テサロニケの教会には、そのような偽の教えの問題がありました。ある人々は、世の終わりを意識しすぎるあまり、再臨のイエス・キリストはもう来てしまったと教えました。またある人々は、再臨だけを待ち望んで、仕事をせず怠惰な生活をしたり、快楽を追い求めたりしました。そのような偽の教えは、自分が利益や快楽を得たいという不純な動機に基づいており、真理を捻じ曲げたごまかしの教えでした。パウロはここで、自分たちが宣べ伝えた福音はそんなものではない、と強く否定しています。

偽りの教えとは、人間によって作られたもので、それは人間のための教えです。パウロは4節で、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくため」に語ったのだと書いています。偽りの教えの根本にあるのは、人間至上主義、人間崇拝です。そこでは、他の人から評価を得ることが第一であり、ひいては、人間の力があれば何でもできる、という思想につながってゆきます。これは、創世記において人間がサタンに騙されて、神のようになろうとしたところから始まっています。人間はその時からずっと、神を喜ばせることではなく、人を喜ばせることを求めてきました。これが人間の罪の性質です。その罪の性質は、イエス様を信じ聖霊を受けてからも、私たちの心の中に残り、神ではなく人に目を向けるように誘惑してきます。このような誘惑から、偽りの教えが生まれてくるようになりました。

それに対して、福音とは、神様から伝えられた真理であり、それは神様のためのものです。パウロは徹底して、自分が語ったのは人のためではなく神のためであったということを説明しました。4節前半「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています」。パウロの語った言葉は、パウロ自身から出た言葉ではなく、神からゆだねられた福音であったと言われています。この「ゆだねる」という言葉は原文では、「信じる」という意味の言葉であり、「信じて任せる」という意味があります。神様は、ご自身の言葉を、人間を信じて任せて下さったということです。ちょうど神様が、アダムとイブに、ご自分の造られた世界を委ねられたように。アダムとイブはこの信頼を裏切り、罪を犯してしまいましたが、イエス様が十字架にかかられ、すべての人間の罪をあがなって下さったことにより、神様と私たち人間との間の関係が回復されました。そして神様は、ご自身の言葉を、罪人である人間にゆだねて下さいました。

そのように、私たち人間には、神様に由来する真理がゆだねられているということです。これは驚くべきことだと思いませんか。そしてこの真理は、人となられた神様、主イエス・キリストを通して、私たちに与えられました。テサロニケの人々の間にも、私たちの間にも、色々な人間の教え、偽りの真理が存在しています。しかし、神様に由来する真理とはただ一つ、主イエス・キリストです。

 

2.御言葉は愛を伝える

御言葉は、そのように、真理を伝えるものです。しかし、それと同時に愛を伝えるのが御言葉です。イエス様は真理であると同時に、愛であるからです。このようなことは、世の中で言われている「真理」にはあり得ないことです。世の中の「真理」は、誰か一部の人の助けにはなっても、全ての人を救う愛を伝えることはできないからです。

今日の箇所の6節までで、パウロは、自分が御言葉を語ったのは、人を喜ばせるためにではなく、神を喜ばせるためであったと語りました。その語り口は、少し厳しいようにも思えます。しかしパウロは、7節以降で、御言葉が愛であることを、自らの行いを通して示しています。パウロは一人一人に深い配慮と熱い思いをもって、接しています。それは、神の愛がパウロを駆り立てていたからであり、御言葉を通して神の愛が伝えられていたからでした。

パウロは、御言葉を語る自分自身を、色々な姿にたとえて話しています。まず、7節で彼は、「幼子のように」なったと語っています。幼子のように小さな者として、へりくだって人々に仕えたということです。7節の初めにあるように、パウロは、キリストの使徒として、権威を主張することをしませんでした。世の中では真理というものは、人に権威を与えるものです。ある分野の専門家になれば、有名になり、本が売れれば、テレビに出ることもできるかもしれません。しかし、福音の真理は、私たちに権威を与えるためのものではなく、神様を証するものです。証し人として立てられた人間は、自分には何の権威もないということを覚えつつ、幼子のように、すべての人と同じか、それよりも低い目線に立って話します。ここには、神の御子でありながら、へりくだって人間の一人になり、十字架の苦しみを受けられたイエス様の愛の姿が表されています。

次に、パウロは、こう語っています。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです」。パウロは、自分のテサロニケの人々に対する愛を、母親の子供に対する愛にたとえて語っています。パウロが生きた約2千年前のイスラエルと、現代の日本では、育児に対する考え方はかなり異なると思います。しかし、今も昔も、母親の愛を通して示される神様の愛があるということが語られています。それは、子供を「いとおしく思う」愛であり、また「自分の命を喜んで与えたいと願う」愛であるということです。パウロ自身は、男性であり、また独身でもありましたが、神様の愛に満たされて、このような愛を伝える存在として用いられました。

そして11節では、今度パウロは、自分を父親の姿にたとえて語っています。「父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした」。このことも、パウロが親としての自分の経験から語っている訳ではありませんが、父親には子供に呼びかけ、諭しを与えるという大切な役割があるということを教えています。そのように、真理を伝える神の愛は、私たちを通して、肉の子供だけでなく、神によって家族とされた一人一人に注がれていくということを、パウロの姿から教えられます。

パウロはこのように、御言葉を語る自らの姿を、色々な姿にたとえて語りましたが、それにより、神の愛は人間のあらゆる愛を含み、超越した愛であるということが示されています。幼子のような愛、母親の子供に対する愛、父親の子供に対する愛、それらすべてを含み、かつ超越した神様の愛、御言葉はイエス様を通してその愛を伝えます。

 

3.真理と愛に立って

今日の箇所を通して、テサロニケでのパウロの宣教によって、神様の真理と愛が伝えられたということを見ることができました。13節では、人々がパウロの言葉を神の言葉として受け入れ、その御言葉が彼らの中で現に働いていた、と言われています。テサロニケの人々は、御言葉を通してイエス様の真理と愛を受け入れ、その真理と愛は彼らの中で現に働くものとなりました。真理と愛が失われつつある終わりの時代に生きたテサロニケの人々にとって、また今を生きる私たちにとって、御言葉の真理と愛に立ち続けることこそ、希望の源です。イエス様も、終わりの時代には様々なことが起きるが、御言葉に信頼して耐え忍ぶように教えられました(マタイ24章5~14節)。多くの偽の教えが現われ、また、人々の愛が冷えるが、最後まで耐え忍ぶ者は救われるとイエス様は言われました。私たちも御言葉からイエス様の真理と愛をいただいて、その真理と愛に立ち続ける者となってゆきましょう。

 

 

