イエス様を求める心

2021年10月3日 礼拝メッセージ全文

詩編19編1~15節

今月から、詩編に入ってゆきます。詩編とは元々、様々な楽器の伴奏を伴った歌であり、賛美です。神様は私たち人間を、「歌う」者として造られました。私の息子もまだ1歳ですが、もう何かの歌を覚えて歌っています。文章では表現できない様々な感情を言い表すもの、それが歌です。そして神様が私たちに望まれること、それは、歌をもって、主を賛美することです。私たちは詩編を読み、朗読することを通して、神様をほめたたえ、賛美することができます。そこには、さまざまな人間の心が表現されています。喜びや感謝だけでなく、悲しみや怒り、嘆きもあります。そのすべてを聞き、受け止めてくださる神様と、私たちは詩編を通してより深く交わることができます。そのようにして私たちの心は、イエス様の救いがいかにすばらしいかを知り、ますますイエス様を求めるものへと変えられてゆきます。

 

1.自然を通して語られる神

2節「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」

この言葉は神様の栄光、そしてその偉大さを、分かり易い形で伝えています。誰でも天を見上げて、その偉大さに圧倒されたことがあるのではないでしょうか。晴れの日の青空だけでなく、空に広がる雲も太陽も、夜空に浮かぶ月も星々も、雨の日の空にかかる虹も、神様の創造がいかに偉大なものかを指し示しています。

もちろんこの詩編が書かれた当時と現在とで、人間の持っている知識の量は異なります。私たちは地球という一つの天体の中に生きており、それを取り囲んでいる広大な宇宙空間が存在しているということを知っています。しかし、神様が「天は神の栄光を物語り」と言われたとき、その「天」とは、単なる空や宇宙空間のことではなく、それを遥かに超えた、神様の領域、人間の手の届かない領域のことを指しています。どんなに科学が進歩しても、人間の力で天に到達することは決してできません。人間は天に広がる神の栄光を、ただ仰ぎ見ることができるのみです。その意味で、私たちが空を見上げ、そこに広がる雲や太陽や星々を見る時、私たちは、天地万物とそこに生きるすべてのものは、神によって造られたものであり、このお方の支配の下にあるのだということを覚えることができます。

4~5節「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」

私たちは日常を生きていると、言葉で説明できること、理解できることが全てであると思ってしまうことがないでしょうか。しかしこの箇所を読むならば、神様の声とは、そのような人間の言葉や理解を超越したものであるということが分かります。この世界はまさに、そのような人間の言葉や理解を超えた驚くべきものとして造られています。そしてその只中で、「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても」、全地に響き渡っている神の御声があります。それは、神様は本当におられるということ、そして、造り主である神様が、私たちの一人一人と今も共にいて下さるお方であるというメッセージを伝えています。私たちは、そのように私たちの理解をはるかに超えた大いなる神様から、常に語りかけられている存在であります。このことを覚えるとき、私たちにできることは、ただ主を賛美することだけです。詩編の最後の言葉は、次のものです。150編6節「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ」!人間だけでなく、神によって造られた生けるものがすべて、神を賛美しています。私たちは、そのように神を賛美する存在として造られたということを、詩編は伝えています。

 

2.御言葉によって命を与えられる神

しかし神様は、自然を通してお語りになるだけでなく、私たち人間に言葉というものを与えて下さり、そして私たちに分かる言葉をもって、語って下さるお方です。

ヨハネによる福音書1章1節では「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われています。神様は、御自身を「言」としてこの世の中に現わされました。これが、私たちの信じる主イエス・キリストです。イエス・キリストというお方自身が、神の言であり、神様についてのすべてのことを言い表しています。

従って、聖書の語る御言葉のすべては、イエス・キリストというお方を指し示しています。このお方を通して、私たちは真の命を得る者となりました。詩編の言葉の多くは、イスラエルを王として治めたダビデによって綴られました。ダビデが生きた時代は、イエス様の誕生より約1,000年も前のことでした。しかし神様は、ダビデの言葉を通して、イエス様の成し遂げられる救いについて示されました。

8~11節は、そのような神の言葉であるイエス様に従って生きることが、いかにすばらしいものであるかを伝えています。イエス様に従うことは、魂を生き返らせます。私たちに知恵を与えます。喜びを与え、目に光を与えます。罪の中に死んでいた私たちを生かし、新しい永遠の命を与えて下さるお方、それがイエス様です。皆さんはこれらの言葉を読んで、今、どのように感じるでしょうか。私たちのそれぞれが、イエス様を知り、このお方を信じた時、きっとここに記されているような新しく生まれ変わった命の喜び、感謝、希望を感じたことだろうと思います。しかしそれはその時だけでなく、イエス様を信じる私たちの生涯を通して、体験されてゆく喜びであり、感謝、希望です。そのすばらしさを日々感じさせてくれるもの、それは御言葉です。私たちが御言葉を読み、そしてその言葉を自らの信仰の言葉として告白するとき、主の救いのすばらしさをますます実感してゆきます。詩編とはまさに、そのような恵みを言い表す言葉として、イスラエルの民に、そして教会によって、長い間にわたり読まれ、歌われてきました。11節には「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」とあります。イエス様の御救いのすばらしさを日々教えてくれる御言葉は、純金よりも価値があり、蜂蜜よりも甘いものです。私たちはその御言葉を慕い求めて生きてゆきたいと思います。

 

3.人間の罪を贖われる神

このように今日の箇所は、この世界の自然を通して表された神の栄光、そして、御言葉を通して示されるイエス様の救いのすばらしさを伝えています。しかし私たち自身は、そのような輝かしい神の栄光、そしてイエス様の御前で、どのような者でしょうか?私たちは、このような神の栄光とはかけ離れた暗闇の中を生き、イエス様の救いを受けるにふさわしくない生き方を送っているものであるかもしれません。光が輝けば輝くほど、暗闇が浮き立ちます。また、私たちが御言葉に触れ、その御言葉のすばらしさを知れば知るほど、自分自身の歩みがいかにそこから離れているかを知る者となります。しかしイエス様は、そのような私たちを救うためにこそ、十字架にかかり、私たちのすべての罪を贖って下さいました。

12節「あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます」

ここで、御言葉を守る人には、「大きな報い」、神の豊かな祝福があると言われています。しかし誰が、自分は御言葉をすべて守っていると言えるでしょうか?13節には、「知らずに犯した過ち、隠れた罪」があると伝えています。私たちは、自分で気が付く罪だけでなく、自分では気が付かない罪、隠れた罪もあるということです。まさにこのことに気付けるということが、御言葉のすばらしさです。御言葉のすばらしさ、それは、自分の力ではどうすることもできない自らの罪に、私たちを気付かせてくれるということです。そして、そのように自らの罪を知るからこそ、私たちは、その罪を完全に赦して下さる主を求めるようになります。

15節「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」

全宇宙を言葉によって創造された神様の御前に、私たち人間の語る言葉とは、どれほど小さなものでしょうか。しかし神様は、イエス様を信じるすべての人を神の子とし、そのような私たちの語る言葉を、神の御旨にかなうものとして下さいます。さらには、罪によって汚れた私たちの心を、神の御前に、清いものとして置いて下さるのです。このような、驚くべき恵みを私たちはイエス様を通して与えられています。この恵みを覚えて賛美しつつ、私たちは心から、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と祈り求めて行きましょう。