霊と真理をもって礼拝する

2020年5月31日 礼拝メッセージ全文

ヨハネによる福音書 4章1~26節

5月も最後の日になりました。今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげします。ペンテコステの意味について、以前にも少しお話ししましたが、今一度、振り返ってみたいと思います。ペンテコステとは、新約聖書が書かれたギリシャ語で「五十」を指す言葉です。ユダヤ人は、過越しの祭りの五十日後に、刈り入れの祭りという祭りを祝っており、ペンテコステとは元々、この祭りのことでした。人々はこの日、名前のとおり、麦の刈り入れ、収穫を祝ったのです。それで、イエス様が十字架にかかられ、復活されたその年にも、同じようにこの刈り入れの祭りの日がやって来ました。するとその日、聖霊が降るという出来事が起きました。その日に起こったことについて、使徒言行録2章に詳しく書いてあります。人々の上に聖霊が降り、使徒たちはイエス様を伝える証人に変えられました。これが、教会のはじまりです。そして、この日を聖霊降臨の記念日、ペンテコステとして、祝うようになりました。
今日の箇所は、その使徒言行録から離れて、ヨハネによる福音書4章の、サマリアの女の場面です。これは、聖霊降臨の出来事のずっと前、イエス様が十字架にかかられるさらに前の出来事ですが、ここでも、聖霊について語られています。聖書は聖霊について、色々な形で証しています。

1.聖霊は霊の渇きを満たす
聖霊は、目には見えないものですが、色々なものにたとえられています。今日の箇所では、イエス様が聖霊を水にたとえてお話しされています。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(13~14節)」
このとき、イエス様は、サマリアという土地におられました。先週も登場したサマリアです。この場所は、どのような場所だったかというと、偶像崇拝や異なる宗教が蔓延した場所でした。そのため、ユダヤ人からは避けられていた場所でした。そのような土地で、イエス様は一人の女に出会いました。この女性は複雑な事情を抱えた人でした。過去に5人の夫がいたが別れて、その時は1人の男性と同棲中でした。どのような事情でそのようなことになったのかは記されていません。しかし、彼女は5回の結婚生活に破綻を来たしてしまいました。彼女は、多くの男性との関係を持っても、心が満たされず、渇きを覚えていました。
先ほどのイエス様の御言葉は、このような女性に対して向けられた言葉でした。彼女は、水を求めに井戸まで来たわけですが、そのような彼女に対してイエス様は、この世のものではあなたの渇きは満たされない、と言われました。「わたしが与える水」、すなわち聖霊こそが、全ての人の心の渇きを満たすことのできる命の水なのだと教えられました。それは、私たちすべてに対して向けられた言葉でもあります。私たちは色々なモノや人で、自分の心の渇きを埋めようとすることがありますが、しかし、本当の意味で私たちを満たすことができるのは、イエス様を通して与えられる聖霊しかないということが言われています。そしてそれは、ただ注がれるだけではなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあります。聖霊は、私たちの心の内に宿り、豊かな命の水を、一生涯にわたって、わき出す泉となります。これは、イエス様を信じるすべての人に与えられる恵みです。