苦しみの中で働く御言葉

2020年6月7日 礼拝メッセージ

テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

六月の第一週の礼拝をおささげします。今週からテサロニケの信徒への手紙を読んでいきます。この手紙は、新約聖書の中では、最も早く書かれたものの一つであると言われています。ですから、イエス様の十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を目撃したばかりの人々の信仰のあり様がそこに生き生きと表されています。聖霊降臨が起こり、教会が生まれ、福音は世界各地に伝えられてゆきました。しかし、それに伴ってたくさんの迫害も起こりました。テサロニケの人々も、そのような厳しい迫害を経験しました。テサロニケは、現在のギリシャの北東部にあたる場所ですが、当時はローマ帝国の一部で、マケドニア州という州に属していました。テサロニケはその中でも大きな町で、港町として経済活動の拠点となっていたようです。そのような町に福音を伝えたのは、今日の箇所、1章1節に出てくるパウロやシラスとも呼ばれるシルワノ、そしてテモテでした。この時の出来事については、使徒言行録17章1~9節までに記されています。そこでは、パウロがテサロニケの人々に福音を伝えたことによってイエス様を信じる人々が起こされたのと同時に、多くのユダヤ人からの厳しい迫害があったことが伝えられています。

テサロニケの人々は、そのような迫害という苦しみの中にあって、御言葉を信じ、また、御言葉を多くの人々に伝道してゆきました。7節では、彼らが「すべての信者の模範」となった、と言われています。彼らが苦しみを受けたことが、かえって、福音の前進に用いられたということです。私たちは、苦しみをできる事なら避けたいと思います。苦しみを自分から願う人はだれもいません。しかし、聖書は苦しみを通して、御言葉が働くということを教えています。その具体的な内容について、今日の箇所から三つのことが示されています。

 

1.苦しみの中で受け入れられる御言葉

今日の箇所から示される一つ目のことは、苦しみの中で、御言葉が受け入れられるということです。

6節「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」。

テサロニケの人々は「ひどい苦しみ」の中にいた時に、御言葉を受け入れ、イエス様を信じる者となったと言われています。この「ひどい苦しみ」の内容のすべてを知ることはできませんが、ユダヤ人からの迫害がそれに含まれていたことは確かでしょう。先ほどの使徒言行録17章によると、ユダヤ人はならず者と一緒に暴動を起こし、テサロニケでイエス様を信じた人々の家を襲ったとのことです。パウロたちはこれを逃れて隣町のべレアに行き、それ以降のことは記されていませんが、その後もテサロニケで迫害は続いたものと思われます。彼らに向けて書かれたテサロニケの信徒への手紙一・二の中で、ここで「苦しみ」と訳されている単語が、この箇所を含めて計5か所あります。彼らはそれほど多くの苦しみを経験したということです。

しかし、そのような中で、彼らは「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たと言われています。苦しみは、喜ばしいものではありません。どんなにポジティブに考えても、本心から苦しみを喜ぶことは人にはできません。しかし、聖霊は苦しみの中で、御言葉を通して喜びを与えられます。苦しみによって渇ききった心に、御言葉が染み渡っていくのです。テサロニケの人々も、そのように御言葉を受け入れました。そしてそのことによって、パウロたちに倣う者、また、誰よりも多くの苦しみを十字架で受けられたイエス様に倣う者とされた、と言われています。

それは私たちに対して言われていることでもあります。私たちも苦しみの中でこそ、主の御言葉を受け入れるということを経験します。苦しみとは、テサロニケの人々が経験したような、目に見える迫害のことだけではありません。苦しみの種類や大きさは問題とはなりません。たとえば私たちが家族や職場、学校での人間関係の中で苦しむときもそうです。そのように苦しむ時こそ、私たちは主に助けを求めて祈ります。すると、御言葉が不思議と心に入ってきます。苦しみ自体がなくなることはなくても、御言葉を通して、神様がわたしに何を望んでおられるのかを、受け取ることができます。

 

2.苦しみの中で伝えられる御言葉

今日の箇所からの二つ目のポイントは、苦しみの中で、御言葉が伝えられるということです。

8節「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」。

テサロニケの人々が苦しみの中で福音を受け入れたことは、彼らだけでなく、より多くの人々に福音が伝えられていくきっかけとなりました。「主の言葉があなたがたのところから出て」とあるように、テサロニケの人々が福音を直接的に伝えたとは書かれていません。むしろ、自然と福音が各地に響き渡り、伝えられていったということが分かります。苦しみの中にいた彼らが、福音を信じ、喜びに満たされる様子が、それだけ大きな影響を与えたということです。

御言葉を伝えるのは、人間の働きではなく、聖霊の働きであるということです。そのことについては、少し前の5節で語られています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」。パウロたちもテサロニケの人々も、度重なる苦しみの中で、聖霊の力に満たされ、主なるイエス様に心から信頼しました。その姿自体が、多くの人々をイエス様のもとに導いたということです。苦しみの中にある人を生かす聖霊の力は、それだけ大きな影響を周囲に与えるということです。

私は、社会人の時に東京の教会で信仰を持ち、洗礼を受けました。初め私が求道者として礼拝に出席していた頃、その教会の牧師先生から話しかけられることはほとんどありませんでした。しかし私は先生の説教を聞いて、信仰告白に導かれ、洗礼の恵みにあずかりました。私はその後すぐに転勤で海外に行ってしまいましたが、その間、先生は癌の病に侵され、闘病生活を送られました。私が帰国した時、かなり病が進行していたようですが、それでも放射線治療を受けながら月に何度かは礼拝説教をされていました。そして神学校に進むことを決意していた私に、繰り返し説教の指導をして下さいました。私が先生の入院先に説教原稿を送ると、その原稿が真っ赤になって返ってきたものでした。入院先から私の携帯に叱咤激励の電話が来ることもたびたびありました。それは、とても死を目前にした人とは思えませんでした。しかし今思い返せば、先生に苦しみがなかったはずがありません。苦しみの中で、イエス様に依り頼みながら、懸命に生きておられたのだと思います。それを可能にしたのは、今日の5節の御言葉のように、イエス様から来る力と、聖霊と、強い確信であったのだと思います。先生は死の直前まで礼拝に出席され、天に召されてゆきました。その信仰の姿を通して、私を含めて多くの人が励まされ、ある人は信仰に導かれました。そのように、苦しみの中にある時こそ、神の力が発揮され、福音が宣べ伝えられるということが、今に至るまで世界中で起こってきました。苦しみは辛く苦しいものですが、その出来事の最中に、御言葉は宣べ伝えられてゆきます。

 

3.苦しみの中で主を待ち望む御言葉

最後に今日の箇所から、苦しみの中で、御言葉は主を待ち望む希望を与えるということが分かります。

10節「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。

テサロニケの人々は、ひどい苦しみの中で福音を受け入れ、またその福音を全世界に伝えていく役割を果たしました。しかし、彼らの最終的な希望はこの世ではなく、来る御国に置かれていました。イエス様は終わりの日に、もう一度この地上に来られて、信じるすべての人をご自分の御国に迎えて下さると約束されました。これを再臨と言いますが、この再臨に対する希望が、この手紙では繰り返し語られており、それぞれの章の最後の部分にそれが見られます。この1章10節では特に、再臨されたイエス様は「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」お方であると言われています。聖書ではイエス様の再臨の時に、色々なことが起こると言われており、それを全て理解するのは中々難しいのですが、肝心なことは、その時、完全な神の裁きが実現されるということです。そして、イエス様を信じる者は神の憐れみによって御国に入れられて行く一方で、信じない者は神の怒りによって永遠の火の刑罰に入れられます。神の怒りは、この地上にも注がれ、全世界に苦しみと破滅がもたらされます。このことはヨハネの黙示録の中で詳しく述べられています。しかし、私たちに与えられている約束は、イエス様を信じる者は、神の来るべき怒りから救われるということです。現在どのような苦しみの中にあったとしても、終わりの日の神の裁きから救われるということは、苦しみの中にある人々に慰めと希望を与えます。テサロニケの人々もそのように、来る主の再臨を待ち望む者になりました。

