一人の罪人のために

2022年1月9日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書2章13節~17節

1.レビを招くために

今日の箇所は、「湖のほとり」から始められます。実は先週の箇所でも、湖のほとりにおいて四人の弟子たちがイエス様に招かれ弟子とされたということが語られました。今日の箇所でも、「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあり、この場所でレビという人が弟子として招かれるという出来事が起こります。このように、湖のほとりという場所は、イエス様と弟子たちが個人的な出会いを経験する場となったということが分かります。

今日の箇所では、湖のほとりを歩くイエス様のそばに大勢の群衆がいたということが伝えられています。イエス様がそれまでになさった驚くべき神の業のゆえに、多くの人々がイエス様に従うようになっていたのです。しかし、イエス様が特別に目を向けられたのは、その大勢の群衆ではなく、レビという一人の目立たない存在でした。

14節「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」

大勢の群衆がイエス様に従って歩いていたのに対し、このレビは座り込んでいました。それも、収税所に座っていた彼は、人々から税金を徴収する徴税人として、その場にいたということです。徴税人という職業は、かなり昔の時代から世界中に存在してきたものですが、いつの時代にも、あまり人々からは好かれる仕事ではなかったようです。特に、イエス様の生きたこの時代、悪徳な徴税人がたくさんいました。実際の規定よりも多くの税金を取り立てて、私腹を肥やしているような徴税人がたくさんいたということが言われています。そのように、当時、徴税人たちは多くの人々から嫌われ、特にユダヤ人からは罪人と同じような扱いを受けていました。

徴税人として働いていたレビは、人々が自分のことをどのように思っていたかを知っていたと思います。そして、自分は到底、ユダヤ人たちと一緒にイエス様に従えるような存在ではないと思っていたと思います。であるからこそ、彼はイエス様に従わずに座り込んでいたのだと思います。もしかしたら、神の救いなど、自分とは無縁なこと、そのようにさえ感じていたかもしれません。少なくとも、周りの人々がそう考えていたことは確かです。

しかしこの時イエス様は、そのように人々から忌み嫌われ、自分でも自分自身のことをあきらめていたかもしれない、徴税人のレビを招いて弟子とされました。このことは、その場にいた多くの人々に驚きを与えたことでしょう。そして誰よりも、当の本人であるレビが、イエス様から招かれたことに驚いたことと思います。このように、神様の招きというものは、時に私たちの目からすると、「なぜこの人に」「なぜ私に」と思われるような存在に、驚くべき恵みとして与えられます。

有名な讃美歌の中にAmazing Graceという曲があります。この曲は18世紀にイギリスで作られました。作詞をしたジョン・ニュートンは、元々は奴隷船に乗っていました。奴隷貿易に加担して、多くの人々を搾取していた、そのような人でありました。しかし、あるとき彼の船が嵐で転覆の危機に遭い、彼は神に助けを求めて祈りました。すると彼の船は奇跡的に救われ、彼は主を信じるように変えられ、後に牧師となり、多くの讃美歌を作りました。その内の一つが、今でも世界中で歌われているAmazing Grace「驚くばかりの」という曲です。この讃美歌を通して、彼は、自分のような者が救われたことは驚くべき恵みであった、と告白しています。

今日の箇所に出てくるレビも、このジョン・ニュートンと同じように、人の目には、到底選ばれるべき存在とは思われませんでした。しかし、そのような存在であるレビをこそ、イエス様は選ばれ、招いて下さいました。ここに、イエス様からの驚くべき恵みが示されています。

 

2.すべての罪人を招くために

レビと共にイエス様に従っていた人々は皆、そのような驚くべき招きを受けて、主を信じる者とされた人たちでした。人々から忌み嫌われていた徴税人たち、また、当時の医学では到底治せないとされていた様々な病から癒された人たち、これらの人々は、イエス様の驚くべき救いの恵みを求めて、従っていました。このことは現在に至るまで変わらないことです。

ところが、今日の箇所を見ると、このことに不平を述べた人々がいたことが分かります。ファリサイ派の律法学者たちです。彼らは、ユダヤ人の律法を厳格に守ることを通して救われようとしていた人々です。彼らは、イエス様が多くの徴税人や罪人たちと食事をされているのを見て、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエス様の弟子たちに尋ねました。この質問に対して、イエス様はこう答えられました。

