それでも、生きる

2021年8月29日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 33章10~20節

 

1.生きることを喜ばれる主

エゼキエル書からのメッセージを続けておりますが、後半に入りました。今週は33章からですが、イスラエルの民のバビロンでの捕囚生活も長引き、この頃は約十二年が経過していました。十二年とは、とても長い年月であると思います。私達も今、このコロナ禍を経験し始めてから1年半を過ぎましたが、1年半でも、このような災いの中にあると、とても長く感じると思います。しかしイスラエルの民は、異国バビロンの地で、この頃は十二年、そして最終的には七十年間の時を過ごすことになります。そして、ちょうどこの十二年が過ぎた頃に何が起こったかというと、彼らの都エルサレムが陥落し、神殿が焼き払われるという出来事がありました。

21節「我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。『都は陥落した』と」

この知らせは、多くのイスラエルの民にとって、とどめの一撃のような大きなショックを与えたことでしょう。神殿とは、イスラエルの民にとって、単なる建造物ではなく、主なる神が臨在される場所であり、また、彼らの帰るべき場所であり、それは希望そのものでありました。それが失われたことは、生きることへの希望を失うようなものでした。今日の箇所は、人々が「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか(10節)」と言ったと伝えています。

捕囚生活が長引く中で、また、神殿が失われるという大きなショックを与える出来事の最中で、人々は、ようやく自分達の罪について、自覚し始めていったようです。これは、前回の18章の中で伝えられた人々の様子とは大きく違います。18章の中でのイスラエルの人々は、「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く(2節)」ということわざを引き合いに出して、今の災いは先祖の罪のせいであるとしていました。そうして、自分達の中にある罪を認めようとはしませんでした。ところが、今日の箇所では、「我々の背きと過ちは我々の上にあり」と、人々は自分たちの罪を認めています。これは、長年の捕囚生活の中で、そして、特にエルサレム陥落の出来事を通して、彼らが自らの罪を悟るようになったということでしょう。そこまでは良かったのですが、彼らは「我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」とも言っています。これは、罪の意識が彼らを押しつぶし、もう生きることにも希望を見いだせなくなったという状況です。このことは、主なる神様が彼等に望んでいたことではありませんでした。そのような彼らに対して、主は次のように語られます。

11節「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」

イスラエルの民は、繰り返し、罪を犯しました。その結果として、バビロン捕囚が起こり、エルサレムも陥落しました。しかし、それでもなお、主なる神の願いは、彼らが滅びることではなく、悪から立ち帰って生きることであったということです。主は、そのことを伝えるためにこそ、エゼキエルをはじめ、預言者たちを彼らのもとに遣わしたのでした。これは、私達に対しても、同じことです。神様は、聖書の言葉を通して、また、あらゆる出来事を通して、人間の罪、すなわち、私達がいかに神様に背いて生きているか、をお示しになります。しかしそれは、私達を罪に定め、滅びに至らせるためではありません。私達がそのところから、主の元に立ち帰り、命を得ることのためです。

私達が自分の罪に気付く時、目の前には、二つの道が存在しています。一つは、罪を犯した自分を責めて、あきらめや無力感に打ちひしがれ続けてゆく道です。これは、今日の箇所で「どうして生きることができようか」と言ったイスラエルの民のとった道であると言えます。彼らは、「我々の背きと過ちは我々の上にあり」と言って、一見、罪を認めているように見えます。しかし、彼らはそこから神に向かうのではなく、自分を卑下し、生きる希望を失ってしまいました。私達も、罪に気付いても、自分を責め続けているなら、同じことになってしまいます。そのように自分を卑下する背景には、「本当の自分はこんなはずではない」という高慢が隠れています。しかし、自分で自分を変えることはできず、ますます無力感に打ちひしがれていってしまいます。

それに対して、もう一つの道とは、自分の罪を正面から受け入れ、主の元に立ち帰るという道です。今日の箇所で、主は、悪人が死ぬのを喜ばれないと言われています。私達自らがその悪人であるということを認めて、主に「助けてください」と言う時、主は私達を赦し、必ず必要な助けを与えて下さいます。

このような二つの道の間で、私達は揺れ動いてしまう者かもしれません。私も日々、多くの罪や過ちを犯しています。実際、その度ごとに、主のもとに立ち帰っているかと言うと、そうできないこともあります。しかし、見ないふりをしたり、自分を正当化したりしていると、自分で負いきれない重荷に、疲れ果てていってしまいます。イスラエルの人々が「我々はやせ衰える」と言ったように、私達も、主に立ち帰らない道を選び続けてゆくなら、霊的にどんどんやせ衰えていってしまいます。そしてやがては、「どうして生きることができようか」と、生きること自体への希望をも失ってしまうかもしれません。しかし主は、そのような私達をも、決して見捨てられることはありません。何度背いても、主の元に立ち帰るなら、何度でも、赦して下さいます。主の御心は、私達が滅びることではなく、生きることだからです。私達は今の状態がどうであっても、主に立ち帰る道を選び続けるということが大切です。