再臨を待ち望むということは、現実の世界から目を背けるということではありません。テサロニケの人々には一部、そのような傾向があり、怠惰な生活をしたり、再臨がもう来たと言って人々を惑わす者がいました。歴史の中でも今日に至るまで、世の終わりが来たとふれ回って、不安をあおる人々が数多く現れてきました。しかし、私たちは決して無意味にこの地上で生かされているのではなく、神の望まれる目的を果たすために、それぞれの場所に遣わされています。この地上には苦しみがありますが、その中で、イエス様を信じ、その恵みに依り頼みながら、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えて生きることを、主は望んでおられます。その後で、主を信じる私たちを滅ぼすためにではなく救うために、主は再び戻って来られて、御国を完成して下さいます。私たちはその日が来るのを恐れるのではなく、待ち望んで生きることができます。

 

4.結び

私たちは今まさに、大きな苦しみの中を生きています。それぞれの生活にも色々な苦しみがあるでしょうし、特に今、この新型コロナウイルスの流行の中、世の終わりが近いということを思わされるような苦しみが広がっています。しかし、今日の御言葉を通して、テサロニケの人々の信仰から教えられることは、そのような苦しみの時こそ、御言葉を受け入れる人が多く起こされるということです。また、苦しみの時こそ、聖霊の力によって、御言葉が宣べ伝えられて行くということです。そしてまた、苦しみの時こそ、目に見えるこの地上の生活に希望を置くのではなく、やがて再び来られる主イエス・キリストとその御国を待ち望むように導かれるということです。御言葉はそのように、私たちの苦しみの中で今も働いています。

 

 

霊と真理をもって礼拝する

2020年5月31日 礼拝メッセージ

ヨハネによる福音書 4章1~26節

5月も最後の日になりました。今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげします。ペンテコステの意味について、以前にも少しお話ししましたが、今一度、振り返ってみたいと思います。ペンテコステとは、新約聖書が書かれたギリシャ語で「五十」を指す言葉です。ユダヤ人は、過越しの祭りの五十日後に、刈り入れの祭りという祭りを祝っており、ペンテコステとは元々、この祭りのことでした。人々はこの日、名前のとおり、麦の刈り入れ、収穫を祝ったのです。それで、イエス様が十字架にかかられ、復活されたその年にも、同じようにこの刈り入れの祭りの日がやって来ました。するとその日、聖霊が降るという出来事が起きました。その日に起こったことについて、使徒言行録2章に詳しく書いてあります。人々の上に聖霊が降り、使徒たちはイエス様を伝える証人に変えられました。これが、教会のはじまりです。そして、この日を聖霊降臨の記念日、ペンテコステとして、祝うようになりました。
今日の箇所は、その使徒言行録から離れて、ヨハネによる福音書4章の、サマリアの女の場面です。これは、聖霊降臨の出来事のずっと前、イエス様が十字架にかかられるさらに前の出来事ですが、ここでも、聖霊について語られています。聖書は聖霊について、色々な形で証しています。

1.聖霊は霊の渇きを満たす
聖霊は、目には見えないものですが、色々なものにたとえられています。今日の箇所では、イエス様が聖霊を水にたとえてお話しされています。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(13~14節)」
このとき、イエス様は、サマリアという土地におられました。先週も登場したサマリアです。この場所は、どのような場所だったかというと、偶像崇拝や異なる宗教が蔓延した場所でした。そのため、ユダヤ人からは避けられていた場所でした。そのような土地で、イエス様は一人の女に出会いました。この女性は複雑な事情を抱えた人でした。過去に5人の夫がいたが別れて、その時は1人の男性と同棲中でした。どのような事情でそのようなことになったのかは記されていません。しかし、彼女は5回の結婚生活に破綻を来たしてしまいました。彼女は、多くの男性との関係を持っても、心が満たされず、渇きを覚えていました。
先ほどのイエス様の御言葉は、このような女性に対して向けられた言葉でした。彼女は、水を求めに井戸まで来たわけですが、そのような彼女に対してイエス様は、この世のものではあなたの渇きは満たされない、と言われました。「わたしが与える水」、すなわち聖霊こそが、全ての人の心の渇きを満たすことのできる命の水なのだと教えられました。それは、私たちすべてに対して向けられた言葉でもあります。私たちは色々なモノや人で、自分の心の渇きを埋めようとすることがありますが、しかし、本当の意味で私たちを満たすことができるのは、イエス様を通して与えられる聖霊しかないということが言われています。そしてそれは、ただ注がれるだけではなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあります。聖霊は、私たちの心の内に宿り、豊かな命の水を、一生涯にわたって、わき出す泉となります。これは、イエス様を信じるすべての人に与えられる恵みです。

2.聖霊は礼拝に導く
そのように、泉にたとえられた聖霊は、自分の心を潤すだけにとどまりません。その水は、神様から私たちのもとに流れ来て、また神様のもとへ帰ってゆく命の水です。その中で、聖霊は私たちを、父なる神様、イエス様を仰ぎ見、礼拝するように導かれます。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(23~24節)」。
サマリアの人々も、礼拝を行っていました。しかし、イエス様は「あなたがたは知らないものを礼拝している」と指摘されました。彼らは、偶像を拝んだり、異なる神々を拝んだりしていましたが、そこには人格的な関係はありませんでした。知らないものを拝むとき、人は色々な規則や儀式を付け加えます。そして、礼拝することは義務になります。礼拝しないと罰が下る、何か悪いことが起こる、そのような恐れから自分の神々を拝むのです。しかし、聖霊が導かれるのは、そのような恐れに縛られた関係ではありません。聖霊は、私たちを、父なる神様、イエス様との人格的な交わりへ導いて下さり、私たちは神の子どもとして、天のお父様、イエス様を礼拝することができるようになりました。私たちは、そのような主との自由な交わりを喜ぶようになるのであり、色々な規則の縛りから解放されます。そして、礼拝は義務ではなくなります。
ここで、15節のサマリアの女の言葉に注目してみたいと思います。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。彼女は、飲み水のことを念頭に置いて話していますが、私たちは、「命の水」である聖霊を求める際、同じような態度をとってしまうことがないでしょうか?自分の問題や苦しみが大きい時、それが取り除かれることを、神様に向かう目的としてしまうことがあるかもしれません。しかし、もしそのようなことが続くと、極端な話、自分の願いが叶ったら、礼拝には「もう来なくてもいい」ということになりかねません。
しかし私たちが礼拝をするのは、私たちが満たされ、問題がなくなることが目的ではありません。23節にあるように、「父が求めておられるから」私たちは礼拝をします。それは、父が子を愛するように、また、子が父を愛するように、愛に基づいた人格的な関係です。聖霊はそのような礼拝へと私たちを導いて下さいます。

