世の力に対する勝利

2022年9月4日 礼拝メッセージ全文

ダニエル書3章13節~30節

今日は、ダニエル書3章を読んでいきます。この3章では、ダニエルではなく、彼と一緒にバビロンに連れてこられた三人の少年のことが中心に語られます。彼らは元々の名前を変えられ、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴと名乗るようになっていました。この三人のことは、おそらく聖書を読んだことがなければ、ほとんど聞くことがないでしょう。聖書の中でも、彼らのことが中心に書かれているのは、今日の箇所だけになります。そのような意味で、今日の箇所は、このあまり目立たない三人の少年を通して、神様の力が現わされたということを伝えています。私たちの一人一人も、神様の目からは本当に弱く小さな者ですが、神様から力をいただく時に、この少年たちのように勝利することができるということを教えられます。

1.世の力に従わない

彼らは、神様の力によって、この世の力に勝利する者となりました。その勝利というものが具体的に指しているのは何でしょうか。それは第一に、彼らがこの世の力に従わなかったということです。つまり、この世に従わないという姿勢を持つということが、この世の力に勝利するということです。

この時、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、バビロン州の行政官に任命されていたと書かれています。国の中で重要な役職を与えられたということです。そのような彼らの従うべき存在は、当然国のトップであるネブカドネツァル王でありました。ところが、この王が、国に金の像を造るという大きな罪を犯しました。先週読んだ2章では、この王があまりに傲慢で神を畏れることを知らないので、神様が夢を通してそのことを示されるという出来事がありました。それにもかかわらず、今日の3章の初めで、王は自分があがめられるためにこの巨大な金の像を造りました。そして彼は、バビロンのすべての国民がこの像を拝むように強制し、もし拝まなければ燃え盛る火の炉にその者を投げ込むように命じたということです。

今日の箇所では、この三人の少年が、このような王の命令に対してどう対応したかが語られています。彼らは王の命令に従わず、金の像を拝むということをしませんでした。それは彼らが、イスラエルの神である主だけが唯一の神であると信じていたからです。この主の律法の中で、いかなる偶像も拝んではならないと明確に命じられています。

出エジプト記20章4~5節「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」

少年たちは、このような神様の命令に従うことを、王様の命令に従うよりも選んだということです。彼らは王に対してこのように答えています。

16~18節「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」

この三人は、なぜ自分の命令に従わないのかと問い詰める王に対して、そのことについて答える必要はないと答えました。なぜなら彼らは、自分の信じている神様は自分たちを必ず救ってくださると信じていたからです。そして、「そうでなくとも」、つまり、たとえ自分たちが命を落とすことになっても、決して王様の像を拝むことはいたしません、と答えた訳です。

このような三人の姿勢は、この世的な目で見ると、何と融通の利かない姿勢だろうか、と思われるかもしれません。像を拝むことを拒否して燃え盛る炉に投げ込まれるよりは、とりあえず形だけでも拝んで、命を守った方が良いのではないか、そういう風に考える人々がいるかもしれません。実際多くの人々は、このように考えて、王の像を拝んだと思われます。ダニエルたちと一緒にバビロンに連れてこられた人々の中にも、そのような人々がいたかもしれません。

しかし、ここに悪魔の罠があるということです。形だけ拝んでもよいではないか、このような考えはいつの時代にもあります。しかし、そのように、この世の力に従って神ではないものを拝んでゆくと、気づかない内に私たちの信仰が骨抜きにされるということを、悪魔は良く知っているのだと思います。バビロン捕囚の原因となったイスラエルの人々は、正にそのようであったと言うことができます。彼らは表面的には、主を信じ、礼拝し続けていました。しかし彼らは、主を拝むと同時にあらゆる偶像を拝むようになってしまいました。そのような彼らの心が、主から離れ切ってしまっていた、そのことを教えるために、神様はバビロン捕囚という出来事を起こされました。

このようなことは、私たちも経験してゆくことです。この世の力というものは、私たちがこの世の神を拝むように強制をします。この日本でも、戦争中には、天皇を神として拝むように命じられました。そして現代でも、この国ではあらゆる偶像の神を拝むことが、文化の一部であるかのように、習慣化されています。そして偶像とは、目に見える像や宗教的対象だけではありません。お金や欲望、人の評価など、あらゆるものが私たちの偶像になり得、そしてそれらは、私たちを神様ではなくこの世に従わせようとするのです。

このように、この世の力に従わないということは、私たちの自分の力ではできないものです。私たちを助けてくださるイエス様への信仰をもって、はじめて可能になることです。それは、イエス様ご自身が、神様でありながら、私たちと同じようにこの世で生きてくださったからです。イエス様は、十字架にかかられる直前に、ゲッセマネという場所で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに(マタイ26:39)」と祈られました。それは、まず「できることなら、十字架の苦しみを受けなくてよいようにしてください」という願いでした。イエス様も、私たちと同じように、この世を通して働く力の中で苦しまれたということです。しかしその後イエス様は、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。それは、自分の身も心もすべて主にゆだねて祈られた祈りでした。そしてイエス様は、この世の力に従うのではなく、神様に従って十字架で命を捨てられました。それは、イエス様がこの世の力に勝利されたことを示しています。私たちもこのイエス様が共におられるということを信じ、わが身を御手にゆだねる時、イエス様や、この三人の少年たちのように、この世の力に従わず、それに勝利してゆくことができます。

 

