キリストの勇士

2021年12月12日 礼拝メッセージ全文

ミカ書5章1~5節

アドベントの三週目を迎えています。この時期は例年のようにやってきますが、今回迎えようとしているクリスマスに、神様は特に私たちに何を語っておられるのでしょうか。今年のアドベントは旧約聖書の預言書から御言葉を聞いてきました。今日はミカ書の5章ですが、この箇所を通して私たちは、イエス様がどのような方として生まれたのかということを改めて知ることができます。そしてそのイエス様を信じる私たちはどのような者とされているのか、このことについても示されています。

1.「小さき者」として来られたイエス様

今日の箇所はまず、イエス様が「最も小さな者」として来られたのだ、ということを伝えています。

1節「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」

「エフラタのベツレヘム」とは、ユダの国の中にある街の名前です。「エフラタ」はベツレヘムの別名であると思われています。この街は、ユダの国の中では、特に小さい町であったということです。しかし、この街から「イスラエルを治める者が出る」と言われています。これは、ただ単に国としての「イスラエルを治める者」ということではなく、イスラエルから全世界に救いをもたらす救い主のことを指し示しています。私たちは、この預言の成就として、イエス様がベツレヘムの街にお生まれになったということを知っています。ミカは、イエス様の生まれる700年以上も前に、そのことを神様から示されていたということです。

ここに「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とあるように、イエス様が小さな者として来られるということは、聖書の一番初めから、天地創造の時から定められていました。そもそも、ベツレヘムの属するユダという部族が神様に選ばれたのも、人間の基準によることではありませんでした。ユダの部族とは、イスラエルの十二部族の一つで、これはヤコブの十二人の息子たちから始まりました。ユダは、十二人の息子たちの内では、四番目にあたります。しかし、創世記に見られるユダの地上での人生は、決してお手本にできるようなものではありませんでした。ユダはユダヤ人ではない異邦人の娘と結婚をしました。そして、そこで与えられた息子が妻として迎えたタマルという女性と関係を持ってしまいます。これは律法で禁じられている姦淫の罪でした。しかしそこからユダの子孫が生まれ、これが後にユダ部族となってゆきます。私たちが人間の基準で見るならば、どうしてこのような罪を犯したユダの子孫が神に選ばれたのだろうか、と疑問に思います。しかし神様は正にそのように罪深く、小さな者であるユダの子孫から、救い主を与えて下さいました。これは、聖書の初めから定められていたことでありました。

2節「まことに、主は彼らを捨ておかれる、産婦が子を産むときまで」

神様に捨ておかれるという状況、あらゆる困難の中で、誰も助けてくれないという状況に、私たちは置かれることがあります。イスラエルの民も、歴史の中で幾度もそのような状況に置かれました。特に、預言者ミカが語った時代には、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされるという出来事が起こりました。十二あったイスラエルの部族の内、十の部族が失われ、ユダとベニヤミンの部族だけが、南ユダに残されることになりました。そのようにイスラエルは本当に多くの苦難を経験しました。神様は、正にそのように捨ておかれ、八方ふさがりな状況を通して、御業をなされるお方です。この後に、残された二つの部族による南ユダの国も、バビロンによって滅ぼされることになってゆきます。どんな苦難がイスラエルを襲おうとも、ユダのベツレヘムから救い主が生まれるという神のご計画は変わることがありませんでした。「産婦が子を産むときまで」、主はイスラエルを捨て置かれる、と言われました。しかし、産婦、すなわちおとめマリアが身ごもり、イエス様を産むという出来事が起こったとき、イスラエルの、そして全世界の救いの計画が実現されました。このように、神様の救いは、捨て置かれたような苦難の状況の中から、最も小さな者として生まれたイエス様を通して、与えられました。

 

2.「大いなる者」として救いを実現されたイエス様

3節「彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ」

これまで見たように、今日の箇所は、救い主であるイエス様が小さき者として来られたということを伝えています。しかしそのように小さき者として来られたイエス様こそが、実は「大いなる者」であり、偉大な救い主であるということを伝えています。