2.聖霊は礼拝に導く
そのように、泉にたとえられた聖霊は、自分の心を潤すだけにとどまりません。その水は、神様から私たちのもとに流れ来て、また神様のもとへ帰ってゆく命の水です。その中で、聖霊は私たちを、父なる神様、イエス様を仰ぎ見、礼拝するように導かれます。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(23~24節)」。
サマリアの人々も、礼拝を行っていました。しかし、イエス様は「あなたがたは知らないものを礼拝している」と指摘されました。彼らは、偶像を拝んだり、異なる神々を拝んだりしていましたが、そこには人格的な関係はありませんでした。知らないものを拝むとき、人は色々な規則や儀式を付け加えます。そして、礼拝することは義務になります。礼拝しないと罰が下る、何か悪いことが起こる、そのような恐れから自分の神々を拝むのです。しかし、聖霊が導かれるのは、そのような恐れに縛られた関係ではありません。聖霊は、私たちを、父なる神様、イエス様との人格的な交わりへ導いて下さり、私たちは神の子どもとして、天のお父様、イエス様を礼拝することができるようになりました。私たちは、そのような主との自由な交わりを喜ぶようになるのであり、色々な規則の縛りから解放されます。そして、礼拝は義務ではなくなります。
ここで、15節のサマリアの女の言葉に注目してみたいと思います。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。彼女は、飲み水のことを念頭に置いて話していますが、私たちは、「命の水」である聖霊を求める際、同じような態度をとってしまうことがないでしょうか?自分の問題や苦しみが大きい時、それが取り除かれることを、神様に向かう目的としてしまうことがあるかもしれません。しかし、もしそのようなことが続くと、極端な話、自分の願いが叶ったら、礼拝には「もう来なくてもいい」ということになりかねません。
しかし私たちが礼拝をするのは、私たちが満たされ、問題がなくなることが目的ではありません。23節にあるように、「父が求めておられるから」私たちは礼拝をします。それは、父が子を愛するように、また、子が父を愛するように、愛に基づいた人格的な関係です。聖霊はそのような礼拝へと私たちを導いて下さいます。

3.真理をもって礼拝する
24節には「霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。これまで、聖霊について語ってきましたが、では真理をもって礼拝するとはどういうことでしょうか。
真理とは何でしょうか。それはまず、イエス・キリストご自身のことです。当時もサマリアでは様々な偶像礼拝が行われていたようですが、私たちは、偶像や人を礼拝するのではなく、真理であるイエス・キリストを礼拝します。そのことは、この直後の25~26節にも示されています。サマリアの女は、イエス様の話を聞いて、「キリストと呼ばれるメシアが、私たちに一切のことを知らせてくださる」と言いました。それに対してイエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われました。イエス様がメシアであり、一切のことを知らせてくださる真理であることを、示されました。私たちが真理をもって礼拝をするということは、このイエス様を礼拝することです。
しかし、ここで言われている真理は、もう一つの意味を持っています。それは、自分のありのままの姿ということです。18節で、イエス様はサマリアの女に、「あなたは、ありのままを言った」と言われました。この「ありのまま」とは、原文では真理と同じ語源の言葉が使われており、新改訳聖書ではこれが「本当のこと」と訳されています。
サマリアの女は、イエス様と出会った時、最初は自分のことを何も話そうとはしませんでした。しかし、イエス様と話をする内に、少しずつ自分のありのままの姿が出てくるようになっていきました。彼女は、過去に5人の夫がいたという、複雑な事情を抱えていました。しかし、そのような彼女の内面を、イエス様は知っておられました。その上で、彼女を受け入れ、全く対等な立場でお話しをされています。同じように、イエス様は私たちの心の内側も、すべて知っておられます。その上で、イエス様は、私たちのために、十字架にかかり、命を捨てて下さったのです。だから私たちは、自分のありのままの姿で、イエス様のもとに行くことができます。真理をもって礼拝するとは、そのような自分のありのままの姿で、主を見上げ、礼拝をささげるということです。
今、私たちは新型コロナウイルスの影響で、マスクをして生活をしなければならなくなりました。この生活は、ウイルスの流行が収まっても、しばらくは続くようです。そのような中で、ニュース等を見ていると、多くの人々は心にもマスクをかけて、自分自身の内に閉じこもっているように思われます。しかし主は、そのような私たちの心の内に入ってきて下さり、永遠の命に至る聖霊の水を、わき上がらせて下さいます。私たちが心のマスクを取り去り、主を見上げるならば、どのような状況にあっても、そのありのままの姿でささげる礼拝を主は喜んでくださいます。

4.結び
聖霊が私たちの上に降って、私たちの心の渇きを潤し、霊と真理をもって礼拝するように導いてくださいました。これが、聖霊降臨、ペンテコステです。それは今も、私たちの信仰生活の中で、起こり続けています。私たちは御国に至るまで、永遠に主を礼拝する者とされてゆきます。最後に、ヨハネの黙示録22章1~5節を読んで終わります。
「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」