十字架の上の勝利

2022年4月10日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書15章21節~41節

イースター、主の復活を待ち望むこの期間は受難節と呼ばれ、私たちはイエス様の十字架の苦しみを覚えて来ました。十字架は、受難、すなわちイエス様が私たちの代わりに苦しみを受けてくださったという出来事です。私たちが苦しむとき、十字架ですべての苦しみを背負って下さったイエス様が、その同じ苦しみを負って下さったということを、信じることができます。しかし、それだけでは、十字架についての真理の半分しか理解していないことになります。なぜなら十字架とは、苦しみの時であると同時に、勝利の瞬間であるからです。それは、神の力が、この世の力、罪の力、そして悪魔の力に対し勝利を遂げられたということを表す出来事です。しかし、その勝利とは、私たちが一般的に考える勝利とは全く違うもの、真逆のものです。

 

1.無力さの中の勝利

イエス様が十字架で遂げられた勝利とは、まず、無力さの中の勝利です。イエス様は、十字架の上で、全く無力な者となられました。そして、実際に死を経験されました。しかしイエス様は、そのように全く無力な者となられることを通して、十字架の上で勝利を現わされました。私たちは、その無力さの中にこそ、真の勝利を見ることができます。

イエス様は、今日の箇所で十字架につけられるまでにも、激しい苦しみを受けて来られました。15章15節に、「ピラトは、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」とあります。先週ご一緒に見たように、ピラトは、イエス様を十字架につけるべきでないのではないか、と思っていたようです。それで、イエス様に鞭打ちを行えば、群衆が満足して、釈放できるのではないかと考えた訳です。

ローマ帝国における鞭打ちとは、本当に厳しい刑罰でした。皮で作られた鞭には、骨や金属の塊がたくさん結び付けられており、受刑者は鞭打たれる度に、体をえぐられるような傷がついたと言われています。この鞭打ちによって死ぬことも多くあったそうです。

人々は、イエス様にそんな鞭打ちの刑を与えても、満足しませんでした。かえって、兵士たちは、イエス様を総督官邸に連れて行き、更なる暴力と侮辱を加えました。兵士たちは、イエス様に茨の冠をかぶらせ、そして何度も、葦の棒で頭をたたきました。茨のとげは、イエス様の頭に刺さり、それは激しい痛みだったと思います。兵士たちはさらに、イエス様につばを吐きかけたり、ひざまずいて拝んだりして、侮辱の限りを尽くしました。イエス様は、このように激しい痛みと苦しみの中で、ただなされるがままでした。

そして、今日の箇所の21節では、イエス様の十字架を、シモンというキレネ人が担いだと書かれています。これは、イエス様が、もはや自分の力では十字架を担ぐことすらできないほど、弱っておられたということだと思います。聖書は、そのような完全に無力になったイエス様の姿を伝えています。苦しみ、やつれ果てていく救い主の姿を、隠すことなく伝えています。しかし、それこそが正に、イエス様が、人間の力によってではなく、神の力によって、この世にあるすべての苦しみに勝利されたということを伝えています。

この世で、私たちが勝利するということは、いかにして力ある存在になるか、ということだと思います。そしてその力によって、自分を苦しめるものや人に打ち勝つのが勝利と呼ばれます。いま、ウクライナで戦争が行われていますが、そこでは、力ある者が弱い者を苦しめるということが起こっています。戦争とは、正に力と力のぶつかり合いです。そのように、力によって人を支配しようとするのは、戦争の時だけでなく、この世全体の原理です。

しかしイエス様は、すべてに打ち勝つために、むしろ最も弱い者となられました。そして、十字架にかかり、一切の人間の力を捨てて、最後に死なれました。それは、敗北ではなく勝利です。なぜなら、イエス様が十字架で、すべての力を、そして命を捨てられたことによって、私たちが救いを受ける者とされたからです。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」

イエス様は、愛のゆえに命を捨て、無力な者となることを喜ばれました。それこそが、本当の意味での勝利であり、イエス様の十字架の死は、このような神の力の勝利を私たちに告げ知らせているのです。

 