17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

このイエス様の言葉は、単純ですが、私たちが忘れてしまいがちな真理について、的確に伝えています。医者の仕事は、病人を治すことです。ですから、病人のもとにお医者さんが行くのは当然のことである訳です。そのことと同じように、イエス様がやって来られたのは、私たち罪人を招き、救いに至らせるためであった訳ですから、人々から嫌われ、見捨てられたような存在であった徴税人たちのような人々をイエス様が招かれたのは、これも当然のことであるということです。

しかし、考えてみると、医者を全く必要としないという人はこの世にはいません。完全に健康で、病気にならない人など存在しません。それと同じように、完全に正しく、「罪人」でない人などこの世に存在しません。私たちは皆、同じように神様の救いを必要としています。

イエス様が来られたのは、レビをはじめ、徴税人たちを招くためでありました。それは、彼らだけでなく、罪人である全ての人々のためにイエス様は来られたということでもあります。神様の御前にあっては、ファリサイ派の律法学者たちも、既に従っていた弟子たちもすべて、徴税人たちと同じように罪人であり、同じようにイエス様の救いを必要とする存在でした。その意味では、イエス様の招きには何の区別も差別もありません。それは、罪人であるすべての人に向けられたものです。

 

3.「わたし」を招くために

しかしここで、イエス様があえて、「罪人を招くために来た」と言われた理由は何でしょうか。もちろん、イエス様はすべての人のために来られました。しかしイエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。それは、病人が、自分が病人であると知った時はじめて治療を受けることができるようになるように、私たちがイエス様の招きに応えるために必要なことは、自分が罪人であり、神様の憐れみを必要としている存在であるということを知ることであるということです。

それには、この「罪人」という言葉をもって、イエス様が何を示しておられるのかを知ることです。律法学者たちは、「罪人」という言葉を、徴税人と並ぶ存在として使っていました。律法に反する行いをする人々を、罪人と呼んでいたということです。私たちも、「罪人」という時に、自分とは別の、目に見える存在を思い浮かべてしまいやすいのではないかと思います。しかし、神様が「罪人」と言われる時、それは、誰か他の人のことではなく、他でもない「わたし」という一人の罪人のことを語っています。

パウロはこのことを指して、自らのことを「罪人の頭」であると語っています。

テモテへの手紙一1章15節「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」

「罪人の中で最たる者」、「罪人の頭」であるという意味は、自分の犯した罪の数が、他の人よりも多いという意味ではありません。それは、神様の目には、まず自分という人間が裁かれるべき罪人であるということ、そのことだけが重要であるということです。神様は、わたしという人間が犯す罪の数がいかに多いことか、いかに深く罪に堕ちているか、知っておられます。そのことを、まず私たち自身が受け入れて、神様に助けを求めること、それが、イエス様の招きに応えるために必要なことであるということです。

レビがイエス様に招かれた時、彼は一人でした。その後、大勢の人々が彼と共にイエス様に従うようになりましたが、それでもレビは一人の罪人として、イエス様に従っていきました。そのように、私たちは主からの招きを受けるとき、「一人の罪人」として、神様と向き合うことが必要とされます。

そしてその彼の周りには、同じように救いを必要としていた多くの徴税人たちや、人々から「罪人」と呼ばれていた仲間たちが集まり、共にイエス様に従う者となっていきました。レビは、多くの人々を主のもとに導くための器として用いられ、後には、「マタイによる福音書」を執筆し、イエス様のことを世界中の人々に伝えてゆく存在とまでなってゆきました。

 

神様は、どのような人を招かれるのでしょうか?それは、今日の箇所によるならば、「一人の罪人」である私たちの一人一人を、です。私たちは、神様の御前に、「一人の罪人」として立たなくてはなりません。神様は、わたしという人間のこれまでの人生のすべてを、そして今置かれている状況のすべてを、そしてそこにある罪をすべて知っておられます。しかしそのようなわたしを裁くためではなく、救うために、イエス様は、今も招いて下さいます。その招きに応えて、レビが座っていたところから立ち上がったように、私たちも今いる場所から立ち上がる時、イエス様は私たちの罪をすべて赦し、私たちを癒し、そして神様のために豊かに用いて下さいます。