イエス様の洗礼

2021年1月3日 礼拝メッセ―ジ全文

マタイによる福音書3章13~17節

 

新しい年の最初の主日礼拝を皆様と共にささげられることを主に感謝します。今年は、感染症の流行により、お正月も普段とは違う雰囲気になっているように感じます。それは少し寂しいような気もしますが、私たちはクリスマスにお祝いしたイエス様の誕生を引き続き喜び祝いながら、この新しい一年を過ごしていきたいと思います。

12月から、マタイによる福音書を続けて読んでいます。クリスマスには、2章前半のイエス様がお生まれになった時のところから御言葉を聞きました。そして先週は2章後半から、イエス様が生後まもなく家族と共にエジプトに逃れ、そして再びイスラエルの地に戻って来られたという箇所を読みました。今日の箇所は、それからかなりの時が経過し、イエス様が30歳の時のことであったと言われています。イエス様は、これから人々の間で公に活動を初めていかれた訳ですが、その初めに、この洗礼(バプテスマ)の出来事があったと記されています。

 

1.神の御子であるイエス様

イエス様がバプテスマを受けられた目的とは何でしょうか。それはまず、イエス様が神の御子であるということを、公に示すためでした。

イエス様がお生まれになってから、この時、約30年が経っていました。その間のイエス様の活動については、ほとんど何も聖書には記されていません。イエス様はガリラヤのナザレで、母マリアとヨセフと一緒に、静かに暮らされていたと思われます。もちろん、イエス様が神の御子であるということは、クリスマスの出来事の内に明確に示されていたことでした。しかし、ほとんどの人々はそのことに気付かずに生きていたようです。そのことを示すように、今日の箇所の直前で現れた洗礼者ヨハネも、彼の元にバプテスマを受けに来た人々も、誰一人、イエス様のことについて語っていません。ただ一人、ヨハネは、「自分の後から来る方」がおられ、この方が本当の救い主であるということを預言しました。

 

11節「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」

 

ヨハネにはたくさんの弟子がおり、彼らにバプテスマを授けていましたが、彼自身は救い主ではなく、自分より優れた「後から来る方」がおられる、と語りました。イエス様はこの時既にお生まれになっていましたが、彼らはまだ、イエス様がその方であると気づいていませんでした。しかし、イエス様がバプテスマを受けられたことによって、イエス様が、ヨハネが、そして旧約聖書の預言者たちが予め語っていた救い主(メシア)であるということが明らかになりました。

 

17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」

 

イエス様は神様から「わたしの愛する子」と呼ばれる存在であるということが示されました。これは人々にとって、どれだけ衝撃的な言葉であったでしょうか。そこにいた人々のどれだけがその事実を受け取ることができたのかは分かりません。しかし、イエス様は神様の愛する子としてこの地上にお生まれになったということ、このことがイエス様のお働きの初めに、人々に示されました。そして私たちも今、この言葉を聞いています。

そのように、イエス様がバプテスマを受けられたことによって、父なる神様が私たち人間のために愛する御子を送って下さったということが、明らかにされました。そして私たちもまた、イエス様を信じてバプテスマを受けるという恵みにあずかる時、同じ父なる神様からの呼びかけを聞いています。父なる神様は、私たちの一人一人に、「愛するわたしの子」と呼びかけてくださっています。バプテスマとは、そのように、私たち人間の一人一人に対して注がれている父なる神様からの愛を確認する時として、備えられています。

 

2.最もへりくだられたイエス様

また、イエス様がバプテスマを受けられたのは、イエス様が、人として最もへりくだった者になられたということを示しています。

ヨハネのバプテスマの目的は、人々を悔い改めに導くことでした。イエス様は、神の御子であり、何の罪もないお方であり、本来はバプテスマを受けて悔い改める必要はないはずです。そのことを知ったヨハネは、イエス様を思いとどまらせようとしました。

 

14節「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」

 

