勝利の十字架

2021年3月28日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書27章32~56節

イースターまであと一週間となりました。この一週間は受難週と言われています。今日の聖書の箇所を通して、イエス様が十字架に向かわれた道を辿ってゆきましょう。

 

今日の箇所の最初の32節を見ると、イエス様を十字架につけた兵士たちは、十字架の木をシモンというキレネ人に担がせたと言われています。イエス様はその前の日の夜に捕らえられ、裁判を受け、そして激しい鞭打ちと侮辱を受けていました。そのような激しい苦しみの中にあったイエス様は、一人では十字架を担ぐことができないような状態にあったのかもしれません。そのようなイエス様に、兵士たちは、「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした(34節)」とあります。当時、十字架刑になった人に、ぶどう酒を飲ませるという習慣があったようです。十字架に手足を打ち付けるあまりの痛みで失神してしまわないように、痛みを少しでも感じさせなくするためであったようです。しかしイエス様はそのぶどう酒をなめただけで、飲もうとされませんでした。それは、十字架の痛みと苦しみを真っ向から受け止められたということを意味します。

イエス様が十字架で受けられたのは、痛みだけではありませんでした。35節を読むと、兵士たちはイエス様の着ていた服を、くじを引いて分け合ったと言われています。これは、詩編22編の中で、前もって預言されていたことの成就でもあります。メシアはこのような恥を受けるようになるということが、予め伝えられていました。さらに、イエス様のつけられた十字架の上には「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられました(37節)。これは、人々がイエス様を訴えるときに使った言葉です。イエス様は、メシア・真の王として来られたのに、人々はそのことを認めず、かえってそのことでイエス様を侮辱しました。そのようなイエス様は、二人の強盗と一緒に十字架につけられました。何の罪も犯していないイエス様が、犯罪人の一人と同じように扱われた、それだけの恥を受けられたということです。

多くの人々が、イエス様が十字架につけられる様子を見ていました。それは、とても救い主の姿とは思われませんでした。通りがかりの人々は、次のように言いました。

 

40節「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」

 

イエス様はかつて、エルサレムの神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる、と言われました。その言葉を持ち出して、人々はイエス様を侮辱したのです。そして、「神の子なら自分を救ってみろ」と挑発しました。このような言葉を、通りがかりの人々だけでなく、祭司長たち、律法学者たち、長老たち、つまりユダヤ人の指導者たちも、イエス様に投げかけました。

 

42~43節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」

 

聖書を良く知り、神を信じるユダヤ人たちもが、このような言葉をイエス様に投げかけました。これらの言葉に共通しているのは、十字架にかかることは、イエス様が神でないことの証明であり、十字架から助け出されなければ、イエス様を信じないという考えです。彼らは十字架を完全な敗北と捉えていたということです。それに対してイエス様は、これらの言葉に一言も言い返さず、十字架を従順に受け入れられました。それは十字架が敗北ではなく、むしろ勝利であるからです。イエス様は、十字架に従順にかかられることを通して、ご自身が神であることを証明されました。

その十字架の死が近づいた昼の12時に、全地が暗くなったと書かれています(45節)。こんな時間に全地が暗くなるということは、普通はあり得ないことです。それは、イエス様が背負われた全世界の罪の暗闇を指し示しています。イエス様はこの真っ暗闇の中で、3時ごろ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。イエス様は、人々から見捨てられるだけでなく、父なる神様から見捨てられるという、最も深い苦しみを受けられました。そしてその言葉をイエス様は「大声で叫ばれた」と書かれています。この時、十字架の上で苦しみぬかれたイエス様のどこに、そのような力が残っていたのでしょうか。それはイエス様が十字架で受けられた苦しみ、悲しみ、痛みの深さを物語っています。

しかし、そのようなイエス様の苦しみは、最後まで人々に理解されませんでした。傍で聞いていた人は、イエス様の叫びを聞いて、エリヤを呼んでいるのだと誤解しました。「エリ、エリ」という言葉が、エリヤに聞こえたのだと思います。そして人々は、苦しむイエス様に、なおも「酸いぶどう酒」を飲ませようとします(48節)。このようにぶどう酒を飲ませようとすることは、34節でも出てきたことですが、これも、メシアの受ける苦しみとして、旧約聖書の中で預言されていたことでした。