3.真理をもって礼拝する
24節には「霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。これまで、聖霊について語ってきましたが、では真理をもって礼拝するとはどういうことでしょうか。
真理とは何でしょうか。それはまず、イエス・キリストご自身のことです。当時もサマリアでは様々な偶像礼拝が行われていたようですが、私たちは、偶像や人を礼拝するのではなく、真理であるイエス・キリストを礼拝します。そのことは、この直後の25~26節にも示されています。サマリアの女は、イエス様の話を聞いて、「キリストと呼ばれるメシアが、私たちに一切のことを知らせてくださる」と言いました。それに対してイエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われました。イエス様がメシアであり、一切のことを知らせてくださる真理であることを、示されました。私たちが真理をもって礼拝をするということは、このイエス様を礼拝することです。
しかし、ここで言われている真理は、もう一つの意味を持っています。それは、自分のありのままの姿ということです。18節で、イエス様はサマリアの女に、「あなたは、ありのままを言った」と言われました。この「ありのまま」とは、原文では真理と同じ語源の言葉が使われており、新改訳聖書ではこれが「本当のこと」と訳されています。
サマリアの女は、イエス様と出会った時、最初は自分のことを何も話そうとはしませんでした。しかし、イエス様と話をする内に、少しずつ自分のありのままの姿が出てくるようになっていきました。彼女は、過去に5人の夫がいたという、複雑な事情を抱えていました。しかし、そのような彼女の内面を、イエス様は知っておられました。その上で、彼女を受け入れ、全く対等な立場でお話しをされています。同じように、イエス様は私たちの心の内側も、すべて知っておられます。その上で、イエス様は、私たちのために、十字架にかかり、命を捨てて下さったのです。だから私たちは、自分のありのままの姿で、イエス様のもとに行くことができます。真理をもって礼拝するとは、そのような自分のありのままの姿で、主を見上げ、礼拝をささげるということです。
今、私たちは新型コロナウイルスの影響で、マスクをして生活をしなければならなくなりました。この生活は、ウイルスの流行が収まっても、しばらくは続くようです。そのような中で、ニュース等を見ていると、多くの人々は心にもマスクをかけて、自分自身の内に閉じこもっているように思われます。しかし主は、そのような私たちの心の内に入ってきて下さり、永遠の命に至る聖霊の水を、わき上がらせて下さいます。私たちが心のマスクを取り去り、主を見上げるならば、どのような状況にあっても、そのありのままの姿でささげる礼拝を主は喜んでくださいます。

4.結び
聖霊が私たちの上に降って、私たちの心の渇きを潤し、霊と真理をもって礼拝するように導いてくださいました。これが、聖霊降臨、ペンテコステです。それは今も、私たちの信仰生活の中で、起こり続けています。私たちは御国に至るまで、永遠に主を礼拝する者とされてゆきます。最後に、ヨハネの黙示録22章1~5節を読んで終わります。
「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」

 

 

サマリアで福音が告げ知らされる

2020年5月24日 礼拝メッセージ

使徒言行録8章1~25節

今日の箇所は、ステファノという人が殺害された時のことから始まっています。
使徒言行録では、先週まで読んできた通り、聖霊が降った後、福音が多くの人々に広がっていったことが伝えられています。先週の箇所にあったように、足の不自由な人が歩けるようになる奇跡や、様々な不思議な業が使徒たちによって行われ、信じる人々はますます増えてゆきました。ステファノは、使徒ではありませんでしたが、使徒たちによって任命された7人の教会奉仕者の内の一人でした。彼は、聖霊に満たされ、多くの不思議な業を行っていましたが、ユダヤ人からねたまれ、石打ちの刑に処されることになってしまいました。そして、このステファノの殺害をきっかけとして、エルサレムの教会は、それまでにない大きな迫害を受けることになりました。イエス様の弟子たちは、使徒たちを除き皆、エルサレムから去り、ユダヤとサマリアの地方に散って行きました。
それは、教会にとっては大きな苦しみの出来事であったと思います。共に礼拝していた人々はバラバラにされ、住み慣れた町を離れなければなりませんでした。しかし、そのことによって、福音がより広い地域に広がり、救われる人々が起こされてゆきました。
それは正に、聖霊がなされた業でした。聖霊の力によって、人間の力では届けることのできないところまで、福音が届けられてゆきました。

1.サマリアという土地について
今日の箇所は、サマリアで、福音が告げ知らされたことを伝えています。サマリアは、ユダヤとガリラヤの間の地方で、地理的にはエルサレムからそれほど遠くない場所でしたが、そこはユダヤ人にとっては、近寄りがたい場所でした。
サマリアは、元々はイスラエルの町の一つで、列王記が語っている時代、イスラエル王国・ユダ王国が共存していた時代には、サマリアはイスラエル王国の首都でした。イスラエルの王様は代々、このサマリアで王に即位しました。ところが、イスラエルの人々が主に背き、偶像を礼拝したことから、サマリアは主によって滅ぼされ、敵であるアッシリア帝国に占領されてしまいました。そして、そこに住んでいたイスラエルの人々はアッシリアの別の町々に連れて行かれ、その代わりにバビロンやその他の色々な地方から連れて来られた人々が、サマリアの住民となりました。この人々は、主を知らず、異なる神々を信じていました。そこで、一人の祭司が連れ戻され、彼らにイスラエルの神、主を畏れ敬わなければならないと教えましたが、彼らは自分達の神々の偶像を作り、それらを拝みました。彼らは、主を礼拝すると共に、自分達の風習に従って偶像の神々をも礼拝しました。それ以来、サマリアの人々は、そのように主を礼拝することと偶像礼拝を混ぜ合わせるようになりました。本来は唯一の神である主を礼拝することと、他の神々を礼拝することは相容れないはずでした。しかし、人々は偶像礼拝と主を礼拝することを混ぜ合わせてしまいました。それによって、ユダヤ人はサマリア人との交わりを絶つようになりました。使徒たちの時代でもそれは同じで、イエス様の弟子たちにとってサマリアは、偶像崇拝と異教のシンボルのような場所であり、避けるべき場所でした。

2.悪霊との戦い
しかし、そのようなサマリアにも、聖霊の力によって、福音が伝えられてゆきました。その時、何が起こったでしょうか。
今日の箇所の6~8節で、フィリポがサマリアに行った時の様子が伝えられています。
「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ」
ここで、フィリポによって、汚れた霊が追い出されるという出来事が起きています。このように、汚れた霊、もしくは悪霊が、追い出されるという出来事は、新約聖書の中で繰り返し伝えられていることです。特に、先週お話しした病をいやすという奇跡と合わせて、宣教活動の始まりの時によく起こった出来事でした。福音書を読むと、イエス様が地上で生活されていたころ、十二使徒を任命された際、彼らに病をいやし、悪霊を追い出す力をお授けになったと書かれています。それは、悪霊というものが、病気と同じ位、人々の間に強く根付いているということを現わしています。聖霊は神様を証する霊ですが、悪霊とは、人々を真の神様から引き離す働きをする霊です。偶像崇拝、異教が浸透していたサマリアでは、特にそのような霊の働きが強かったと言えます。その場所で、福音を宣べ伝えようとするとき、必然的に偶像崇拝や異教を通して働く悪霊との戦いに入ってゆくことになりました。

