聖霊が降る

2020年5月10日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録2章1節-13節

今日の聖書箇所は前回から引き続き、使徒言行録です。先週の聖書箇所の中の1章8節には次のようにありました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」
これは、聖霊が降る、というイエス様からの約束の言葉でした。その言葉が実現したのが、今日の使徒言行録2章です。これが、ペンテコステ(聖霊降臨)という出来事です。
ペンテコステとは、ギリシャ語で50という意味です。2章1節にあるように、この日は五旬祭と呼ばれていました。それは、過ぎ越しの祭りから50日を経過した日に祝われるユダヤ人の祭りでした。この祭りは刈り入れの祭りとも言われ、麦の収穫を感謝する祭りでした。その刈り入れの祭り、五旬祭の日に、聖霊降臨の出来事は起こりました。そこに、神様のご計画があるように思います。神様の御言葉という種は、旧約聖書の時代から当時まで、ずっと蒔かれていましたが、教会という形でそれが実を結んだのは、その時が初めてであったからです。聖霊が降ったことにより、イエス様を信じる全ての人々に新しい力が注がれ、教会が誕生しました。それが、ペンテコステの出来事です。
今日は、聖霊が降ったことによって、人々がどのように変えられ、教会が生まれることになったのかを、その日に起こった三つの出来事を通して見てみたいと思います。

1.激しい風:聖霊の命の息吹を受けた
聖霊降臨の日に人々が最初に経験したことは、2節にあるように「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たということでした。
「天から聞こえ」とあるように、それはただ強風が彼らのいたところに吹いたということではありませんでした。天から、すなわち神様のおられるところから、彼らのいたところに、この世のものとは思われないほどの、激しい風のような音が響いたということです。天とは、どこのことを指していたでしょうか。聖書は、雲の上に天国があるということを教えている訳ではありません。しかし、先週読んだ使徒言行録1章では、イエス様が復活された後、天に向かって上げられて行き、雲に覆われて見えなくなったということが伝えられていました。これは使徒たちが実際に目にした証言です。従って天とは、物理的な場所であるというよりも、使徒たちが実際に見た、イエス様が上って行かれた所、という意味がありました。
その天から、今度は激しい風が吹いて来るような音がありました。使徒たちを含め、一緒に集まっていた120人ほどの人たちは、どれほど驚いたことでしょうか。しかしその音は、彼らに恐怖を与えるためのものではありませんでした。イエス様ご自身が約束された通り、聖霊が彼らの上に降るということが実際に起こっていることを示す現象の一つでした。原文で、激しい風の「風」という単語は、「息」とも訳される単語で、この息とは、初めに人間が造られた時にアダムに吹き込まれたものでした。命の息である神の霊はペンテコステのこの時、激しい風のように主イエスを待ち望む人々の上に注がれました。それによって、人々はイエス様にある新しい命を受ける者となりました。
そのように、聖霊が降るということは、神様からの新しい命の息吹を受けるという意味がありました。当時、弟子たちは、すでにイエス様を信じていましたが、まだ教会は存在していませんでした。しかし、神様から聖霊の命の息吹が吹き込まれて、教会が誕生しました。その息吹は、私たちの教会の内にも今なお根付き、力を与え続けています。

2.炎のような舌:燃える御言葉を託された
彼らが二つ目に経験したことは、3節のとおりです。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。
ペンテコステの日、最初に彼らは激しい風のような音をその耳で聞きましたが、続いて彼らが経験したことは、言葉では言い表すことのできないような不思議な光景を目の前に見ることでした。その光景とは、炎のような舌が彼らの上に分かれ分かれに現れるというものでした。炎、または火というものは、聖書の中では、神様ご自身の存在を現わすものです。旧約聖書では、モーセが、火の中を下ってシナイ山に来られた主を見ていますし、エリヤも、主を呼び求めたとき、天から火が降るのを見ました。しかし、旧約聖書では、火は裁きや清めの象徴であり、人間はその前に立ちえない者でした。例えばイスラエルの民は、モーセに対して次のように言っています。
「一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか(申命記5:26)」
彼らは、自分たちが主の火に焼き尽くされないように、代わりに神の言葉を取り次ぐようにモーセに懇願しました。そのように、旧約聖書の時代には、限られた人々にのみ神の霊が注がれ、御言葉が取り次がれました。しかし、今日私たちが読んでいるペンテコステの出来事において、それは全く変えられました。神の火は、一人一人の上に降り、そして今も燃え続けているのです。炎のような舌、とありますが、「舌」とは、次の節に出てくる「言葉」と訳されている単語と同じものです。ですからそれは、神様の御言葉を指し示しています。炎のように燃える神の御言葉は、聖霊によって、私たち一人一人の信仰者に託されました。それはイエス様を信じる私たちは神の子どもとされ、神の裁きから守られているからです。特別な人だけが御言葉を受け取ることができるのではなく、すべての人が、聖霊の火で燃える御言葉を受け、その愛、力、恵みにあずかることができるようになりました。

