創造主を覚えて生きる

2020年11月15日 礼拝メッセージ全文

 

コヘレトの言葉12章1~14節

 

 

1.造られた者であることを覚える

今日の箇所の初めには、こうあります。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ(1節)」

「青春」という言葉は、色々なイメージを私たちに与えるかもしれません。また、私より若い世代の方々には、「この言葉を知らない」という人もいるかもしれません。この箇所の原文では、「あなたの若い時」と書かれています。青春にしても、若い時にしても、その特徴は、自分の力で生きていると思ってしまうことではないでしょうか。自分も、学生や社会人になりたての頃、がんばれば何とかなるというような驕った考えを持っていたように思います。そのような中で色々な壁にぶつかり、段々と自分の思い通りになることばかりではないということを学んでゆきました。

そのように自分の力に頼ってしまうことの多い若い人たちに向けて、今日の聖書は「創造主に心を留めよ」というメッセージを伝えています。それは、私たちは誰一人自分の力で生きているのではなく、神様によって造られた存在であるということです。神様によって造られた私たちは、日々、その恵みに頼って生きるように招かれています。それは、一生懸命に毎日を生きることを否定している訳ではありません。この直前の箇所では言われています

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ(9節)」

与えられた毎日を喜び楽しんで生きること、それは神様が願われていることです。しかしそのような中でも、目に見える物事だけに心を奪われるのではなく、自分を造られた創造主を覚え続けるということです。

これは中々難しいことです。特に若い時には、自分の思いや願いが強く、それを通したいと願います。私は学生時代に聖書を読み、キリスト教に関心を持ちました。しかし、自分の中では、信仰を持つにしても、「もっと人生を楽しんでから」と勝手に思っていました。しかし振り返ると、神様を知らずに自由に生きていた自分に、本当の喜びや楽しみはなかったと思います。無意識の内に、いつも他人と自分を較べて、ああなりたい、こうなりたい、と自分にないものを願っていたのだと思います。しかし神様は、私たちの創造主です。私が何をできるか、できないかに関わらず、造られた者の一人である私を受け入れ、愛していて下さいます。また、私が楽しんでいる時も、悲しんでいる時も、いつも共にいて下さいます。そのような創造主である神様を知ることができることを、本当に幸せであると今思います。そして私たちがそのような幸せな人生を少しでも長く送って欲しいという願いから、神様は、「あなたの若い時に」、創造主を覚えるように今日の箇所で語っておられるのだと思います。

 

2.滅びゆく者であることを覚える

「創造主を覚えよ」と言われる主からの、もう一つのメッセージは、私たちがいずれ滅んでゆく存在であることを知ることです。

「若さ」や「青春」の特徴は、自分の力に頼ってしまうことと共に、自分の衰えを知らないということです。健康な時、順調な時、私たちは自分が衰え、いずれ滅んでいく者であるということを忘れてしまうことがあります。

しかし、誰でも確実に衰えてゆきますし、最後には死を経験します。2~7節は人が衰えていく様を、たとえを使って表現しています。

まず2節では、老いが迫ってくることを、「太陽が闇に変わる」「雨の後にまた雲が戻って来る」と表現しています。若い時が太陽、晩年が闇、にたとえられています。また、悩みや病気が繰り返される様を、「雨の後にまた雲が戻って来る」と表現しています。

また、3節~6節は、衰えていく人の体を表現しているという解釈が一般的です。3節「家を守る男は震え」とは、手や腕が弱っていくということ、「力ある男も身を屈める」とは、足腰が弱っていくということ、「粉ひく女の数は減って行き、失われ」とは、歯が失われていくということ、「窓から眺める女の目をかすむ」とは、目が悪くなっていくということを指し示していると考えられます。また、5節「アーモンドの花は咲き」とは、アーモンドの白い花が咲く、すなわち髪が段々と白くなっていくということ、そして「いなごは重荷を負い」とは、重荷を負ったいなごのように歩くことが難しくなっていくということを表していると言われています。

これらの言葉は、老いの悲惨さを伝えることが目的ではありません。そうではなく、もし、人がこの地上の人生にのみ希望を置いていたら、最後には必ず失望してしまうということを伝えています。老いと衰えから逃れられる人は誰もいないからです。しかし聖書は、私たちが滅びゆく存在であるということを伝えると同時に、この地上の人生がすべてではないということも伝えています。

7節「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」

塵から造られた存在である人間、すなわちいずれ滅びゆく存在である人間は、死後、創造主である神様の下に帰る、ということが伝えられています。創造主である神様は、私たちがこの地上の人生を終えたのち、私たちを御もとに引き寄せ、永遠に私たちと共に生きることを願っておられます。創造主を覚えて生きるとは、そのような天の御国が私たちのために用意されている、ということに希望を持って生きるということです。

 

3.裁かれ、救われる者であることを覚える

「創造主を覚える」ことが示す最後の意味は、私たちが裁かれる存在であるということを覚えることです。

もし、創造主の存在を信じずに、人間もこの地球も偶然の産物であると言うなら、私たちがどう生きようと、関係ないことだと言えるかもしれません。

しかし実際に創造主は存在し、私たちはこの主のために存在しています。そして主は、終わりの日に、すべての人間を裁かれます。裁かれるということの意味は、私たちのこの地上での人生が、創造主に栄光を帰すものとなったかどうか、判断されるということです。

「神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう(14節)」

目にみえることも、隠れたこと、つまり心の中で思ったり考えたりしたことも含めて、神様は裁かれると言われています。そのような完全な裁きに耐えることのできる人間は誰もいません。それは、全ての人が救いを必要としているという事実に他なりません。

11節には「突き棒や釘」という言葉が出てきます。これは何を意味しているでしょうか?これらのものは、ここでは、真理を伝える厳しい言葉という意味で使われています。人間が裁かれなければならないという真理は、そのままでは、「突き棒や釘」のように、私たちを突き刺す厳しい言葉です。しかしそれは私たちを苦しめるためにではなく、私たちを救いに至らせるために神様から与えられたものです。これらの言葉が、「ただ一人の牧者」によって与えられたと伝えられています。これは、羊飼いである主、すなわちイエス様のことを指し示しています。イエス様は、人間が罪を負うべき存在であることをお示しになりました。しかし、その罪を裁くために来られたのではなく、それを自ら十字架で背負うために来られました。イエス様は鞭で打ちたたかれ、ここで言われている通り「釘」によって十字架に打ち付けられました。この箇所はその事実を指し示しています。そしてこの箇所だけでなく、聖書の全体が、人間の罪を背負うためにイエス様が来られたということを伝えています。私たちは裁かれるべき存在でありながら、同時にイエス様の十字架によって救われる存在でもあるということです。創造主を覚えるということは、私たちが裁かれるべき存在であるということを知ること、そして、その裁きから救われるために、イエス様の十字架を必要としているということを覚えることです。

 

今日の聖書箇所は、このように、私たちが創造主を覚え、そしてイエス様の救いの恵みを覚え続けるように伝えています。そしてそのことが特に、若い人々に向けたメッセージとして語られています。しかしそれはもちろん、年齢的に若い人々だけでなく、全ての人に向けたメッセージでもあります。私たちが生きていくその日々の中には、様々なことが起こります。明日何が起こるのかということは、誰にも分かりません。そのような人生を指して、コヘレトは「空しい」という言葉を語り続けてきました。しかし、明日が分からないからこそ、今日という日に、主の御業と恵みを覚えて生きるように、コヘレトは呼びかけています。私たちも、今日という日に、創造主を覚えて、畏れつつも、主の恵みを喜び楽しんで生きてゆきましょう。