3.権力・お金の縛りからの解消
9節以降では、サマリアの人々がどのような信仰を持っていたのかについて書かれています。そこから私たちは、悪霊というものがどのように人々を支配するのかを知ることができます。
まず、サマリアには、シモンという魔術師がいて、人々はその魔術に心を奪われていたと書かれています。この魔術が具体的にはどのようなものであったのかは分かりませんが、神様抜きで行う不思議な業が魔術です。実際、出エジプト記を読むと、エジプトにはたくさんの魔術師がいたと言われていますし、使徒言行録の中でも今日の箇所以降、使徒たちはたびたび魔術師との対決を迫られています。
魔術の目的は、人々を驚かせ、自分を高めることです。今日の箇所でシモンは、自分のことを偉大な人物だと自称しています。不思議な業を行うことで、自分自身をあがめるように人々を導くのです。これこそが、悪霊の働きであると言えます。悪霊は、力や権力と結びつき、人々を支配しようとします。
それとは逆に、聖霊の働きは、常に、主であるイエス・キリストを証します。聖霊に満たされると、私たちは神様の偉大さを知ると共に、自分たちの貧しさを知ります。貧しく、罪深い自分のために、イエス様が十字架にかかって下さったことに感謝します。聖霊に満たされた弟子たちは、このイエス様をサマリアで証しました。フィリポもたくさんの不思議な業をサマリアで行いましたが、その目的はイエス様を証することであり、自分を高めることではありませんでした。
次に、サマリアの人々が福音を受け入れたことが伝えられています。彼らは、フィリポから福音を聞いて、信じて、バプテスマを受けたと言われています。しかし、ペトロとヨハネがサマリアに来た時、彼らの上にはまだ聖霊が降っていなかった、と言われています。もしかすると、彼らが信じたのは、魔術師シモンが行ったような不思議な業をフィリポが行うのを見たからであったのかもしれません。彼らの中では、イエス様を信じることは、魔術師や他の神々を信じることを同じ、選択肢の一つであったのかもしれません。いずれにしても、悪霊が彼らの信仰を妨げていたことは確かです。特に、魔術師シモンは、ペトロとヨハネが来て、彼らが手を置くと人々が聖霊を受けるのを見て、お金でその力をくださいと願いました。神の力を、お金で買えると彼は思っていたのです。なんと恐ろしいことでしょうか。しかし、このようなことは、私たちも気づかない内に行ってしまう危険があります。多くの日本人は、お金を払ってお守りを買い、お賽銭をし、お布施を払って先祖の供養をしてもらいます。それらの行いもある意味で、神様との間で取引を行おうとするものです。しかし、神様はお金を払わなければ守ってくれないのでしょうか。そのようなことは決してありません。私たちクリスチャンも、神様に献金をしますが、これは、神様への感謝を表すもので、しなければ罰が降るとか、多く献金したから多く祝福があるというようなものではありません。しかし、魔術師シモンは、お金で神様の力を変えると思いました。神様の力とお金を同等のものとみなしていたということです。それだけ彼は、お金の力にしばられていたということが言えます。ここにも、悪霊の力が働いており、それはこのように、お金を通して人々を支配しました。

そのようなシモンに対して、ペトロは言いました。22~23節です。
「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」
ペトロやヨハネ、またフィリポたちがサマリアに来たのは、偶像崇拝を行い、悪霊の支配のもとにあった人々を裁くためではありませんでした。彼らがその支配から解放され、イエス・キリストのもとに立ち返るようになるためでした。彼らが聖霊を受けたのは、正にそのような人々に福音を告げ知らせるためでした。エルサレムの次に弟子たちが最初に遣わされた場所がサマリアであったことには、そのような意味があると思います。

4.結び
今日は、聖霊によって、弟子たちがサマリアで福音を告げ知らせたという出来事について聞きました。では、皆さんにとっての、サマリアとはどこでしょうか。異なる神々が拝まれ、権力やお金を通して人々が悪霊の支配のもとに置かれている場所とは、どこのことでしょうか?それは、この日本社会を指しているかもしれません。確かに、日本の置かれている現状は、色々な意味で、当時のサマリアに近いものがあると思います。またはそれは、私たち自身の心の中の状態を指しているかもしれません。わたしは今回この使徒言行録8章を読んで、自分自身の中にも、人から注目されたいという思い、また、お金に支配された価値観があることに気づかされました。悪霊は私たちクリスチャンをも、そのような古い価値観に引き戻そうと、日々惑わしてきます。しかし、そのような私たちのために、また、罪に支配されたこの世界のために、イエス様は来て下さいました。そして、聖霊を受けた使徒たちは、真っ先にそのような場所に福音を告げ知らせて行きました。聖霊は今も、私たちを全ての束縛から自由にし、主にある新しい生き方へと招いて下さいます。

 

 

ナザレの人イエス・キリストの名によって

2020年5月17日 礼拝メッセージ

使徒言行録 3章1~10節

今週も、先週に引き続き、使徒言行録を読んでゆきます。5月はこれまで、使徒言行録を続けて読んできました。最初に1章を読んだ時にお話ししたことですが、この使徒言行録は、使徒の働きとも言われ、初代教会の使徒たちの働きについて記しています。しかし、使徒の内に働いていたのは聖霊であり、聖霊がどのように働かれたのか、ということが、この文書のテーマであると言えます。先週読んだ2章では、聖霊が降ることによって、人々に力が注がれ、そして教会が生まれました。そして、2章43~47節には、その最初の教会で、救われた人々がどのようなことを経験したのかが書かれています。
43節にはこうあります。
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」

聖霊を受けた使徒たちには、多くの不思議な業としるしを行う力が与えられました。
しかしそれは、使徒たち自身に力が与えられた訳ではありませんでした。
それは、イエス・キリストの力が、使徒たちを通して、証されたということでした。
それは、どのように起こったのかと言うと、今日の箇所にあるように、イエス・キリストの御名によって祈るとき、イエス様がなされたのと同じような驚くべき出来事が起きました。それは、使徒たち自身に力があったのではなくて、イエス・キリストという御名前に力があったということです。そのように、聖霊の力は、イエス・キリストの御名を通して具体的に現わされてゆきました。今朝は、そのイエス様の御名の力が、今日の箇所でどのように現わされたのかを見ていきたいと思います。