 

「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします(詩編69:22)」

 

まさにこのことが、十字架の上で成就されました。聖書に預言されていたとおりに、人間の背負うべきすべての苦しみ、痛み、恥を背負われたイエス様は、最後に死そのものを背負われました。それは、イエス様が十字架によって、すべての暗闇を背負われ、そして勝利したことを表しています。イエス様はこの時、再び大声で叫ばれました(50節)。それは、イエス様の十字架の死は、敗北ではなく、勝利であったということを示しています。

その後、イエス様が十字架で成し遂げられた勝利、これを示す出来事が、続いて起こりました。まず、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(51節)。この垂れ幕とは、神殿の中で、至聖所と呼ばれる最も聖なる場所をそれ以外の場所と分けるためにあったものです。この垂れ幕の中には、大祭司と呼ばれる聖職者だけが、年に一度だけ、罪の赦しのためにいけにえをささげるために入ることができました。この垂れ幕が破られたということは、イエス様の十字架の死によって、イエス様を信じる者はだれでも、いつでも、神様のもとに行くことができるようになったということを示しています。そしてさらに、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて多くの聖なる者たちの体が生き返ったと言われています。これらの出来事も、イエス様の十字架の死が、全世界に及ぼす力の大きさ、そして、死者をもよみがえらせる力を持っていることを示しています。このことは、三日目にイエス様自身が復活されたことによって、もう一度見ることになります。

さて、これらの出来事を見て、最初にイエス様を信じたのは誰だったでしょうか?それは、百人隊長、そして一緒に見張りをしていた人々でした。百人隊長とは、ローマの軍隊の中で、兵を統率するリーダーのような存在で、異邦人であったと思われます。彼らは聖書も、イエス様のことも、ほとんど知らなかったことでしょう。しかし、弟子たちやユダヤ人たちがイエス様を最後まで信じられなかったのに対し、この百人隊長や一緒に見張りをしていた人々は、イエス様の十字架の死、そしてそれに続く出来事を見て、「本当に、この人は神の子だった」と信仰を告白しています。そして、それに続いて聖書が伝えているのは、十字架にかかられたイエス様をずっと見守っていた婦人たちの姿です。当時の社会の中では、婦人たちの持つ力は決して大きなものではありませんでした。しかしこの婦人たちは、ガリラヤからゴルゴタの十字架までずっとイエス様に従い通し、そしてこの後、彼女たちがイエス様の埋葬と復活の証人となってゆきます。このように、イエス様の十字架の御業は、弟子たちではなく、百人隊長や婦人たちといった人々に担われて、伝えられてゆきました。そして振り返ると、今日の箇所の最初に出てきたシモンというキレネ人も、同じように、神様によって用いられた人でした。キレネとは、アフリカの北の方の地域で、現在はリビアの辺りになります。そのような遠い国からはるばるやって来た人に、イエス様の十字架は担がれ、そして後にこのシモンの子どもたちは、イエス様を信じるようになったと言われています。イエス様の十字架の救いの力は、国籍や、性別や、出身に関わらず、すべての人に及ぶものだということを、今日の箇所は示しています。

イエス様の十字架は、この世的な目で見るならば、苦しみであり、痛みであり、恥であり、敗北でしかありませんでした。しかしイエス様は十字架でそれらのすべてを背負われることを通して、すべてに勝利され、そして死にまで勝利されました。この救いの事実を、信仰の目を持って見続けていきましょう。イエス様の十字架の勝利は、イエス様を信じるすべての人の勝利でもあります。私たちがこの世の罪に支配された古い自分に死に、新しい命に生きること、そのために、イエス様は十字架にかかって下さいました。「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長のように、私たちは今日もイエス様の十字架の勝利に驚き、信じるものとなってゆきましょう。