キリストにある兄弟姉妹

2021年4月25日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書18章15~20節

 

今日与えられました聖書の箇所はマタイによる福音書18章15~20節です。今年は5月の第4週23日(日)に、ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。ペンテコステとは、聖霊が人々の上に降ったことにより、教会が生まれたという出来事を記念する日です。教会とは、ただの人の集まりではなく、神の霊である聖霊によって作られた集まりであり、その一人一人である私たちは、神の家族です。私たちは教会に来て、お互いのことを「○○兄弟」「○○姉妹」と呼び合います。それは私たちが、血はつながっていなくても、キリストにあって兄弟姉妹であるからです。今日の箇所を通して、私たちはキリストにある兄弟姉妹がどのようなものであるのかについて、改めて教えられています。

まず初めに、今日の箇所の15~17節は、キリストにある兄弟姉妹の大切な役割の一つは、罪の指摘を行うことであると伝えています。

15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」

ここで、「忠告しなさい」と訳されている言葉は、新改訳聖書では「指摘しなさい」と訳されています。私たちクリスチャンは、兄弟姉妹が罪を犯すのを見たなら、それを指摘するようにと、この箇所は命じています。それは、なぜでしょうか?

この「指摘しなさい」という言葉は、別の箇所では「明るみに出す」と訳されています。

「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい(エフェソ5:11)」

ここで使徒パウロは、もし、罪が暗闇の中に隠れてしまっている状態であるなら、それを明るみに出しなさい、と命じています。「明るみ」とは、「イエス様の光」と捉えることができます。罪を隠したままにしておくのではなく、主の光に照らし出されるようにするということです。今日の箇所の「指摘しなさい」もそのような意味で語られている言葉です。罪が明らかにされなければ、それは暗闇のままです。しかし、それは主の光のもとにさらされ、悔い改めに導かれるなら、罪の赦しを得、光となります。

私たちが犯す罪には、様々な種類のものがあります。その中には、自分で気づいているものと、自分では気づいていないものとがあります。また、初めの内は気づいていても、あまりにも長く放っておかれ、もはや気づけなくなってしまったというものもあります。

神様は私たちがそれらの一つ一つの罪に気付くことができるように、いつも語っておられます。聖書の御言葉を通して、また礼拝を通して、私たちは自分の罪を主から示されます。しかし神様はある時には、他の人の言葉や行動によって、私たちの罪を示されます。それは、兄弟姉妹の助けによって、私たちが自らの罪に気づき、悔い改めに導かれるということのためです。

今日の箇所には、そのためのプロセスが記されています。初めは、二人だけのところで個人的に指摘しなさい、と言われています。それでも聞き入れない場合、二人、三人の証人と共に、事実の確認を行いなさいと言われています。それでも聞き入れないならば、教会全体で、そのことを検証しなさい、と言われています。この流れが示していることは、罪の指摘というものは、人間が勝手に自分の思いで行うものではなく、聖霊の導きのもとに、秩序をもって行われるべきであるということです。私たちが自分の思いや感情から、相手の罪を指摘しようとすると、必ず問題や混乱が生じます。しかし、聖霊の導きをいただいて、罪の問題を取り扱うならば、必ずすべてが益とされてゆきます。それは、教会の中に生きて働いておられる聖霊が、私たちが罪に気づき、悔い改め、罪から離れることを望んでおられるからです。

 

教会を作られ、教会の中に働いている聖霊について、私たちは使徒言行録を通して詳しく知ることができます。聖霊は、イエス様を信じる人々の上に降り、教会を形成しました。この聖霊によって、イエス様を信じる一つの共同体とされた人々は、心から一つになっていました。

使徒4:32「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」

信じた人々の群れは、心も思いも一つになっており、それだけでなく、財産までも共有して生活を送っていたということです。聖霊はそのように、私たちがあらゆる面で一つとなることを可能にします。それぞれ異なった出身や、個性や、賜物を持った私たちを、聖霊が一つにして下さいます。そのようにまで私たちを一つにする聖霊は、逆に、一致を妨げるもの、すなわち隠された罪を放っておくことができないのです。そのことは、そのすぐ後の5章に記されている、アナニアとサフィラの出来事を通して示されています。

アナニアとサフィラという夫婦は、自分達の持っていた土地を売り、お金を手にしましたが、そのすべてを持ってくるのではなく、代金をごまかして一部だけを使徒たちのもとに持って来ました。その事実を、ペトロは神から示され、二人の欺きを指摘しました。すると二人は、その言葉を聞いた途端、倒れて息絶えてしまいました。そして「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と記されています。

