わたしが行って、いやしてあげよう

2021年1月24日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書8章1~17節

 

今日の箇所は、山上の説教の直後の場面です。イエス様は、山上の説教を終えられた後すぐに、何をされたでしょうか。それは、人々をいやすということでした。今日の箇所では、四つのいやしの出来事が伝えられています。それぞれ、重い皮膚病を患っている人、百人隊長の僕、ペトロのしゅうとめ、そして悪霊に取りつかれた大勢の人々をイエス様がいやされたという出来事です。これらの出来事が伝えているのは、イエス様は、私たちの一人一人をいやそうとしておられるということです。それぞれの置かれた状況や環境は違いますが、イエス様は私たち一人一人のところに来て、いやしを成し遂げて下さるお方です。

 

1.重い皮膚病の人をいやす

今日の箇所の最初に出てくるのは、重い皮膚病を患った人でした。重い皮膚病は、旧約聖書の時代から見られたことで、ヘブライ語でツァラアトと呼ばれていました。この病気が具体的にどのような病気のことなのかははっきりしないため、新改訳聖書ではそのまま「ツァラアト」と訳しています。いずれにしても、この病気を患った人は、社会的にも、宗教的にも疎外されて生きていました。旧約聖書、レビ記の13章には、ツァラアトに犯された人に対しての特別な対処方法について説明がされています。その患者は汚れた者と見なされ、一定の期間、隔離されなければなりませんでした。なんだか現在の新型コロナウイルスの蔓延を思わせるような状況です。まだ治療薬が手に入らない現在のコロナウイルスの状況と同じく、当時も、ツァラアトは治療不可能な謎の病気であり、人々はその患者を隔離し、感染を防ごうとしました。ユダヤ人の間では、やがて来るメシアだけが、この病をいやしてくれるだろうと信じられていました。

イエス様は、このように人々から隔離され、汚れた者とみなされていたツァラアトの人をいやされました。

3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった」

社会から隔離され、誰もが近づこうともしなかったツァラアトの人に、イエス様は手を差し伸べて触れ、いやされました。イエス様は、このような姿を通して、私たちの病の只中に、苦しみや痛みの只中に、来て下さり、それを負って下さる方であることを示されました。それは、今日の箇所の最後の17節にも書かれていることです。

17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」

これは、イザヤ書53章4節からの引用です。神様は、やがて来られるメシアは、私たちの患い、病を負い、担うことを通して救いを実現される方であるということを語られました。イエス様は、ご自分こそがそのような救い主であるということを、一つ一つの御業を通して示してゆかれました。そして最終的には十字架で死なれることによって、その御業が完成されました。イエス様は今でも、私たちのあらゆる苦しみを、ただ遠くから眺めておられるのではなく、その只中に来て下さり、それを負って下さっています。イエス様はそのようにして私たちをいやして下さいます。

 

2.百人隊長の僕をいやす

イエス様が次に向かわれたのは、カファルナウムという、ガリラヤ湖畔の街でした。その街に入ると、一人の百人隊長がイエス様のもとに近づいて来ました。百人隊長とは、ローマの軍隊の中で、約百人の兵士を統括する立場の人でした。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、イエス様についてのうわさを聞いて、自分の僕をいやしてほしいとお願いをしに来ました。この僕は、中風で寝込んでいたということです。中風という言葉は現在ではあまり一般的ではありませんが、脳出血などによって体の一部もしくは全体が動かなくなる現象のことを指しています。当時は現在のようにMRIを撮ることも手術をすることもできませんから、本人も周りの人々も本当に恐ろしかったと思います。そのように僕が苦しんでいるのを知り、イエス様は言われました。

7節「そこでイエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた」

百人隊長は、ユダヤ地方を支配していたローマ帝国から遣わされた存在であり、ユダヤ人から見れば異邦人でした。ユダヤ人が異邦人と交際することは律法で禁じられていました。そのような百人隊長に、イエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。この言葉を聞いたとき、百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません(8節)」と答えました。しかしイエス様は、そのような人や国の間の垣根を越えて、いやしの業をなさいました。それは、すべての人を愛しておられる神様の愛を伝えるためでした。

百人隊長は、イエス様に次のようにお願いをしました。

8~9節「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

ここで百人隊長は、自分が権威の下にある者であると言っています。自分が部下に命令したことは、必ずそのようになるという意味での権威を彼は持っていました。彼は、自分と同じように、イエス様も権威の下にある方であるということを悟りました。イエス様の命令、すなわち御言葉は、神様の権威を持っており、必ずそのようになるということです。実はこのことは、今日の箇所の直前にも書いてあることです。