しかしイエス様は、「今は止めないでほしい」と言って、ヨハネを説得しました。なぜそれほどまでして、イエス様はバプテスマを受けようとされたのでしょうか。それは、私たちの罪をすべて背負う方であるということを示すためでした。バプテスマとは、水に浸すという意味の言葉です。それはただ水につけるのではなく、じっくりと浸すという意味です。そしてそれは、罪に支配された古い自分に死ぬということを表す儀式です。これは、十字架の上で、すべての人の罪を背負われたイエス様の姿と重なります。イエス様は十字架で、罪に由来するすべての人間の痛み、苦しみ、恥を、味わい尽くされ、そして息を引き取られました。そのようにイエス様は、バプテスマを受けられた時、罪の中でもがき苦しむ私たちと共に、水の中に沈められました。それは、罪と何の関わりもない方が、私たちのために、罪ある者としてへりくだって下さったということを表しています。

だから私たちも、バプテスマの恵みにあずかるという時には、そこにイエス様が共にいて下さり、私たちに先立って水の中に沈んでいって下さった姿を見ることができます。私たち自身では負うことのできない罪の重荷を背負って、イエス様はバプテスマを受けられ、その後数年間地上で働きをされた後で、十字架にかかり、死んで下さいました。しかしイエス様は、バプテスマの水からすぐに上がられたように、死なれた後、三日目に復活され、永遠の命を受けられました。そのイエス様がバプテスマを受ける私たちと共におられます。私たちは、このイエス様と共にバプテスマの水に沈み、そしてそこから上げられるなら、罪に支配された古い自分に死に、主にある新しい命を生きる者とされています。このように、私たちは、イエス様のバプテスマを通して、神の御子であるのに、人として最もへりくだって下さった方の姿を見ます。そしてこのお方によって、罪赦され、新しい命を生きるという希望をいただいています。

 

3.聖霊の力を受けられたイエス様

最後に、イエス様のバプテスマには、聖霊の力を受けるという意味がありました。

 

16節「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」

 

イエス様は、ヨハネのそばにいた他の人々と同じように、バプテスマを受けられました。ここまでは、何も特別なことは起こっていません。しかし、水の中から上がられるとすぐ、不思議な出来事が起こりました。天が開け、神の霊が鳩のようにイエス様の上に降ってきたのです。これは、イエス様だけが見たのではなく、他の人々も見たことであると聖書は証言しています(ルカ3:22、ヨハネ1:34)。ところで、「鳩のように」神の霊が降ったということには、どのような意味があるのでしょうか。鳩は、聖書の色々な箇所の中に見ることができます。まずイエス様は、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい(マタイ10:16)」と言われました。鳩とはそのように、素直さ、純粋さを表すものです。また、旧約聖書の中では、ノアの時代に大洪水が起こり、全世界が滅びましたが、この洪水の後に、オリーブの葉をくわえて、地上の無事を伝えたのも鳩でした(創世記8:11)。そのように鳩は平和を表す存在でもあります。つまり神の霊である聖霊とはそのように、純粋さ、平和をもたらす存在であるということが、この出来事によって示されています。

イエス様のこの地上での生涯は、常に、この聖霊によって導かれたものでした。聖霊は、この時だけイエス様の上に降ったのではなく、常にイエス様と共にありました。父なる神様とイエス様、そして聖霊は一つであるからです。イエス様のバプテスマを通して、このような三位一体の神様の姿が示されています。そしてこの三位一体の神様が、私たちがバプテスマを授かる恵みにあずかる時にも、臨んで下さいます。バプテスマはただの儀式ではなく、このような神様からの愛・恵み・力が私たちに注がれる時です。

神様は、父なる神様として、私たちの一人一人を「愛するわたしの子」と呼んで下さるお方です。また、神の御子であるイエス様は、私たちの罪の只中に来て下さって、私たちと共に罪に死に、そして新しい復活の命を生きる恵みを与えて下さるお方です。また、神様の霊である聖霊は、私たちのこの地上の生涯を導いて下さり、鳩のように純粋で、平和をもたらす神様の力をいつも注いでいて下さいます。このような三位一体の神様がいつも私たちと共にいて下さり、支えていて下さるということを、イエス様のバプテスマの出来事は私たちに示しています。この新しい年も、この主なる神様と共に日々を歩んでいきましょう。