キリストの大使

2021年1月1日 元旦礼拝メッセ―ジ全文

コリントの信徒への手紙二5章17~21節

 

新年あけましておめでとうございます。皆さんはどのような年を越されたでしょうか。私は家族と共に、この水戸で初めての新年を迎えることができました。日々お祈りをいただき感謝します。大晦日には、12時間連鎖祈祷に参加し、お互いの顔は見えなくても、多くの方々と祈りによってつながることができたことを感謝しています。新しい年も、私たち家族の教会での働きを覚えてお祈りをいただけましたら感謝です。

さて、今日の元旦礼拝では、コリントの信徒への手紙二の5章17節からの御言葉から聞いてゆきたいと思います。この箇所は、常に私たちを新しくしてくださる神様の恵みについて語っています。

 

1.新しく創造された者

17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」

 

イエス様と結ばれているなら、だれでも、新しい者になることができると伝えられています。これは、「だれでも」そして「いつでも」、クリスチャンに与えられた特権です。イエス様にあって、私たちは、新しい者になりましたし、また日々、新しい者にされ続けています。これは、新年を迎える今の時だけでなく、いつでも、どんな時でも、私たちに与えられている恵みです。

しかしそれはどのような意味においてでしょうか。この箇所は、「だから」という接続詞で始まっています。私たちが新しく創造された者だと言える理由、それが直前の箇所に記されています。

 

16節「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」

 

「肉に従って」人を知ろうとするのが、人間本来の性質であるということです。「肉に従って」というのは、「人間的な見方によって」と言い換えることができると思います。つまり、私たちは元々、人間的な見方で人を捉えてしまうものだということです。私たちは肉体的に強そうな人を見れば頼りになると思うし、ひ弱そうな人を見れば、大丈夫かなと思うものです。それが、人間の元々持っている性質です。このような性質を持っている私たち人間は、イエス様に対しても、同じような見方をしてしまうものでした。イエス様は、飼い葉桶の中のような貧しい場所で生まれ、そして人々から迫害され、最後には十字架につけられて死んでゆかれました。このことをただ人間的に見るなら、弱く貧しい人、無実の罪で処刑されてしまった可哀想な人、ということになってしまうかもしれません。

しかし、イエス様を、わたしの罪のために死なれた救い主であると信じる時、全く新しい見方でイエス様を見る者と変えられます。イエス様こそ、本当の神の力を持ったお方、そしてその尊い命を、私たちを救うために捨てて下さった愛の神様であると信じる者となります。そして、そのようにイエス様を信じる時に、私たちの周りの人々を見る目も変えられてゆきます。パウロの言葉のように、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしない」者となるということです。つまり、人間的な見方によって人を判断するのではなく、神様から愛され、用いられている存在として、自分自身を、そして周りの人々を見る者となるということです。

 

2.キリストの大使

今日の箇所は、そのようにイエス様にあって全く新しくされた存在としての私たちの姿について伝えています。そしてそのことは、特に20節の言葉を通して、具体的に示されています。

 

20節「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」

 

ここで、「キリストの使者」という言葉が出てきています。私たちはイエス様からこの世に遣わされた存在であるということです。しかし原文を見ると、ここでは、「年上である」「目上である」という意味の動詞が使われています。そこから、「キリストのための代表者となる」という意味で、新共同訳では「キリストの使者」と訳されているのだと思います。しかし、この箇所は英語訳では、Ambassador(アンバサダー)と訳されており、これは日本語で「大使」という意味です。

私たちは「キリストの大使」である、ということです。一国の大使は、その国の代表者として、あらゆる権限を行使することができます。そのように私たち一人一人も、イエス様からこの世に遣わされ、イエス様を通して与えられる信仰・希望・愛を伝える大使としての務めを果たしています。

これは何だか恐れ多いことのようですけれども、事実、そのように御言葉は伝えています。それは私たちが、肉に従って古い自分を見続けているなら、決して信じられないことです。しかしパウロは、17節後半からの箇所で、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって」と書いています。キリストにあって新しくされた自分、キリストの大使としての自分は、神から出たことであったということです。自分がどのように思おうとも、また他人から何を言われようとも、このことは変わることがありません。私たちは、この世の中に、そのそれぞれの場所に、キリストの大使として、イエス様の大いなる愛と力によって遣わされています。

 

3.キリストによる和解の大使

その大使としての最も大切な役割とは何でしょうか?それは、イエス様の十字架によって与えられた神様との和解を、人々に宣べ伝えることです。

 

18節後半~19節「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」

 

この箇所が伝えていることは、神様は、まず私たちに、イエス様を通して和解を与えて下さったということです。和解があるということは、元々は敵対していたということです。私たちはイエス様を知るまでは、神様と敵対して歩んでいました。なぜなら、生まれながらの人間は、16節にあったように「肉に従って」生きているからです。人間的な考えや思いに従って生きている以上、どんなに素晴らしい人であっても、その人は神様と敵対して歩んでいます。それは私たちも例外ではありません。しかし、そのような私たちの罪を赦し、神様との間に和解を与えるために、イエス様が来て下さいました。イエス様は、私たちが自分ではどうすることもできない罪をその身にすべて背負い、私たちのために十字架にかかられ、死んで下さいました。この十字架の恵みによって、私たちは罪によって隔てられていた神様との間に、和解をいただく者とされました。

このように、神様との間に和解を得ている私たちは、その和解の恵みを他の人々に伝えてゆく「任務」が授けられているとこの箇所は伝えています。これが、キリストの大使としての私たちに与えられた一番の任務であるということです。神様から赦し愛され、任命された大使として、キリストの和解の恵みを伝える尊い存在として、私たちはそれぞれの場所に遣わされています。19節には、「和解の言葉をゆだねられた者」と書かれています。そのように、神様は私たちの一人一人に、このような素晴らしい和解の出来事を伝える言葉を「ゆだねて」くださいました。これは、イエス様を信じるすべての人に対してのことです。神様は、福音を伝えるために、天使を用いるのではなく、特別に選ばれた人たちだけを用いるのでもなく、他でもない私たちの一人一人を用いて、それを伝えることを望まれました。ですから私たちは、「だれでも」、そして「いつでも」、キリストに結ばれているなら、新しくされたキリストの大使、イエス様を通して与えられる和解の大使とされています。私たちそれぞれの住む地域や、家庭、職場に、キリストの和解をもたらす存在として、神様から遣わされています。この大きな恵みを受け取って、日々新しくされて、新しい年を歩んでいきましょう。