主に向かって開かれた窓

2022年9月11日 礼拝メッセ―ジ全文

ダニエル書6章10節~29節

ダニエル書は、ダニエルや彼の三人の仲間たちが、バビロン帝国の中でどのように信仰を保ち続けたかを伝えています。しかしそれは、ただ過去のことではなく、私たち一人一人がこの世の中で主を信じていくとはどういうことかを教えています。特にダニエル書には、終末、この世の終わりについての預言がたくさん記されています。そして、その終わりの時代に向かって、主を信じることがますます難しくなっていくということを伝えています。先週の箇所では、ダニエルの三人の仲間たちが燃え盛る炉に投げ込まれるという出来事が起こり、今週の箇所では、ダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれることになります。しかし神様は、ダニエルたちをいつも守り続けてくださいました。それは、どんな困難があろうとも、主を信じ続ける者は、最後には必ず勝利するという事実を私たちに伝えています。

 

1.エルサレムに向かって開かれた窓

今日の箇所ではまず、ダニエルが自分の家でお祈りをしていた時のことが語られています。

11節「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」

この時、ダニエルは本当に厳しい状況に置かれていました。彼の祈りは、祈らずにはいられない、というような祈りでした。

ダニエルが暮らしていたバビロン帝国には、一つの禁令が出されました。それは、「王様以外に願い事をする者は皆、獅子の洞窟に投げ込まれる」というものでした。このような禁令が出されたのは、人々がダニエルを陥れようとしたからでした。彼は、ユダの国からやってきた外国人でした。しかし、彼は5節にあるように「政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった」、とても優秀で、非の打ちどころのない人物だったのです。そこでバビロンの人々は、このダニエルを陥れて失脚させようと色々たくらんだ結果、彼がバビロンの神々ではなく、イスラエルの神を拝んでいるという理由で、彼を訴えようとしたのです。

彼は、皆が自分を陥れようとしている、誰も助けてくれないという状況の中で、どうしたか、「いつものとおり」お祈りをしたということです。ダニエルは、自分のことを守るために色々な手段を考えることもできたと思います。しかし彼はあくまでも「いつものとおり」主に祈った、それは主が必ず自分を助けてくださるお方であると信頼をしていたからです。

この箇所には、ダニエルが、「エルサレムに向かって」祈っていたと書かれています。彼がエルサレムに向かって祈ったのには、根拠がありました。エルサレムの神殿が建てられた時、ソロモン王が祈った祈りの中に、次のような言葉があります。

列王記上8:48-49「捕虜にされている敵地で、心を尽くし、魂を尽くしてあなたに立ち帰り、あなたが先祖にお与えになった地、あなたがお選びになった都、御名のためにわたしが建てた神殿の方に向かって祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてその祈りと願いに耳を傾け、裁きを行ってください」

たとえ敵の国に捕虜として引いて行かれたとしても、その場所から、エルサレムの神殿の方に向かって祈るなら、主は祈りを聞いてくださる、これがイスラエルの民の信じていたことでした。そこでダニエルはその通りにしたのです。

神様は、全地全能の方であり、すべての場所におられるお方です。だとすると、どの方角に祈るかは関係ないように思えます。でもこれは、方角そのものというよりも、祈る者の心がどこを向いているかの大切さを教える言葉です。

実際には、ダニエルの住んでいたバビロンの家の窓からは、エルサレムの様子は遠く離れて見えなかったと思います。それでも、エルサレムの方を向いて祈るということは、彼が心から主を信頼し続けたということを表しています。バビロンという異国の地で、孤独の中、自分を陥れる者たちに囲まれようと、王様以外を拝むことを禁じられようと、ダニエルは主だけに向かい続けました。

 

私たちはどうでしょうか。コロナ禍の中、礼拝堂に全員で集まるということが難しいという期間が続いています。最近は、少し集まりやすくなってきてはいますが、またいつ、感染症や、その他の社会情勢の変化によって、教会に集まることができないという時が来るかも分かりません。ダニエル書は、終わりの時代には、礼拝を妨げるこの世の勢力がますます強まっていくということを伝えています。しかし、私たちがどこにいようとも、社会の状況がどのように変わっていこうとも、私たちが主に向かうなら、主は私たちに答えてくださいます。ダニエルが祈り、賛美することを誰も止めることができなかったように、世の何物も、私たちの祈りと賛美を奪うことのできるものはありません。

 

2.獅子の洞窟の中で開かれた窓

主を礼拝し続けたダニエルは、禁令に定められた通り、獅子の洞窟に投げ込まれることになってしまいました。

獅子とは、ライオンのことであり、最もどう猛な動物として知られています。その獅子の洞窟に投げ込まれることは、残酷な死を意味しました。しかし今日の箇所は、ダニエルが、獅子の洞窟の中にあっても主によって奇跡的に守られたという出来事を伝えています。

23節「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです」

ダニエルは、自分は天使によって守られたのだと語っています。常識的には、獅子が人間を前にして口を閉ざすはずがありません。けれどもこの時は、獅子が口を閉ざしたのです。ダニエルがこの時、獅子の口を閉ざす天使を実際に見たのかどうかは分かりません。しかしいずれにしてもダニエルは、ただ運よく助かったのではなく、神のご介入によって救われたということを信じました。それはダニエルが、獅子の洞窟の中でも、主なる神様を見上げていたからです。

