苦しみの中で働く御言葉

2020年6月7日 礼拝メッセージ全文

テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

六月の第一週の礼拝をおささげします。今週からテサロニケの信徒への手紙を読んでいきます。この手紙は、新約聖書の中では、最も早く書かれたものの一つであると言われています。ですから、イエス様の十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を目撃したばかりの人々の信仰のあり様がそこに生き生きと表されています。聖霊降臨が起こり、教会が生まれ、福音は世界各地に伝えられてゆきました。しかし、それに伴ってたくさんの迫害も起こりました。テサロニケの人々も、そのような厳しい迫害を経験しました。テサロニケは、現在のギリシャの北東部にあたる場所ですが、当時はローマ帝国の一部で、マケドニア州という州に属していました。テサロニケはその中でも大きな町で、港町として経済活動の拠点となっていたようです。そのような町に福音を伝えたのは、今日の箇所、1章1節に出てくるパウロやシラスとも呼ばれるシルワノ、そしてテモテでした。この時の出来事については、使徒言行録17章1~9節までに記されています。そこでは、パウロがテサロニケの人々に福音を伝えたことによってイエス様を信じる人々が起こされたのと同時に、多くのユダヤ人からの厳しい迫害があったことが伝えられています。

テサロニケの人々は、そのような迫害という苦しみの中にあって、御言葉を信じ、また、御言葉を多くの人々に伝道してゆきました。7節では、彼らが「すべての信者の模範」となった、と言われています。彼らが苦しみを受けたことが、かえって、福音の前進に用いられたということです。私たちは、苦しみをできる事なら避けたいと思います。苦しみを自分から願う人はだれもいません。しかし、聖書は苦しみを通して、御言葉が働くということを教えています。その具体的な内容について、今日の箇所から三つのことが示されています。

 

1.苦しみの中で受け入れられる御言葉

今日の箇所から示される一つ目のことは、苦しみの中で、御言葉が受け入れられるということです。

6節「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」。

テサロニケの人々は「ひどい苦しみ」の中にいた時に、御言葉を受け入れ、イエス様を信じる者となったと言われています。この「ひどい苦しみ」の内容のすべてを知ることはできませんが、ユダヤ人からの迫害がそれに含まれていたことは確かでしょう。先ほどの使徒言行録17章によると、ユダヤ人はならず者と一緒に暴動を起こし、テサロニケでイエス様を信じた人々の家を襲ったとのことです。パウロたちはこれを逃れて隣町のべレアに行き、それ以降のことは記されていませんが、その後もテサロニケで迫害は続いたものと思われます。彼らに向けて書かれたテサロニケの信徒への手紙一・二の中で、ここで「苦しみ」と訳されている単語が、この箇所を含めて計5か所あります。彼らはそれほど多くの苦しみを経験したということです。

しかし、そのような中で、彼らは「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たと言われています。苦しみは、喜ばしいものではありません。どんなにポジティブに考えても、本心から苦しみを喜ぶことは人にはできません。しかし、聖霊は苦しみの中で、御言葉を通して喜びを与えられます。苦しみによって渇ききった心に、御言葉が染み渡っていくのです。テサロニケの人々も、そのように御言葉を受け入れました。そしてそのことによって、パウロたちに倣う者、また、誰よりも多くの苦しみを十字架で受けられたイエス様に倣う者とされた、と言われています。

それは私たちに対して言われていることでもあります。私たちも苦しみの中でこそ、主の御言葉を受け入れるということを経験します。苦しみとは、テサロニケの人々が経験したような、目に見える迫害のことだけではありません。苦しみの種類や大きさは問題とはなりません。たとえば私たちが家族や職場、学校での人間関係の中で苦しむときもそうです。そのように苦しむ時こそ、私たちは主に助けを求めて祈ります。すると、御言葉が不思議と心に入ってきます。苦しみ自体がなくなることはなくても、御言葉を通して、神様がわたしに何を望んでおられるのかを、受け取ることができます。

 

2.苦しみの中で伝えられる御言葉

今日の箇所からの二つ目のポイントは、苦しみの中で、御言葉が伝えられるということです。

8節「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」。

テサロニケの人々が苦しみの中で福音を受け入れたことは、彼らだけでなく、より多くの人々に福音が伝えられていくきっかけとなりました。「主の言葉があなたがたのところから出て」とあるように、テサロニケの人々が福音を直接的に伝えたとは書かれていません。むしろ、自然と福音が各地に響き渡り、伝えられていったということが分かります。苦しみの中にいた彼らが、福音を信じ、喜びに満たされる様子が、それだけ大きな影響を与えたということです。

御言葉を伝えるのは、人間の働きではなく、聖霊の働きであるということです。そのことについては、少し前の5節で語られています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」。パウロたちもテサロニケの人々も、度重なる苦しみの中で、聖霊の力に満たされ、主なるイエス様に心から信頼しました。その姿自体が、多くの人々をイエス様のもとに導いたということです。苦しみの中にある人を生かす聖霊の力は、それだけ大きな影響を周囲に与えるということです。

