わたしは何者でしょう

2020年8月16日 礼拝メッセージ全文

出エジプト記 3章1~15節

 

今週は、出エジプト記の3章1~15節から、主の御言葉をいただきます。この箇所は、モーセが燃える柴の中から語られる主に出会った、劇的な場面を伝えています。ここから私たちは、モーセに対してそうされたように、私たちの問いに答えて下さる主の姿を知ることができます。

1.「わたしは何者でしょう」という問い
モーセの神様に対する問いかけを、11節に見ることができます。
「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」

モーセの問いは、「わたしは何者でしょう」というものでした。この問いは、実はこの時だけのものではなく、モーセが生涯の中で問い続けてきた問題でした。
モーセの生い立ちについては、先週の箇所の2章で見ました。モーセは、生後3か月の時、ナイル川のほとりに放置されてしまいました。母は仕方なくそうしてしまった訳ですが、この時の経験は、モーセの心に消えることのない傷を残したと思います。
最近、育児に関する本などを読んでいると、子どもは小さいながら色々なことを理解し、覚えているということが言われています。まだ生まれてくる前の母親の胎にいる時から、子どもは自分がどのように思われているかを敏感に感じ取っているようです。
そのように、この時モーセは、「自分は必要とされていないのではないか」と感じたことでしょう。しかもその後、モーセは、ファラオの王女のもとへ養子に出されることになります。肉親と別れるという経験は、やはり幼い子供には耐えきれない辛い出来事であったと思います。
モーセはエジプトの王室で、不自由ない生活と、最高レベルの教育を受ける者となりました。しかし、彼は最も大切な「自分とは何者か」ということを誰からも教えられませんでした。イスラエル人でありながら、親から離れ、エジプト人として教育を受けたモーセは、自分が何者であるか分からないままに大きくなってゆきました。
モーセはそのような孤独感への反動から、自分と同じイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見た時、とっさにそのエジプト人を打ち殺してしまいました。そこには、誰かから認めてもらいたいという彼の欲求が隠れていました。しかし結果、彼はイスラエル人からかえって拒絶され、エジプト人からも命を狙われる存在になってしまいました。エジプトにいられなくなったモーセは、外国に逃れました。それが、今日の箇所の1節に出てくるミディアンという土地です。これは現在のサウジアラビアの北西部にあたる場所です。モーセはそこで、困っていた娘たちを助けたことから、ミディアン人に受け入れられ、この土地の祭司であるエトロという人の家の婿になりました。
モーセはここで初めて、自分の存在を認めてくれる人々と出会いました。特に、義理の父となったエトロは、父のように、彼のことを受け入れてくれました。モーセのそれまでの人生の中で、父の存在はほぼ皆無でした。彼は初めて、自分の存在を認め、羊飼いという野生の仕事を教えてくれる、父のような存在を得ることができたのです。
ここまで、モーセの人生を振り返ってきましたが、ある意味、モーセの人生は、私たちの人生の縮図であると言えます。私たちは、多かれ少なかれ、生まれ育った環境の中で色々な傷を受けます。モーセのように直接親から捨てられるような経験が無かったとしても、親に認められなかった、親に甘えられなかったという経験は、私たちが自分自身に対して持つイメージに大きな影響を与えます。「自分は何者だろう」「自分は必要とされていないのではないか」という問いや葛藤は、多くの人が経験することであると思います。私たちはそのような傷を抱えながらも、ある時は、自分のことを認め、受け入れてくれるエトロのような人に出会います。しかしある時は、自分のことを否定し、敵対するファラオのような人にも出会います。結局のところ、親であれ、他人であれ、自分の心の葛藤をすべて解決してくれる人は存在しません。私たちは、最後には、神様によらなければ、本当の意味で自分が何者であるのかを知ることはできません。

先日、俳優の三浦春馬さんが自殺するという大変悲しいニュースがありました。彼は素晴らしいルックスと卓越した演技、そして謙虚で誠実な人柄で大勢のファンの人気を集めていました。彼がなぜ自ら命を絶ってしまったのか、原因ははっきり分かっていません。しかし、一つ言えることは、彼は最終的に、自分自身の命を肯定することができなかったということです。表向きにはどんなに恵まれていても、自分には生きる価値があると信じられなければ、その人生に希望はありません。三浦さんは、ドストエフスキー原作の『罪と罰』というミュージカルで主役を演じるために、ある教会の牧師のもとを訪れて、熱心に聖書を学んでいたそうです。この作品には、ヨハネによる福音書11章のラザロの復活の場面が出てきますが、その箇所を彼は暗記していたそうです。そこにはきっと、仕事のためだけでない彼の魂の渇きがあったのだと信じます。三浦さんももしかしたら、「自分とは何者か」という問いを、聖書の中に探していたのかもしれません。

神様は、「わたしは何者でしょう」という全ての人の問いかけに対して、御言葉を通して、語って下さっています。その言葉を通して、たとえ全ての人から憎まれ、拒絶されようとも、神様は私たちに生きる価値と意味を与えておられます。今日の箇所は、そのことを、二つのことを通して神様が語っておられます。

 