 

2.「自分の正しさ」「自分の悪」から脱却する

そのように主に立ち帰って生き続けるということは、常に自分のありのままの姿を、主にゆだねてゆくということです。このことは、今日の箇所の12~20節の内容を通して知ることができます。ここに書かれていることは、18章の後半に書かれていた内容とほぼ同じものです。しかし、今日の箇所と較べてみると、18章では、過去の行いと現在の行いが対比して書かれていたことが分かります。

18章21節「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」

これは、過去にどんなに悪を犯した人であっても、今、その悪から離れるならば、主は赦して下さるというメッセージを伝えています。それに対して今日の箇所の33章では、「正しさ」や「悪」という、その人自身の在り方が強調されています。

33章12節「人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない」

つまり、人を救うのも、つまずかせるのも、その人自身の「正しさ」や「悪」ではなく、主の御前に、その人が「正しい」とされるか「悪」とされるか、であるということです。13節には「正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」とあります。主は、私達の罪を赦し、「正しい」者として下さいます。しかし、その「正しさ」は私達自身のものではなく、主のものです。クリスチャンである私達は、罪赦されていることを、いつの間にか「自分自身の正しさ」にしていないだろうか?そのことを今一度自分に問うてみる必要があります。

しかし聖書は、元々は正しくあり得ない私達が、イエス様の十字架によって、正しい者とさせていただいているという、一方的な恵みを伝えています。ですから主の十字架の前では、私自身の正しさ、私自身の悪は、何の力も持たないものです。

だからこそ私達は、自分が、自分自身の目にどう見えようとも、また、他の人の目にどう見えようとも、私達を愛し、すべてを赦して下さる主を見上げ、生きることができる者です。エゼキエルの言葉は、私達が「自分の正しさ」「自分の悪」から脱却して、イエス様を通して与えられた神様の義に頼る者となるように導いています。

 

3.立ち帰りを促す警告

イエス様は、ルカによる福音書18章9~14節で、「ファリサイ派と徴税人のたとえ」というたとえ話を語られました。この話は、今日の箇所を通して語られた真理を具体的に描いています。

14節「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」

イエス様は、その人がファリサイ派であるか、徴税人であるかという、うわべのことを問われませんでした。また、その人の行いの良し悪しをも問われませんでした。ファリサイ派の人は、律法を守って正しい行いをし、さらに週に二度断食をし、全収入の十分の一を献金していました。そのように彼は、行いの面でも、信仰生活の面でも、「正しい」と見える人でした。それに対して、徴税人の方は、ファリサイ派の人のような正しい行いを何もしていませんでした。徴税人とは、当時、社会的に忌み嫌われていた存在でした。多くの徴税人は、規定よりも多くのお金を取り立てて、私腹を肥やしていました。もしかすると彼もそのように不正を行っていたかもしれません。彼は、ファリサイ派の人のように、きちんと神殿に入って礼拝をすることさえしませんでした。「遠くに立って、目を天に上げようともしなかった」と書かれています。しかしイエス様は、義とされて家に帰ったのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方であったと言われました。イエス様が問われたのは、その人の心が神に向いているのかどうかであって、うわべの正しさや、表面的な行いではなかったということです。

今、私達がどんなに神様から遠く離れて歩んでいたとしても、イエス様は、そのような私達を赦し、正しい者とするために、十字架にかかり血を流してくださいました。ですから大切なことは、私達が今どこにいるのかということではありません。高慢な心で神の近くにあるよりは、へりくだり、砕かれた心で神の遠くに立つ方がよいということ、イエス様のたとえ話は、私達にそのような警告を与えるものです。

そしてこれは、今日の箇所のエゼキエルの言葉を通して、主が警告されていることでもあります。エゼキエルは、イスラエルの民の見張りとして、警告を与えるようにと命じられました。見張りの役割とは、危険が近づいた時に、そのことを警告し、人々が滅びを免れることにあります。神様は、御言葉を通して、繰り返し人間に警告を与えておられます。それは私達を責めるためでも、滅ぼすためでもなく、私達に命を得させるためのことでした。

11節「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」

私達は今、どこにいるでしょうか?どのような心の状態でしょうか?しかし、私達の置かれた状況がいかなるものであったとしても、主は、私達が、その場所から、主の元へと立ち帰り、生きることを願っておられます。