1.病を癒す力
今日の箇所には、生まれながら足の不自由な男が出てきます。生まれながらということで、何らかの先天性の病気があったことと思われます。後の箇所を読むと、彼は40歳を過ぎていたと言われています。人々は彼が良くなるとは思っていませんでしたし、彼自身も、そのようなことはあり得ないと思っていたでしょう。ですから彼が毎日、神殿の「美しい門」のところに置いてもらっていたのは、癒してもらうためではなく、金銭を恵んでもらうためでした。考えてみると、それはとても残念なことです。全知全能の神様を礼拝する神殿に来ていながら、お金を恵んでもらうためだけにその門のところで座りこんでいたのですから。しかし今日の箇所は、ペトロがイエス・キリストの御名によって祈った時に、彼が歩けるようになったということを記しています。そして、それを見た人々は、我を忘れるほど驚いた、と記されています。
使徒たちの伝道の第一歩は、このような足の不自由な人を癒すという奇跡的な業によって始められました。これは、イエス様ご自身の伝道の御業を見ても、同じことが言えます。イエス様は、この世に来られて、まずはじめに病人のもとに行かれて、癒しの業をなさいました。イエス様は、すべての人を救うためにこの世に来られましたが、病の人々に特別な計画を持っておられることもまた、真実です。イエス様は、生まれつきの盲人を癒された時、その人が盲人であったのは「神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9:3)」と言われました。そして、その癒しの出来事をきっかけに、福音は大きく広がってゆきました。今日の箇所でも、同じことが起きています。この男の人が歩けるようになったことは人々に衝撃を与え、3章から4章にかけて、ユダヤ人の間で議論が生じると共に、イエス様の証が人々に伝えられていきました。そのように、主は病を癒されることを通して、死を滅ぼしたイエス・キリストの御名の権威がどれほど大きなものかを、人々に示して下さいました。このことは、今に至るまで、変わることはありません。神様にしか癒すことができないと言われる病気が癒されるということを、私たちはしばし経験します。私たちは、身体を持っている限り病や死から完全に自由にされることはできませんが、それを越えて死から復活されたイエス・キリストの御名によって、病が癒されるという御業を地上の人生の中で経験してゆきます。

2.新たに生まれさせる力
しかし、病を癒すことが、宣教の目的であった訳ではありません。イエス・キリストの名による救いを人々に告げ知らせることが、イエス様の、使徒たちの、また私たちの宣教の目的です。救いとは、死から命へと移されることであり、全く新たに生まれ変わるということです。今日の箇所でも、足の不自由だった男は、イエス様の御名によって全く新しく変えられていることが分かります。彼ははじめ、自分では歩けなかったので、人に運んでもらって神殿の門のところに来ました。自分の意思でそこに来たのか、誰かの勧めでそこに来たのか、それは分かりません。しかしいずれにしても、特に神殿に行きたいという思いがあった訳ではなさそうです。彼はただ、そこを通る人々に金銭を恵んでもらおうとしていたのでした。ペトロとヨハネに声をかけられた時も、彼はただ、何かもらえるのではないかと思って、二人を見つめていました。彼の頭の中は、お金のこと、そして自分のことで一杯であったでしょう。そのような彼でしたが、足を癒された後はどうでしょうか。彼は「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った(8節)」。全く歩けなかった者が、躍って歩き回るようになりました。ただそれだけでなく、神を賛美する者に変えられました。そして、それまでは入ろうとしなかった神殿の中へ、喜んで入っていくようになりました。この驚くべき変化は、イエス・キリストの御名によって、彼の体だけでなく、彼の内面が全く新しくされたことを現わしています。
私たちも、初めて教会に来た時は、この男のようであったかもしれません。神様を求める思いよりも、自分の問題や疑問を解決して欲しいという思いが先行していたかもしれません。自分自身を振り返るとそのように思います。内面の変化は、外面にも現れます。皆さんは、自分の昔の写真を見て、自分はこんな顔をしてたのか、と思うことはありませんか?私もたまに自分の昔の写真を見ると、ひどい顔をしているなと思うことがあります。また、内面の変化は、私たちの行動にも変化をもたらします。自分の利益や、自分の喜びを求める生活から、神様の御心や、兄弟姉妹の必要のために、生きるようになっていきます。これは、この世の価値観とは全く逆の価値観です。ですから、今日の箇所でペトロも言っています。「わたしには金や銀はない」と。自分たちは金や銀を求める生き方をしているのではない、とペトロは宣言しています。それよりもはるかに素晴らしい、イエス・キリストの恵みの中を生きているということです。生まれつき足の不自由だった男も、またここにいる私たちも、その同じ恵みの中を生きる者とされました。それは、ナザレの人イエス・キリストの御名には、そのように人を変える力があるからです。

3.再び立ち上がらせて下さる力
イエス・キリストの御名は、そのように、私たちを全く新しい命に生かし、立ち上がらせることができます。これは、一度きりのことではありません。イエス・キリストを信じ、救いをいただいた後も、私たちは何度もつまずきを経験します。身体が弱ることもあれば、信仰の挫折を経験することもあります。生まれつき足の不自由だった男に「立ち上がり、歩きなさい」と言ったペトロ自身、何度もつまずいた人間です。イエス様が捕らえられた時、ペトロはイエス様のことを知らないと三度も言いました。しかし、そのようなペトロを、主は再び立ち上がらせて下さいました。そして、イエス様の憐れみによって再び立ち上がったペトロは、そのイエス様の御名によって、こんどは他の人々を立ち上がらせるために、手を差し伸べる存在になりました。それは、彼自身に力があったのではなく、彼を立ち上がらせたイエス・キリストの御名に力があったということです。私たちもまた、このイエス・キリストの御名によって、日々、立ち上がらせていただいている者です。イエス・キリストの御名は、病の人を立たせ、新しい命を与え、そしてつまずく私たちを何度でも立ち上がらせることのできる力です。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
聖霊は、そのように、今日も、私たちに呼びかけておられます。

 

聖霊が降る

2020年5月10日 礼拝メッセージ

使徒言行録2章1節-13節

今日の聖書箇所は前回から引き続き、使徒言行録です。先週の聖書箇所の中の1章8節には次のようにありました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」
これは、聖霊が降る、というイエス様からの約束の言葉でした。その言葉が実現したのが、今日の使徒言行録2章です。これが、ペンテコステ(聖霊降臨)という出来事です。
ペンテコステとは、ギリシャ語で50という意味です。2章1節にあるように、この日は五旬祭と呼ばれていました。それは、過ぎ越しの祭りから50日を経過した日に祝われるユダヤ人の祭りでした。この祭りは刈り入れの祭りとも言われ、麦の収穫を感謝する祭りでした。その刈り入れの祭り、五旬祭の日に、聖霊降臨の出来事は起こりました。そこに、神様のご計画があるように思います。神様の御言葉という種は、旧約聖書の時代から当時まで、ずっと蒔かれていましたが、教会という形でそれが実を結んだのは、その時が初めてであったからです。聖霊が降ったことにより、イエス様を信じる全ての人々に新しい力が注がれ、教会が誕生しました。それが、ペンテコステの出来事です。
今日は、聖霊が降ったことによって、人々がどのように変えられ、教会が生まれることになったのかを、その日に起こった三つの出来事を通して見てみたいと思います。