2.恥の中の勝利

次に、イエス様の十字架の上の勝利とは、恥の中の勝利です。今日の箇所は、イエス様がこの上ない恥を受けられたことを伝えています。イエス様が十字架につけられた時、イエス様は裸にされ、その服は兵士たちによって分けられました。それは、想像できないほど大きな恥であったと思います。神の子どころか、人間としての尊厳すらまったく感じられない死に方です。

イエス様がそのように全く惨めな死に方をされるということは、イエス様の誕生の時から、示されていたことでもありました。イエス様は、家畜小屋の中の飼い葉桶に、生まれました。それはイエス様が、偉大な権力者のようにではなく、へりくだった貧しい方として来られたということを示していました。

同じように、イエス様は、最も貧しい者として、十字架にかかられました。何の罪も犯していないイエス様が、二人の強盗、凶悪な犯罪者たちと一緒に、十字架につけられました。それは「罪人のひとりに数えられる(イザヤ53:12)」という預言の通りになるためでした。

そしてイエス様は、人々からの罵りを受けました。さらには、一緒に十字架につけられた者たちからも罵られました。このような究極的な恥の只中に置かれても、イエス様は何も抵抗されませんでした。「自分を救ってみろ」そのような人々からの挑発も受けました。このときイエス様は、神の子としての力を発揮し、十字架から降りることができたはずです。しかしイエス様はあえてそうされず、恥をすべてその身に受けられました。それは、そのように十字架の恥を担うことを通して、すべての人間を恥に陥れる罪の力に勝利するためでした。

この世において、恥を受けるということは、勝利の真逆にあります。誰もが、人から尊敬される存在になりたいと思うものです。特に、恥を嫌う日本文化の中では、恥はひた隠しにし、ふたをされてしまいがちです。そしてもし、恥が明るみになろうものなら、私たちは何とかして「本当は違うんだ」と反論をします。

イエス様は、どうだったでしょうか。十字架の恥と屈辱を自ら受けられました。イエス様は、自分を訴える一人一人に、正当に反論することができたはずです。そして、神の力を用いて、自らの身から恥を払拭し、人々からあがめられるような存在になることができました。しかしイエス様は、ユダに裏切られて捕らえられてから、十字架の死に至るまで、一度も反論や抵抗をしておられません。それは、全く罪のない方であるイエス様が、罪人の一人として、恥と屈辱を背負って死なれることを通して、私たちすべての人間を訴え、誘惑する罪の力に対して勝利するためでありました。

 

3.暗闇の中の勝利

最後に、イエス様の十字架の勝利は、完全な暗闇の中での勝利でした。その最も暗い闇の中でこそ、十字架の勝利が成し遂げられました。

イエス様が十字架につけられてから3時間後、昼の12時に、全地が暗くなりました。お昼の12時ですから、本来は最も明るい時間帯であるはずです。しかしこの時、空が暗黒に包まれ、しかも「全地」が暗くなったと書かれています。この暗闇とは、単に天候的な意味での暗さを指すのではなく、光である神様の不在を意味しています。

神様は、この世界を造られたとき、はじめに「光あれ」と言われました。光とは、神様ご自身を指し示すものであるからです。この神様の光、神の栄光は、神様がここにおられるという臨在を示すものであり、イエス様がお生まれになったクリスマスの夜、羊飼いたちはこの栄光を見ました。

イエス様が十字架につけられた日、全地は暗闇で覆われました。その暗闇の中でイエス様は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。つまりイエス様は、神様の不在という暗闇、神様から見捨てられたという最も深い暗闇を経験されたということです。

私たちはだれでも、心の内に何らかの暗闇を抱えて生きています。それは、親子関係や過去の人間関係、トラウマ体験など、様々なことにより生まれます。私たちは普段あまりそれを意識することをせず、むしろ隠そうとしてしまいがちであると思います。ふとした拍子にそれは明るみに出て、自分がいかに傷ついているのか気付きます。

この暗闇は、私たち人間の力によって消すことができません。今日の箇所で、イエス様は、神様から見捨てられたという暗闇の中で、何ら人間的な力を用いていないことが分かります。あるのは、ただ、嘆きの言葉のみです。この言葉を人間的に見ると、何と弱々しい、絶望の言葉でしょうか。しかし、そのように、イエス様が自らを全く空しい者として、すべての暗闇を担って死なれたことを通して、暗闇に対する勝利が与えられました。