7章28~29節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」

ここにも「権威」という言葉が出てきています。イエス様の教えは、ただ言葉によるものではなく、神の権威を伴ったものでありました。この権威ということに関して、百人隊長は弟子たちよりも正しい理解をしていたということです。そのため、イエス様は百人隊長の話を聞いて、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない(10節)」と言われました。そして、イエス様が「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように(13節)」と言われると、ちょうどそのとき、百人隊長の僕の病気がいやされた、ということが起こりました。このように、イエス様の御言葉は、人をいやす権威をもっている言葉です。重い皮膚病の人の場合は、イエス様は直接手を触れていやされましたが、百人隊長の僕は、直接触れることも、会うこともなかった訳ですが、その僕をイエス様は一言でいやされました。イエス様は私たちに対しても、日々御言葉を語っておられます。その御言葉は、私たちをいやす神の権威を持った言葉であるということを覚えたいと思います。

 

3.ペトロのしゅうとめをいやす

その後、イエス様は、ペトロの家に行かれました。ペトロは結婚をしていたので、多くの家族がそこにいたのであろうと思われます。その家族の中の一人、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいました。このペトロのしゅうとめについては、この時以外は聖書に登場しませんが、マルコとルカの福音書も同様の出来事があったことを伝えています。しゅうとめとは、自分とは血のつながっていない存在であり、肉の家族ほどの深い関係性はありません。この場合、ペトロのしゅうとめが、イエス様を信じていたのかどうかも伝えられていません。しかしなぜイエス様はあえてそのようなペトロのしゅうとめをいやされたのでしょうか?またなぜ、三つの福音書はいやされたのが「しゅうとめ」であると具体的に伝えているのでしょうか?

私たちはこの箇所を通して、イエス様が、どんな小さな者の病や苦しみも見過ごされることがない方であるということを知ることができます。イエス様のいやしの御業は、近しい者や、信仰深い者だけに与えられたのではなく、むしろ、小さな者や疎外された者にこそ与えられたものであるということが、今日の箇所の全体を通して示されています。イエス様は、私たちはもちろん、私たちの家族や、周囲にいる一人一人のことも気にかけていてくださり、いやしを与えようとしておられます。その一人一人に、イエス様の愛が注がれています。

 

4.悪霊に取りつかれた大勢の人々をいやす

そして最後に、ペトロの家に滞在しているイエス様のもとに、悪霊に取りつかれた人々が大勢連れて来られたという出来事が記されています。福音書を読むと、イエス様が宣教をなさる時はいつも、悪霊に取りつかれた人々がいやされるという出来事が起こったことが分かります。悪霊とは、神様に敵対するサタンに由来するもので、人間を神様に背かせ、遠ざける働きをする存在です。悪霊に取りつかれた人の中には、口がきけなくなったり、暴力をふるったりする人もいました。それらの人々は、当時の社会の中で隔離され、狂暴さのゆえに鎖につながれているような人もいました。しかし、イエス様はこのよう人々をペトロの家に迎えて、いやされました。イエス様の宣教の働きは、初めから終りまで、神様に背く悪魔との戦いでしたが、イエス様は悪魔に支配された人間に対して、常に愛をもって接しておられます。悪霊に取りつかれた人々は、人の目には呪われたような存在であったと思います。しかし、そのような人々に対してイエス様は愛を示し、この箇所で彼らを迎え入れています。そしてイエス様は、神の権威をもって、背後にいる悪霊と戦われました。

16節「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」

イエス様が言葉を語ると、悪霊は出て行きました。これは、イエス様が悪霊と戦われる時にいつも起こったことでした。御言葉によって人々は悪霊から解放され、いやしを経験することができました。私たちもまた、様々な仕方で悪霊からの影響を受け、いやしや解放が阻まれていることがあります。そのような時にも、イエス様は私たちの一人一人を、あらゆる悪しき力から解放し、神様に従うことができるように、いやし、助けて下さいます。

 

今日の箇所は、イエス様が、人間の力では到底立ち入ることができず、いやすことのできない病や状態にいやしと回復を与えて下さるお方であるということを伝えています。そのためにイエス様は、私たちの一人一人に御言葉を語ってくださいます。御言葉はすべて、イエス様の十字架と復活を指し示しています。このお方が「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って」十字架で死なれ、そして三日目に復活されました。このことを信じ、すべての患いや病をイエス様の御手にゆだねる時、私たちはイエス様によるいやしの御業を体験してゆきます。イエス様は今日も私たちの悩みや苦しみ、痛みを御覧になって、「わたしが行って、いやしてあげよう」と語っておられます。