1.激しい風:聖霊の命の息吹を受けた
聖霊降臨の日に人々が最初に経験したことは、2節にあるように「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たということでした。
「天から聞こえ」とあるように、それはただ強風が彼らのいたところに吹いたということではありませんでした。天から、すなわち神様のおられるところから、彼らのいたところに、この世のものとは思われないほどの、激しい風のような音が響いたということです。天とは、どこのことを指していたでしょうか。聖書は、雲の上に天国があるということを教えている訳ではありません。しかし、先週読んだ使徒言行録1章では、イエス様が復活された後、天に向かって上げられて行き、雲に覆われて見えなくなったということが伝えられていました。これは使徒たちが実際に目にした証言です。従って天とは、物理的な場所であるというよりも、使徒たちが実際に見た、イエス様が上って行かれた所、という意味がありました。
その天から、今度は激しい風が吹いて来るような音がありました。使徒たちを含め、一緒に集まっていた120人ほどの人たちは、どれほど驚いたことでしょうか。しかしその音は、彼らに恐怖を与えるためのものではありませんでした。イエス様ご自身が約束された通り、聖霊が彼らの上に降るということが実際に起こっていることを示す現象の一つでした。原文で、激しい風の「風」という単語は、「息」とも訳される単語で、この息とは、初めに人間が造られた時にアダムに吹き込まれたものでした。命の息である神の霊はペンテコステのこの時、激しい風のように主イエスを待ち望む人々の上に注がれました。それによって、人々はイエス様にある新しい命を受ける者となりました。
そのように、聖霊が降るということは、神様からの新しい命の息吹を受けるという意味がありました。当時、弟子たちは、すでにイエス様を信じていましたが、まだ教会は存在していませんでした。しかし、神様から聖霊の命の息吹が吹き込まれて、教会が誕生しました。その息吹は、私たちの教会の内にも今なお根付き、力を与え続けています。

2.炎のような舌:燃える御言葉を託された
彼らが二つ目に経験したことは、3節のとおりです。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。
ペンテコステの日、最初に彼らは激しい風のような音をその耳で聞きましたが、続いて彼らが経験したことは、言葉では言い表すことのできないような不思議な光景を目の前に見ることでした。その光景とは、炎のような舌が彼らの上に分かれ分かれに現れるというものでした。炎、または火というものは、聖書の中では、神様ご自身の存在を現わすものです。旧約聖書では、モーセが、火の中を下ってシナイ山に来られた主を見ていますし、エリヤも、主を呼び求めたとき、天から火が降るのを見ました。しかし、旧約聖書では、火は裁きや清めの象徴であり、人間はその前に立ちえない者でした。例えばイスラエルの民は、モーセに対して次のように言っています。
「一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか(申命記5:26)」
彼らは、自分たちが主の火に焼き尽くされないように、代わりに神の言葉を取り次ぐようにモーセに懇願しました。そのように、旧約聖書の時代には、限られた人々にのみ神の霊が注がれ、御言葉が取り次がれました。しかし、今日私たちが読んでいるペンテコステの出来事において、それは全く変えられました。神の火は、一人一人の上に降り、そして今も燃え続けているのです。炎のような舌、とありますが、「舌」とは、次の節に出てくる「言葉」と訳されている単語と同じものです。ですからそれは、神様の御言葉を指し示しています。炎のように燃える神の御言葉は、聖霊によって、私たち一人一人の信仰者に託されました。それはイエス様を信じる私たちは神の子どもとされ、神の裁きから守られているからです。特別な人だけが御言葉を受け取ることができるのではなく、すべての人が、聖霊の火で燃える御言葉を受け、その愛、力、恵みにあずかることができるようになりました。

3.ほかの国々の言葉:御言葉を語る者とされた
そして彼らが三つ目に経験したこと、それは、ほかの国々の言葉で話し出した、ということでした。4節のはじめには、「一同は聖霊に満たされ」とあり、この出来事が聖霊によるものであることが伝えられています。その霊が語らせるままに、彼らはほかの国々の言葉で話しだした、とあります。ほかの国々の言葉、とは、9節以下にあるように、現在の中東地域を中心とした様々な国や地域で話されていた言葉でした。ペンテコステの出来事を経験した120人の人々はガリラヤ出身の人々でしたから、本来それらの言葉を話せるはずがありません。ところが、彼らは聖霊を受けたとき、それらの言葉を話すものとなりました。しかも、ただ言葉を話すのではなく、11節で言われているように、「神の偉大な業」を彼らの言葉で話したということです。
このことは、神様が私たち人間の言葉を通して働いて下さるということを表しています。イエス様の福音は、多種多様な人間の言葉を通して、世界中の人々に宣べ伝えられていくようになったということです。私自身の経験について少しお話ししますと、私は東京の教会でバプテスマを受けてすぐに、転勤で南米のチリに行くことになりました。私は現地のことについてほとんど何も知らず、また現地語であるスペイン語も全く分かりませんでした。そのような私でしたが、近所の教会に行き、礼拝に出席していました。初めは殆ど何も分かりませんでしたが、不思議とすぐに内容が大体分かるようになっていきました。文化も、言語も全く異なる環境の中にあって、福音を通して理解し合えるということに、素直に感動した覚えがあります。
イエス様の福音は、この世の知恵によるのではなくて、聖霊によって伝えられるのだということを経験させていただく時となりました。聖霊が降ったことにより、御言葉が一人一人の信仰者に託され、そしてその一人一人の言葉を用いて、神様は福音を伝えていこうとしておられます。私たちの語る言葉が足りなくても、そのありのままの私たちを用いて、福音が伝えられていきます。そのようにして、イエス様が1章で約束された通りに、聖霊を受けたすべての人が、イエス様の証人として遣わされることになりました。

4.結び
これらの聖霊降臨の出来事を受けて、14節以降は使徒ペトロが立ち上がって、御言葉を力強く証してゆきます。その結果、3000人もの人々がその日にペトロの言葉を受け入れてイエス様を信じる者となりました。しかも、その大勢の人々は、「皆一つになって、すべての物を共有にし(2章43節)」ていたと言われています。それぞれ色々な地方から集まり、色々な言葉を話す人々が、一つの教会として、建て上げられてゆきました。それは、聖霊が降ったことによる神様の御業でした。そのことがあったからこそ、私たちも今、このように教会につながることができます。そこには、同じ神様からの聖霊の力が働いています。聖霊降臨の出来事自体は、もう既に起こったことですが、私たちも日々、聖霊が注がれることを、必要としています。聖霊によって、新しい命の息吹を与えられ、御言葉に心燃やされ、また御言葉を証しする力が与えられることを、求めています。聖霊降臨の出来事が起こる前、120人の人々は、心を一つにして熱心に祈っていたと書いてあります。私たちもそのように心を一つにして祈るなら、今も、聖霊を受けて、新しい力をいただくことができます。この神様からの力に満たされて、今月も歩んでいきましょう。

 

 

不可能を可能にする聖霊の力

2020年5月3日 礼拝メッセージ

使徒言行録 1章3節-11節

今週から、聖書は使徒言行録に入ります。今月はペンテコステ、日本語で聖霊降臨日を迎えます。使徒たちの上に聖霊が降ったことにより、教会が誕生しました。使徒言行録は、その初代教会の使徒たちの働きについて記録したものですが、それはただ彼らの人間的な活動報告のようなものではありません。それは、彼らの内に働いていた聖霊の働きを記録したものであり、聖霊こそ本当の主人公であると言えるでしょう。