24節「ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」

ダニエルは、獅子の洞窟という、最も暗く、最も死に近い場所に投げ込まれました。しかし、その中でさえも彼は主に向かって祈りました。私たち人間の目には、暗闇と絶望にしか思われない状況の中にあっても、主に向かって祈る時、天に開かれる窓があるということです。

私たちは、実際に獅子の洞窟に投げ込まれることはないかもしれません。しかし、イエス様を信じて生きようとする時、私たちもダニエルのように、ある時は人を通して、ある時は法律や社会の流れ、その場の雰囲気によって、神様を信じることを妨げられるということを経験します。

ペトロの手紙一5章8~9節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」

この御言葉の中で、悪魔のことが、獅子にたとえられています。それは今日の箇所ともつながっていることです。ダニエルは、人々のたくらみによって陥れられ、獅子の洞窟に投げ込まれました。そこには、神を信じる者を食い尽くそうとする、悪魔であるサタンの働きがあったということです。その力は、今を生きる私たちにも及んでいます。特にそれは、ダニエルに対してそうであったように、人を通して働くことが多いのです。神様を信じようとする時に、人間関係の対立や問題が起こることがあります。もちろん、すべてがサタンのせいではなく、自分の過ちや愚かさが招く問題もあります。しかし、「何の汚点も怠慢もない」ダニエルが苦しめられたように、私たちがどんなに正しく生きていようとも、神様に従い続けるなら、必ずサタンは私たちを神様から引き離そうとして、様々な妨げを送り込んできます。そのような時、やはり私たちはペトロの言葉にあるように、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗」するべきです。そうしてゆくなら、神様は、ダニエルを獅子の口から救い出してくださったように、私たちをも悪魔の手から救い出してくださいます。

 

3.主に向かって開かれた窓

今日の箇所は、そのように主に信頼し祈り続けたダニエルの姿を伝えています。ダニエルが自分の家で祈った時、その場所は「二階の部屋」であったと書かれています。この箇所は新改訳では「屋上の部屋」、英語訳ではUpper Roomとなっています。いずれにしても、家の中の上の部分にある部屋ということです。

聖書の中では、祈りのために、上の部屋、もしくは屋上に行くという場面がたくさんあります。その中でも、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事の直前に、上の部屋に集まって祈った120人の弟子たち(使徒言行録1章)のことは良く知られていると思います。彼らが上の部屋に集まって、心を一つにして熱心に祈ったそのところに、聖霊が降るという出来事が起こりました。

上の部屋、または屋上で祈るということは、上という位置に意味があるのではなく、神様とより深く交わるために、日常の場から離れるという意味がありました。

私たちは、日常生活の中で、人と交わることが多いと思います。しかし、人と交わるあまりに、神様と交わることができなくなってしまうということもあります。特に、この時のダニエルもそうですが、人々との間に争いがある時、私たちはそこから離れて、神様と交わる場を必要としています。

 

以前、私がある教会で奉仕していた時、教会内の人と対立したことがありました。自分は何も悪いことをしていないつもりでしたが、この方は私の奉仕の仕方に色々と文句を言うことが多くありました。ある日曜日、礼拝の直前でしたが、この方はやはり私に文句を言い、その日は特に厳しい言葉を浴びせ、私の体を激しくつかんで離しませんでした。私は逃げるようにしてその場を離れ、教会の屋上に向かいました。この教会の屋上は、歩いて出られるようになっており、鍵をかければ完全にひとりになることができました。そして屋上には教会の十字架があり、私はこの時、十字架に向かって、自分の怒り、悔しさをすべてぶつけて祈りました。「この方を赦せません、でも赦せるように助けてください」そのように祈ると、不思議な平安が心に臨み、礼拝堂に戻ることができました。

これは、一つの例ですが、私たちは信仰生活の中で、同じようなことを経験することがあると思います。それは教会の中であるかもしれないし、家庭、もしくは職場の中であるかもしれません。それがどこであっても、私たちの敵である悪魔は、ほえたける獅子のように、私たちを食い尽くそうと探し回っているのです。悪魔は、私たちが主を信じ、祈り続けることができないように、様々な人や出来事を通して、私たちを妨げ、傷つけ、疲れ果てさせるのです。

しかし神様は、私たちがどこにあっても、何をしていても、いつも主を見上げて祈ることができるようにしてくださいます。ある時は、私たちもダニエルのように、上の部屋で主に向かって祈ることもあるでしょう。ある時は、自分の部屋で、ある時は、外を歩きながら、またある時はトイレの中で、それがどこであったとしても、私たちが主に向かって祈る時、主は天の窓を開いて、私たちに答えてくださいます。そして、ダニエルが獅子の洞窟の中に投げ込まれても、主を信頼し見上げ続けたことによって救い出されたように、神様は私たち一人一人のことも、あらゆる苦難から救い出してくださるのです。

 

そして今、私たちがこの礼拝を通して、主イエス様を求めてゆくならば、神様は私たち一人一人のもとに天の窓を開き、御自身の祝福を与えてくださいます。それはこの時だけではなくて、これから私たちが遣わされてゆくそれぞれの場所において、主に向かって開かれた窓を通して、私たちが祈りと賛美をささげてゆくならば、主は答えてくださり、豊かに報いを与えてくださいます。今週も、それぞれの遣わされる場所において、日々主を見上げて祈る私たちでありたいと願います。