私は、社会人の時に東京の教会で信仰を持ち、洗礼を受けました。初め私が求道者として礼拝に出席していた頃、その教会の牧師先生から話しかけられることはほとんどありませんでした。しかし私は先生の説教を聞いて、信仰告白に導かれ、洗礼の恵みにあずかりました。私はその後すぐに転勤で海外に行ってしまいましたが、その間、先生は癌の病に侵され、闘病生活を送られました。私が帰国した時、かなり病が進行していたようですが、それでも放射線治療を受けながら月に何度かは礼拝説教をされていました。そして神学校に進むことを決意していた私に、繰り返し説教の指導をして下さいました。私が先生の入院先に説教原稿を送ると、その原稿が真っ赤になって返ってきたものでした。入院先から私の携帯に叱咤激励の電話が来ることもたびたびありました。それは、とても死を目前にした人とは思えませんでした。しかし今思い返せば、先生に苦しみがなかったはずがありません。苦しみの中で、イエス様に依り頼みながら、懸命に生きておられたのだと思います。それを可能にしたのは、今日の5節の御言葉のように、イエス様から来る力と、聖霊と、強い確信であったのだと思います。先生は死の直前まで礼拝に出席され、天に召されてゆきました。その信仰の姿を通して、私を含めて多くの人が励まされ、ある人は信仰に導かれました。そのように、苦しみの中にある時こそ、神の力が発揮され、福音が宣べ伝えられるということが、今に至るまで世界中で起こってきました。苦しみは辛く苦しいものですが、その出来事の最中に、御言葉は宣べ伝えられてゆきます。

 

3.苦しみの中で主を待ち望む御言葉

最後に今日の箇所から、苦しみの中で、御言葉は主を待ち望む希望を与えるということが分かります。

10節「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。

テサロニケの人々は、ひどい苦しみの中で福音を受け入れ、またその福音を全世界に伝えていく役割を果たしました。しかし、彼らの最終的な希望はこの世ではなく、来る御国に置かれていました。イエス様は終わりの日に、もう一度この地上に来られて、信じるすべての人をご自分の御国に迎えて下さると約束されました。これを再臨と言いますが、この再臨に対する希望が、この手紙では繰り返し語られており、それぞれの章の最後の部分にそれが見られます。この1章10節では特に、再臨されたイエス様は「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」お方であると言われています。聖書ではイエス様の再臨の時に、色々なことが起こると言われており、それを全て理解するのは中々難しいのですが、肝心なことは、その時、完全な神の裁きが実現されるということです。そして、イエス様を信じる者は神の憐れみによって御国に入れられて行く一方で、信じない者は神の怒りによって永遠の火の刑罰に入れられます。神の怒りは、この地上にも注がれ、全世界に苦しみと破滅がもたらされます。このことはヨハネの黙示録の中で詳しく述べられています。しかし、私たちに与えられている約束は、イエス様を信じる者は、神の来るべき怒りから救われるということです。現在どのような苦しみの中にあったとしても、終わりの日の神の裁きから救われるということは、苦しみの中にある人々に慰めと希望を与えます。テサロニケの人々もそのように、来る主の再臨を待ち望む者になりました。

再臨を待ち望むということは、現実の世界から目を背けるということではありません。テサロニケの人々には一部、そのような傾向があり、怠惰な生活をしたり、再臨がもう来たと言って人々を惑わす者がいました。歴史の中でも今日に至るまで、世の終わりが来たとふれ回って、不安をあおる人々が数多く現れてきました。しかし、私たちは決して無意味にこの地上で生かされているのではなく、神の望まれる目的を果たすために、それぞれの場所に遣わされています。この地上には苦しみがありますが、その中で、イエス様を信じ、その恵みに依り頼みながら、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えて生きることを、主は望んでおられます。その後で、主を信じる私たちを滅ぼすためにではなく救うために、主は再び戻って来られて、御国を完成して下さいます。私たちはその日が来るのを恐れるのではなく、待ち望んで生きることができます。

 

4.結び

私たちは今まさに、大きな苦しみの中を生きています。それぞれの生活にも色々な苦しみがあるでしょうし、特に今、この新型コロナウイルスの流行の中、世の終わりが近いということを思わされるような苦しみが広がっています。しかし、今日の御言葉を通して、テサロニケの人々の信仰から教えられることは、そのような苦しみの時こそ、御言葉を受け入れる人が多く起こされるということです。また、苦しみの時こそ、聖霊の力によって、御言葉が宣べ伝えられて行くということです。そしてまた、苦しみの時こそ、目に見えるこの地上の生活に希望を置くのではなく、やがて再び来られる主イエス・キリストとその御国を待ち望むように導かれるということです。御言葉はそのように、私たちの苦しみの中で今も働いています。