2.主の答え①「わたしは必ずあなたと共にいる」
私たちに対する神様からの答えの一つは、12節にあります。神様はモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われました。これが、神様からの答えの一つです。
私たちがどのような存在であるかは、出身地や、国籍や、仕事や能力によって決められるのではありません。私たちがどこにいても、何をしていても、神様は私たちと共にいて下さり、それこそが、私たちの存在の意味であるということです。
モーセのいたエジプトもミディアンも、イスラエル人からすると異教の地です。そのような中にありながらも、主はモーセを見捨てられたのではなく、いつも共にいて下さったのだということを、今日の箇所で主はモーセに伝えています。
「わたしは必ずあなたと共にいる」という文章の中の、「共にいる」という言葉には、少し後の14節で主が「わたしはある」と言われた時の、「ある」と同じ言葉が使われています。この「ある」とは、時間や空間を超えた普遍的な存在を意味しています。つまり主は、過去も現在も未来も、ずっと共におられるお方であるということです。そのことを表すために主は、ご自身が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると伝えておられます。主は、アブラハム、イサク、ヤコブと共におられたように、モーセと共におられ、そして今、私たちとも共にいて下さるということです。
主は、これらの信仰の父たちとどのように共にいて下さったでしょうか。

アブラハムへの御言葉「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(創世記15:1)
イサクへの御言葉「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに」(創世記26:24)
ヤコブへの御言葉「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)

これらの言葉が示しているように、主が共にいて下さるとは、主の絶対的な肯定を意味しています。あなたがどこにいても、何をしていても、主はあなたを守り、決して見捨てないということです。主はそのように絶対的な肯定の言葉をモーセに伝えられました。そしてその言葉は、イエス様を通して、私たちに与えられるものとなりました。
ガラテヤ3:29「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」

イエス様は、全ての人の罪のために十字架にかかられ、信じる全ての者を神の子として下さいました。それは、アブラハムやモーセに対して主が、「あなたと共にいる」と言われた約束の成就でもあります。私たちは、イエス様に贖われるとき、自分にどんな罪があろうとも、神様に無条件で受け入れられるという恵みをいただきます。しかも、そのことを信じる以前から、神様は全ての人と共におられ、イエス様を通してご自分のことを知って欲しいと願っておられます。この地上に生きる人間で、一人として価値のない人間はなく、神様は全ての人と共にいて下さいます。

 

3.主の答え②「わたしがあなたを遣わす」
「わたしは何者でしょう」という問いに対する神様からの二つ目の答えは、12節の後半に書かれている内容です。それは「わたしがあなたを遣わす」ということです。
神様は、私たちの一人一人に、使命を与えられます。私たちは、神様の与えられるその使命のために生きる存在です。モーセに与えられた使命は、イスラエル人をエジプトから導き出すというものでした。それは、彼が願って与えられた使命ではなく、神様から一方的に与えられたものでした。そのように神様から来る使命のことを、今日の聖書箇所の小見出しにあるように「召命」と言います。これは英語ではCallingと呼ばれ、神様からのコール、つまり呼び出し、召し出しに答えることです。神様からの召しに答えることですので、それは世の中で言われる「使命感」のようなものとは異なります。あくまで神様との関係の中で、人は召命を受けます。
それは、私たちが、自分の人生の中で働かれた神様に目を向けることです。モーセの波乱万丈な人生も、神様の目から見ると、全てが計画通りでした。神様は、エジプトで正義感に燃えてイスラエル人を救おうとした若き日のモーセではなく、羊飼いとして従順にしゅうとに仕える晩年のモーセを用いるために、準備をしておられました。晩年のモーセは、もはや自分に何かできるとは思っていませんでした。だから神に「わたしは何者でしょう」と言って、自分にはそのような大きな働きはできないと伝えました。しかし、それはモーセが自分の力にではなく、神の力に頼るようになるためでした。神様は、人が召命に従うことを通して、すべてのことを益として下さいます。一見、マイナスに見える出来事も、何一つ無駄なことはなく、神様の栄光のために用いられます。そして、「わたし」という存在を通して、神様は素晴らしい御業をなそうとしておられます。イエス様はこう言われました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハネによる福音書15章16節)」

私たちの一人一人が、イエス様を信じ、そして素晴らしい実を結ぶ人生を送るように、神様は私たちを選び、また任命して下さっています。それが今日の箇所でモーセが受けた二つの約束の意味するところです。「わたしは必ずあなたと共にいる」「わたしはあなたを遣わす」。父なる神様は、わたしたちを無条件の愛をもって受け入れ、そして、一人一人に、神の召命を与えて下さいます。

「わたしは何者でしょう」と問いかける私たちに、神様は答えて下さいます。しかしそれでもなお、私たちは時に不安になり、迷い、自分が何のために生きているのか、分からなくなります。そのような時も、神様は、変わらず共にいて下さいます。「わたしは何者でしょう」と心の中で問い続けたモーセに対して、神様は、燃える柴の中から答えて下さいました。これは、私たちの日常を表します。炎も、柴も、それだけでは特別なものではありません。しかし、燃え尽きない柴を見た時に、モーセは神様の存在を感じ取りました。そのように、神様は私たちの日常生活の中で、語っておられます。私たちの予想もしない仕方で、神様の語りかけがあることに気付きます。「わたしは何者でしょう」と問い続ける私たちに、神様は燃える柴の中から、今日もお語り下さっています。