聖霊は、アナニアとサフィラが隠していた罪を明らかにされました。ペトロは、特に尋問をする訳でもなく、二人が土地の代金をごまかしていたことを知り、指摘しました。そのように、神の霊である聖霊は、真理を明らかにされます。私たちが本当の意味で一つとなることを望まれるからこそ、その障害となるものが何か隠れているなら、それを明るみに出されます。それは、人を裁くこと、排除することのためではなく、本当の意味で教会が一つとなるためです。

 

今日の箇所のマタイによる福音書18章15節では、罪の指摘を行って、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と伝えています。罪を認め、その悔い改めを共に行うことができたなら、私たちが、ではなく、主が、その兄弟を得たことになるということです。そしてそのことを通して、私たちとの交わりも回復され、共に兄弟姉妹となることができるということです。キリストにある兄弟姉妹の交わりとは、共に、主に罪赦された者として交わりを持つということです。

18節「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」

この箇所が伝えているように、兄弟姉妹の交わりは、ただの地上での交わりではなく、天にある神様との交わりでもあります。それをつなぐのも解くのも、聖霊なる神様の御業です。私たちはこのことを覚えながら、目の前の兄弟姉妹との交わりは、神様によって与えられたものであることに感謝して、それを大切にしてゆきたいと願います。

そのように、聖霊によってつながれ、一つとされたキリストにある兄弟姉妹は、共に祈るものとされています。

19節「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」

ここで言われているように、「地上で心を一つにして求める」ということ、これは、私たちが人の力でできることではありません。様々な考え、様々な性格、様々な経験を持つ私たちが、どうして心を一つにすることができるでしょうか。私たちは、この世で様々な人との関わりの中で生きています。その時、心を一つにすることが求められる場面もあると思いますが、そこでは、目をつぶって、我慢や妥協をして、心を一つにすることしかできません。しかし、教会のキリストにある兄弟姉妹の交わりは、これとは対極にあるものです。私たちは、無理に目をつぶって、心を一つにするのではなく、むしろ、それぞれが違っていていいのです。しかし、それぞれ違った私たちが、同じイエス様の十字架によって罪赦され、生かされています。私たちが心を一つにするということは、そのように、共に、イエス様の十字架を見上げることによってです。そして、そのことのためにも、今日の前半部分が伝えているように、罪を隠していないということはとても重要です。それぞれが、自らの罪をイエス様の十字架にゆだねることによって、私たちは主にあって一つであるということを確信することができます。

そのように心が一つにされた時に、私たちの祈りが聞かれるとこの箇所は伝えています。私たちは、祈りが聞かれるためには、どれだけたくさん祈ったか、どれだけ一生懸命祈ったか、が大切であると考えてしまいがちかもしれません。しかし、主にあって心を一つにするときにこそ、「どんな願い事であれ」「天の父がそれをかなえてくださる」と言われています。そのように、キリストにある兄弟姉妹が心を一つにして祈ることには、大きな力があります。それは、次の節が伝えているように、そこに、主が共におられるからです。

20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

私たちが、お互いの罪を赦して下さったイエス様を信じて、見上げてゆくならば、イエス様ご自身が、その間にいてくださるということを今日の箇所は伝えています。そしてそれこそが、教会の兄弟姉妹の交わりであるということを、私たちは知ることができます。教会は、建物や、人の集まりということではなく、聖霊によって、心を一つにしてイエス様を共に見上げ、イエス様に共に祈り、そしてイエス様からの答えを共に聞いていく、そのような場所であるということです。前半の箇所でも、「二人、三人」という言葉がでてきていました。私たちが、罪の確認を行うのも二人、三人であれば、その罪が赦される恵みの確認を行うのも、二人、三人であるということです。私たちが罪赦されるということは、ただ個人的な経験であるだけでなく、兄弟姉妹と共に一緒に経験することでもあるということです。教会を通して、私たちにはそのような交わりの恵みが与えられています。

 

今、コロナウイルスの状況の中で、教会に皆で集まることが難しいという状況が続いています。そのような中で、集まることの意味とは何だろうかということを改めて考えさせられています。しかし、今日の箇所が伝えているように、集まることは、それが二人、三人であっても、共におられるイエス様を経験することでもあります。私たちが罪赦されて、共に一つとされているということ、このことは、兄弟姉妹の交わりの中で私たちが経験してゆくことです。その意味では、どれだけ感染症の問題があろうとも、私たちは共に礼拝をし、共に祈り続けます。オンラインであっても、時間や場所を超えて、神様が与えて下さった兄弟姉妹との交わりは、永遠に続く、神様との交わりであるということを確信しているからです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと遣わされてゆきます。しかし、私たちはどこにあっても、神様の恵みによってこの教会につながり、一つのからだとされているということを覚え続けたいと思います。私たちは、キリストにある兄弟姉妹と、共に祈り、共に主を見上げてゆくことのできる者とされています。