このクリスマスの時、私たちは飼い葉桶の中に生まれられた幼子に目を向けています。イエス様が小さな弱い存在である幼子として生まれられたのは、神様の力を示すためのことでした。普通、私たちが自分に力があることを示すには、力ある存在にならなければならないものだと思います。しかし神様の力は、むしろ無力な者となられたイエス様を通して示されました。小さな町の、最も貧しい場所で生まれた方が、立ち上がり、群れを養う存在となるということをこの箇所は伝えています。人間の力や、人間の名声によるのではなく、あくまで主の力と主の御名の威厳によって、人々を救うのであると。このことは、最終的には、イエス様の十字架によって示されることになりました。イエス様の十字架とは、イエス様の誕生において示されたように、神である方が最も小さな者、最も貧しい者となってくださったということ、このことが完成された時です。私たちの全ての罪を背負って、イエス様は十字架にかかり、死なれました。それは私たちの全ての罪を赦し、復活の命を与えるためでした。すべてを私たちのために捨ててくださったイエス様の生涯を通して、神様の力が現わされました。このことを指して、ここで「今や、彼は大いなる者となる」と言われています。小さき者として生まれた方が、「大いなる者」となる。それも、イスラエルの間だけでなく、その力は「地の果てに及ぶ」ということです。

4節の前半には「彼こそ、まさしく平和である」とあります。私たちのために生まれてくださったイエス様だけが、本当の平和を私たちに与えることができます。平和とは、争いや戦いの全くない状態のことではありません。世の中にあって、私たちは人の力で争いや戦いを治めることはできません。しかし、イエス様を信じる私たちには、神様からの平和が約束されています。その平和とは、争いや戦いの中にあっても、主の力によって私たちがそれらに勝利しているという状態のことです。神様は私たちをそのような平和のための道具として用いて下さいます。

 

3.救いを受け、「勇士」とされた私たち

今日の箇所は、小さな者として来られたイエス様が、大いなる救いを私たちに与えて下さったということを伝えています。そしてそのことを信じる私たちの一人一人を、神様はご自身の器として用いて下さるということ、このことも伝えています。

4節後半「アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても、我々は彼らに立ち向かい、七人の牧者、八人の君主を立てる」

ミカの時代、アッシリアの脅威は身近に迫っていました。しかし、たとえアッシリアが攻めてきても、彼らに立ち向かうことができる、という確信がミカには与えられました。それは、ベツレヘムから来られる救い主に対する信仰によるものでした。そしてその救いとは、単にイスラエルの国が守られるということではありませんでした。救い主であるイエス様によって、信じるすべての者には力が与えられて、敵に勝利してゆくことができるという、私たちに対する約束を示しています。

5節「彼らは剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても、彼らが我々を救ってくれる」

ここに出てくる「ニムロド」とは、はるか昔、ノアのひ孫として生まれた人物の名前です。創世記の10章8節によれば、彼は、「地上で最初の勇士となった」ということです。勇士ニムロドは、バベルの塔が立てられたバベルや、その周辺地域の町を治める有力者となりました。そしてこのニムロドの治めていた地域が、アッシリアやバビロンとして栄えていくことになったのです。

つまりこの箇所は、アッシリアやニムロドに代表される、地上の王国やそこを治める勇士がどんなに強力であったとしても、神の力はそれらに打ち勝つことができるという力強い約束を伝えているということです。そしてこの約束は、主イエス・キリストが私たちのために最も小さい者となられ、十字架で命を捨てて下さったことによって成就されました。私たちの一人一人は、イエス様の救いによって命を得、神の力を受ける存在とされました。そして、地上の勇士であるニムロドに勝る、キリストの勇士として、この地上に遣わされている者です。どんなに小さく、弱く、また罪深い者であっても、いや、むしろそうであるからこそ、イエス様は私たちの一人一人を勇士として下さり、神の力によって支えて下さいます。

私たちの地上の人生にあっては、様々な戦いがあります。それは、人や目に見える物事との戦いではなく、神の敵であるサタンとの霊的な戦いです。その戦いの中にあって、私たちは自分の力によっては、決して勝利することができません。その時、私たちは、自分の弱さを嘆いたり、取り巻く環境の厳しさ、あるいは貧しさに悲しんでしまったりすることがあるかもしれません。しかし、そのような私たちの只中に、イエス様は、神の約束に基づいて、最も小さな、最も貧しい幼子となって生まれて下さったということを、今一度覚えたいと思います。このクリスマスの時、最も小さい者として来られたイエス様に注がれた神様の力に信頼して、共に生きてゆきましょう。