その聖霊について、今日の箇所の1章8節が、具体的に説明をしています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
聖霊は、それを受ける者に力を与えるものであるということが語られています。
力とは、原文のギリシャ語では、ドゥナミスという単語で、これは「可能性、能力」という意味が語源になっており、そこから「力」という意味が生まれました。
すなわち聖霊とは、可能性を与える力であるということ、不可能を可能にする力であるということです。人間にとって到底不可能に思われることも、神様にとっては不可能ではありません。そのことを、聖霊の働きを通して、私たちは経験することができます。
私たちが今日、生かされているということ、そして主を礼拝しているということ。離れていても、心を一つにしてこのように礼拝ができるということ、それこそが、当たり前のことではなく、生ける神様の霊である聖霊の力のゆえであると言えます。
私自身の個人的な体験としては、去年の息子の出産の出来事がありました。一つの命が生まれるという不思議と驚きを、夫婦で体験させていただきました。特に、前に妻も証をさせていただきましたが、その前に私たちは三回の流産の経験をしていました。ですから四度目に命を授かった時、まただめなのではないか、という不安がありました。しかし、神様は息子を守って下さり、とても元気な子が生まれてきました。そのことは、不可能を可能にして下さる神様がおられるという思いを私たちに新たにさせて下さいました。
一人の人が産まれることは、そのように奇跡的な出来事です。しかし聖書は、もっと大きな奇跡を記しています。それは、神の御子であるイエス様が生まれたということです。聖書は、マリアが聖霊によって、イエス様を身ごもったと記しています。男女の関係によらず、聖霊によって子どもが宿るということは、人間的に考えると全く不可能なことです。しかし、それを可能にされたのが聖霊です。聖霊の力とは、正にそのような不可能を可能にする力です。その聖霊の力によって、私たちは神様の御業を体験してゆきます。

1.聖霊の力は、イエス様を証する
聖霊の力によって、私たちはイエス様を証するようになっていきます。
私たちが世の中で「力」を用いるとき、それは自分の目的のためです。私たちは仕事や生活のために、自分の力を使います。また、社会からの地位や評価を得るために、自分の能力を用います。しかし、聖霊の与える力は、そのような世の中での力や能力とは全く異なります。それは、自分自身のことではなく、イエス様のことを証するものです。
6節で、使徒たちはイエス様に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。この質問の背景には、彼らがイエス様を、イスラエルを再建するこの世のリーダーの様な存在にしたて上げようとする思いがありました。実はこのような思いは、イエス様が十字架にかかられる前から、弟子たちの中にあったものでした。しかし、イエス様は、ご自分が来られたのは、この世的な目的のためではないと繰り返し言われました。今日の箇所でも、イエス様は彼らに、四十日にわたって、神の国について話された、と書いてあります。それにも関わらず、弟子たちはイエス様に、地上の王になって欲しいと願い続けたのでした。
私たちも、時として、イエス様にそのような存在になって欲しいと願うことがあるかもしれません。戦争のない世の中にして欲しい。疫病のない世の中にして欲しい。たとえばそのような願いは、多くの人が持つ自然な願いです。イエス様は、ご自分に寄り頼んで願う私たちの祈りを、聞いて下さいます。しかし、私たちの願いをこの地上で実現させることが、イエス様が地上に来られた理由でしょうか?そうではありません。イエス様が来られたのは、罪の支配するこの世から私たちを贖い出し、御国での永遠の命を与えるためでした。
聖霊の力とは、イエス様の福音の真理を私たちに悟らせて下さる力であり、また、それを私たちに宣べ伝えさせて下さる力です。ですから、たとえどんなに力強い人であっても、どんなに魅力的な人であっても、イエス様について証をしないなら、その人の働きは聖霊の力によっていません。これは、とても注意が必要です。イエス様の復活を実際に見た使徒たちですら、この世の王国を求めてしまいました。私たちも、自らの行いの動機が、自分を高めることや、人の評価を得ることになっていないか、点検をする必要があります。しかし、私たちは、聖霊の力を受けているなら、自分自身には何の力もなくとも、イエス様を証する者とされてゆきます。使徒たちも、そのような聖霊の力によって、大胆にイエス様を証していく者とされました。

2.聖霊の力は教会を通して働く
聖霊の力についての二つ目のポイントは、それが教会を通して働くということです。
8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると」とあるように、聖霊降臨の出来事は、信徒の共同体に与えられました。それによって、教会がこの世に生まれました。そして今でも、聖霊の力は、教会を通して働いています。
旧約聖書の時代にも、神の霊の働きはありました。しかし、それは、神様から直接、個人に与えられるものでした。例えばサムソンは、神の霊が彼の上に降った時、素手で獅子を引き裂くことができました。そのような不思議な出来事も、主が生きておられるということを示していました。しかし、イエス様が復活され、天に上られ、聖霊を送って下さってからは、主の霊は、教会を通して働くようになりました。教会を通して、イエス様が宣べ伝えられ、人々が救いにあずかるためです。教会を通して、聖霊の力が発揮され、人の力ではできないことができるようになっていきます。使徒言行録は、聖霊によって教会が誕生した以降の、驚くべき証で満ちています。それを読むたびに、私たちも、教会を通して、同じ聖霊の驚くべき力にあずかることができるということを知ります。教会は、人の集まりではなく、キリストのからだであり、そのキリストを証する聖霊の力が満ち溢れたところです。私たちは、その力を共に経験し、分かち合ってゆく者です。

3.聖霊の力は、地の果てまで広がってゆく
聖霊の力についての三つ目のポイントは、聖霊の力というものは、自分の中だけ、自分の周辺にだけにとどまらず、地の果てにまで、広がってゆくということです。
弟子たちは、先ほどの6節のイエス様への質問に現わされているように、イスラエルのことだけに関心を持っていました。実際、イエス様も、「エルサレムから離れないように」と教えられています。そして弟子たちは、今日の箇所の次に出てくるように、泊まっていた家の上の部屋に集まって、祈っていました。しかし、ペンテコステを経験した弟子たちは、今日の御言葉にあるように、エルサレムからユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てに至るまで、イエス様のことを証するために、遣わされて行きました。それは、聖霊の力が自分のいる場所にだけとどまらず、イエス様の福音が世界中に伝えられてゆくためでした。聖霊は、人間の力では到底越えることのできない壁を壊し、その力が自由に広がるようにして下さいます。私たちにとっても同じで、私たちに降る聖霊の力は、私たち自身から、私たちの家族、また教会へ、そして自分が想像もしなかった人のところまでも広がってゆきます。そのようにして、世界中の人々がイエス様の救いにあずかることが、神様のご計画でした。

4.結び
そのように、聖霊の力とは、私たちの計画をはるかにこえて、私たちが到底不可能だとしていたことをも、可能にしてしまう、神様の御力です。私たち自身は、使徒たちがそうであったように、元々イエス様を証するにふさわしい人間ではありません。しかし、聖霊の力が降る時、私たちは内側から変えられ、主イエスを証する者とされてゆきます。聖霊は、そのような私たちが教会につながり、御言葉を証するようにして下さり、それも世界中にその福音を伝える者として下さいます。そのような驚くべき力を、私たちは受けています。
ですから、祈りましょう。その偉大な聖霊の力が、今なお私たちの上に降るように。弟子たちがある家の上の部屋に集まっていた時と同じように、私たちも今、教会には集まれずに、それぞれの場所で主を礼拝しています。そして、場所は関係なく、その上の部屋の時と同じように、神様は熱心に求める祈りに、応えて下さいます。不可能を可能とされる聖霊の力が、私たちの上に、私たちの教会の上に、私たちの住むこの世界の上に、今注がれるよう、ご一緒にお祈りしてゆきましょう。