この勝利とは、暗闇の力、すなわち悪魔に対する勝利を意味しています。サタンと呼ばれる悪魔は、罪を犯す私たち人間を訴え、滅びに至らせようとしてきました。しかし、このサタンに勝利するための方法が、創世記3章15節に書かれています。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」

これは、救い主として来られるイエス様のかかとが砕かれることによって、サタンの頭が砕かれる、つまり、イエス様の死によって、サタンに対する勝利が与えられるということを初めに預言した聖書の言葉です。イエス様は、正にこの言葉の通り、暗闇の世界の支配者であるサタンに勝利するために、十字架で死なれました。そのようにイエス様の死は、空しい敗北の死でなく、サタンに対する勝利を表す出来事です。

 

4.「本当に、この人は神の子だった」

そのように、イエス様が十字架で勝利されたという事実を、最初に信じたのは誰だったでしょうか。それは、弟子たちでもなく、ユダヤ人の群衆たちでもなく、イエス様を十字架につけ、そのそばに立ち続けた、百人隊長でした。

百人隊長とは、ローマ帝国の軍隊の中に約60あったと言われる、それぞれの小隊を任された隊長でした。兵士たちは、この隊長の命令で、イエス様を引いてゆき、暴力や侮辱を加えた後、十字架につけた訳です。

そのように、イエス様の死の一部始終を見届けた、この百人隊長には分かったのだと思います。この方は、本当に何の罪も犯していないのだと。それにも関わらず、何の抵抗も反論もせずに、鞭打ちや侮辱、そして十字架の苦しみを、たった一人で、耐えられたのだと。それは、イエスというその人の力によるのではなく、彼と共にある全能の父なる神の力によるものだと。

そのイエス様は、息を引き取られる直前、大声で叫ばれました。十字架につけられた人は、激しい痛みと苦しみの中で、少しずつ窒息して死んでゆきます。そんな状態で、どうしてイエス様は大声で叫ぶことができたのでしょうか。それは、百人隊長や兵士たちに驚きをもたらしたと思います。そしてそれだけでなく、イエス様の死の瞬間、エルサレムの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けるという出来事が起こりました。この垂れ幕とは、神殿の中の至聖所の入り口にかけられていたもので、神の臨在する至聖所をそれ以外の場所と区切るためのものでした。それが裂けたということは、誰でも主のもとに行くことができるようになったということを意味しました。イエス様の死は、そのように、だれでも信仰によって主なる神様との交わりを持つことができるようになったという結果をもたらしたのです。そのことまで、このとき百人隊長が理解したのかどうかは分かりません。しかし、イエス様の死が、神の力の勝利であるということを、彼は直感的に理解したのではないかと思います。

 

私たちにとっては、どうでしょうか。今、私たちはイエス様の十字架の出来事から2千年以上後の時代を生きています。聖書を通して、このイエス様の十字架の出来事を、今、聞いています。十字架にかかられたイエス様の姿は、相変わらず、むごたらしく、心に痛みをもたらすものです。それは、罪の支配する荒んだこの世界の現実、そして私たちの現実を指し示しています。でも私たちは、この百人隊長が十字架のそばに立ち続けたように、イエス様の十字架の下に留まり続けるなら、罪と死の只中において勝利されたイエス様の姿を見ることができます。

そして私たちが、十字架の上で勝利されたこのイエス様を信じるなら、あらゆる苦しみを受ける時、人間の力によるのではなく、神の力によって、私たちにも勝利が与えられるということを信じることができます。イエス様の十字架の死は、終わりではなく、私たちに命を与えるためのものであったと信じることができます。

私たちは、それぞれの生活の中で、様々な苦しみを経験してゆきます。そしてその苦しみの中で、無力さや、恥、暗闇に行き当たるものであると思います。しかし、その中からこそ、イエス様の十字架を見上げることができます。イエス様が、無力さと恥と暗闇に、十字架の死によって勝利されたことを信じることができます。そのように勝利されたイエス様が、今日も私たちと共にいて下さいます。そして、私たちの生活の只中で、勝利を与え続けていて下さいます。