3.ほかの国々の言葉:御言葉を語る者とされた
そして彼らが三つ目に経験したこと、それは、ほかの国々の言葉で話し出した、ということでした。4節のはじめには、「一同は聖霊に満たされ」とあり、この出来事が聖霊によるものであることが伝えられています。その霊が語らせるままに、彼らはほかの国々の言葉で話しだした、とあります。ほかの国々の言葉、とは、9節以下にあるように、現在の中東地域を中心とした様々な国や地域で話されていた言葉でした。ペンテコステの出来事を経験した120人の人々はガリラヤ出身の人々でしたから、本来それらの言葉を話せるはずがありません。ところが、彼らは聖霊を受けたとき、それらの言葉を話すものとなりました。しかも、ただ言葉を話すのではなく、11節で言われているように、「神の偉大な業」を彼らの言葉で話したということです。
このことは、神様が私たち人間の言葉を通して働いて下さるということを表しています。イエス様の福音は、多種多様な人間の言葉を通して、世界中の人々に宣べ伝えられていくようになったということです。私自身の経験について少しお話ししますと、私は東京の教会でバプテスマを受けてすぐに、転勤で南米のチリに行くことになりました。私は現地のことについてほとんど何も知らず、また現地語であるスペイン語も全く分かりませんでした。そのような私でしたが、近所の教会に行き、礼拝に出席していました。初めは殆ど何も分かりませんでしたが、不思議とすぐに内容が大体分かるようになっていきました。文化も、言語も全く異なる環境の中にあって、福音を通して理解し合えるということに、素直に感動した覚えがあります。
イエス様の福音は、この世の知恵によるのではなくて、聖霊によって伝えられるのだということを経験させていただく時となりました。聖霊が降ったことにより、御言葉が一人一人の信仰者に託され、そしてその一人一人の言葉を用いて、神様は福音を伝えていこうとしておられます。私たちの語る言葉が足りなくても、そのありのままの私たちを用いて、福音が伝えられていきます。そのようにして、イエス様が1章で約束された通りに、聖霊を受けたすべての人が、イエス様の証人として遣わされることになりました。

4.結び
これらの聖霊降臨の出来事を受けて、14節以降は使徒ペトロが立ち上がって、御言葉を力強く証してゆきます。その結果、3000人もの人々がその日にペトロの言葉を受け入れてイエス様を信じる者となりました。しかも、その大勢の人々は、「皆一つになって、すべての物を共有にし(2章43節)」ていたと言われています。それぞれ色々な地方から集まり、色々な言葉を話す人々が、一つの教会として、建て上げられてゆきました。それは、聖霊が降ったことによる神様の御業でした。そのことがあったからこそ、私たちも今、このように教会につながることができます。そこには、同じ神様からの聖霊の力が働いています。聖霊降臨の出来事自体は、もう既に起こったことですが、私たちも日々、聖霊が注がれることを、必要としています。聖霊によって、新しい命の息吹を与えられ、御言葉に心燃やされ、また御言葉を証しする力が与えられることを、求めています。聖霊降臨の出来事が起こる前、120人の人々は、心を一つにして熱心に祈っていたと書いてあります。私たちもそのように心を一つにして祈るなら、今も、聖霊を受けて、新しい力をいただくことができます。この神様からの力に満たされて、今月も歩んでいきましょう。