2.世の力から救い出される

二つ目に、世の力に対する勝利とは、世の力から救い出されるということでもあります。今日の箇所で、この三人の少年が、燃え盛る炉の中から何の害を受けずに救い出されたという出来事は、このことを伝えています。彼らが救い出されたのは、燃え盛る炉と、火のように激しい王の怒りからでしたが、これらのものは、彼らに及ぶこの世の力を表していました。この時、炉はいつもの七倍も熱く燃やされていたということです。そしてその熱さのあまり、噴き出る炎は少年たちを引いていった屈強な男たちをも焼き殺したと書かれています。そんな激しい炎の前に、三人の普通の少年たち、それも手足を縛られた者たちが、太刀打ちできるはずがありませんでした。

しかし、彼らは守られました。それは、人間には説明のできない超自然的な仕方によってでした。その様子を目撃したのは、ネブカドネツァル王本人でした。

25節「王は言った。『だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている』」

王は、縛られて炉に投げ込まれたはずの三人が、火の中を自由に歩いているのを見ました。しかも、彼らと共に、「神の子のような姿」をした人が一緒に歩いていました。この四人目の存在が誰であるのかについて、私たちは直接教えられていません。王は28節では、この存在を指して「御使い」と呼んでいます。いずれにしても、神様ご自身の直接的な関与があったことは疑えません。というのも、彼らは火で焼かれなかっただけでなく、全く何の害も受けなかったからです。

27節「火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった」

これは、全く自然の法則に反しています。でもこの出来事は、神様が、私たちの通常経験する自然の法則、また常識を越えて、人間を救われる方であるということを伝えています。このことはいつまでも変わらない真理です。もちろん、神様は、私たちの身の回りでいつも同じようなことを起こしてくださるということではないと思います。聖書は、神様を試してはならないとも教えています(申命記6:16、マタイ4:7他)。しかし、私たちが神様の力を信じて、この世の力に従うのではなく、神様に従う時、神様は、私たちを焼き尽くそうとするこの世の力から救い出してくださいます。

このことを私たちに具体的に教えているのは、やはりイエス様というお方です。イエス様は十字架にかかられて、三日目に復活されました。イエス様は、墓穴の中に葬られ、その入り口には大きな石が置かれていました。この様子を多くの人々が見ていました。しかし三日目の朝、墓穴のところに行ってみると、入り口の石は取り除けられ、中にはイエス様の遺体を覆っていた布だけが残されていました。それは、イエス様の復活という出来事が現実に起こったことであるということを、当時の人々に、また私たちに伝えています。そして、イエス様の復活は、イエス様を信じるすべての人が同じように復活の命を与えられること、そしてこの世の力から救い出されることができるという希望を伝えています。今日の箇所で、燃え盛る炉の中から救い出された三人の姿も、このイエス様の復活によって、世の力と死の力から救い出されることになる私たちの姿を指し示していると言えます。

 

3.世に対して証しをする

そして今日の箇所から教えられる最後の点は、神様の力によって勝利を経験した人々は、その勝利をこの世に対して証しする者となるということです。

28節~29節「ネブカドネツァル王は言った。『シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない』」

これまで見てきたように、このネブカドネツァル王は、神様を畏れることを知らず、自分自身を神としているような人でした。しかし、そのような王が「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と自分の口で告白をしたのです。彼がこのことを悟るために、ダニエルやシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、直接教えたり説得したりはしませんでした。王は、彼らが救い出されるのをその目で見て、自分でこのことを知るようになったのです。そして、最も神様から遠く離れていたであろうこの王様が、「彼らを救う神様は真の神である」と告白する者となったのです。だから私たちも、この世の中で生きてゆく時に、この世の力に従わず、そこから神様によって救い出されるという経験をしてゆくなら、それは私たちだけの経験にとどまらず、周りの人々にそのことを証ししてゆくことになるということです。それは私たちが自分の力で人々を説得したり、自分の行いで神様の愛を伝えたりするということではなく、本当に神様の一方的な力によって救い出されるということを私たちが経験し、そのことを分かち合ってゆくということです。

 

この三人の少年たちは、イスラエルの神である主、そしてイエス様こそが真で唯一の神であり、私たちを救ってくださる神であるということを証ししています。しかし、それを聞く私たちは何を教えられるでしょうか。このダニエル書を読んだ当時のイスラエルの人々が思ったであろうことは、「自分たちはこの三人の少年たちのようには、主を信じ続けられなかった」ということでしょう。当時、イスラエルの人々は、王も、高官も、預言者や祭司と呼ばれる人々まで、皆、この世の力に屈し、偶像を拝む者となってしまったからです。彼らがバビロンに連れてこられたのは、そのことのためでした。

しかし神様は、そのようなイスラエルの民のことを決して見捨てることはありませんでした。もう一度、自分のもとに立ち帰って欲しい、そうすれば、この三人の少年たちのように、バビロン帝国の燃え盛る火の中から、あなたたちを必ず救い出そう、そのようにイスラエルの人々を招いておられました。このことは、今を生きる私たちに対しての招きでもあります。私たちが生きているこの世の中にあっては、この世の力が日々勢力を増しています。終わりの日が近づくにつれ、神様を信じ続けることはますます難しくなってゆきます。私たちはそのような中、時に神様ではなく、この世の力に従ってしまうような罪過ちを犯してしまう弱い者です。しかしそれでも神様は、私たちが神様のもとに立ち返るなら、イエス様の恵みによって豊かに赦し、この世の力の中から私たちを救い出してくださいます。私たちの日々の生活の中では、常にこのようなこの世の力との戦いが存在しています。その戦いの中で、目に見える力ではなく、神様の力を信じて、イエス様と共に歩む時、主はこの世の力に対する勝利を与え続けて下さいます。