収穫は多いが、働き手が少ない

2021年1月31日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書 9章35節~10章15節

 

今週は、マタイによる福音書9章の終わりの箇所からです。先週の8章では、イエス様が多くの人々のあらゆる病や患いをいやされたという出来事が伝えられていました。今日の箇所でも、イエス様がそのような働きを続けておられたということが分かります。

35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」

「ありとあらゆる病気や患い」とあるように、当時、本当に色々な病気や問題が、人々の間に存在していたということが分かります。それは、今日の私たちも同じではないでしょうか。私たちも、特に今は、新型コロナウイルスによる感染の問題で、多くの不安を抱えて生きています。しかしこの当時も、もしかしたらそれ以上であったかもしれません、あらゆる病気や災いに悩まされながら、人々は生きていました。

イエス様は、そのような私たち人間の姿を御覧になって、どのように思われているでしょうか。

36節「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」

イエス様は、あらゆる病気や患いで苦しんでいる人々の姿を見て、「飼い主のいない羊」のようだと思われたということです。羊とは、飼い主を必要とする存在です。羊は、目が良く見えず、遠くのものはよく分からないと言われます。そのような羊は、飼い主がいなければ、簡単に迷ってしまいます。また羊は、決して強い動物ではありません。野にいる色々な外敵に襲われてしまったら、ひとたまりもないような存在でもあります。そういう意味でも、外敵から身を守ってくれる羊飼いの存在は、羊にとってなくてはならないものであると言えます。イエス様は、弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿を見て、「飼い主のいない羊」のようだと思われました。それは、真の羊飼いである神様によって導かれず、守られない、人間の姿を指しています。私たちも、神様を知らなければ、どのように生きたらよいのか、次に何をしたらよいのか分からず、すぐに迷ってしまう、羊のような存在です。また、あらゆる苦しみや危険に陥ると、誰に頼ることもできず、途方に暮れてしまう、弱い存在でもあります。イエス様は、そのような人間は、神様を、すなわち、命の導き手である存在を必要としているということを、弟子たちに語られました。

イエス様は、そのような苦しみの中にある人々をただ御覧になっていただけという訳ではありません。36節には「深く憐れまれた」と書いてあります。この「深く憐れむ」という言葉は、聖書原文のギリシャ語では、「はらわたが動かされる」という意味の言葉になっています。聖書では、はらわた、すなわち内臓は、魂の宿る場所を示す言葉として使われています。つまりイエス様は、魂の奥底から、憐れみを感じられた、痛みを感じられたということです。飼い主のいない羊のような人間の有様を見て、それだけ深い苦しみと痛みを感じられたということです。イエス様は、そのような人間の一人一人を救うために、この世に来てくださいました。私たちがこの世で経験する様々な苦しみや痛みを背負うために、十字架にかかられ、死んでくださいました。そして今でも、イエス様は私たちのすべての苦しみや痛みを、担っていてくださいます。

 

今日の箇所で、イエス様は、このように救いを必要としている人間の姿について明らかにされた上で、もう一つのことを語っておられます。それは、37節にある「収穫は多いが、働き手が少ない」という言葉です。まず、ここで言われている「収穫は多い」ということの意味について、見てみたいと思います。

「収穫」と訳されているこの言葉は、別の聖書箇所では「刈り入れ」とも訳されています。私たちも稲や麦の刈り入れをして、その実を収穫します。そのように、収穫とは、実った実を刈り入れるという意味です。ではこれは、聖書ではどのようなことを意味しているでしょうか。

「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている(ヨハネ4:35-36)」

イエス様がここで言われているように、収穫・刈り入れとは、人々が救いに導かれ、永遠の命に至るということです。そして、この箇所では、その収穫の実が「色づいて刈り入れを待っている」と言われています。これは、今日の箇所でイエス様が「収穫は多い」と言われた言葉と重なっています。しかしこのようなことは、当時の人々もそうだったかもしれませんが、私たちの目には、到底ありえないことだと思われてしまうことがあるのではないでしょうか。世界は、この当時から変わらず、様々な問題や病気、苦しみで溢れています。そして、教会の中を見てみても、残念ながらこの日本においては、クリスチャンの数が人口の1%にも満たない状況で、それは近年さらに減少していると言われています。そういう状況の中で、どこに収穫があるのか、収穫の日は本当に来るのだろうかと思われてしまうかもしれません。しかしイエス様は、今日の箇所を通して、たとえどんな状況の中にあっても、「収穫は多い」ということを語っておられます。目に見える現実がどれだけ厳しくても、将来に関する展望がどれだけ暗くても、神様が用意しておられる収穫は現実にあり、それは「多い」ものであるということです。私たちの一人一人が、その収穫の喜びにあずかることができるということを約束しておられます。私たちはこのような神様の約束を受け取って信じるように、今日も招かれています。

 

そしてイエス様の約束は、次のように続きます。「働き手が少ない」と。この「働き手」ということについては、続く箇所の10章1~15節で語られている十二弟子の姿から学ぶことができます。

まずこの十二人は、どのように選ばれたのでしょうか。ここに挙げられている十二人の中には、詳しいことが分かっていない人物もいます。しかし、私たちに分かる範囲だけでも、これらの人々が、神様の一方的な恵みによって選ばれ、遣わされたということが分かります。最初の四人、すなわち、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネですが、彼らは元々漁師であったことが分かります。漁師とは、社会的にはとても高い身分とは言えません。そして十二人の中頃には、「徴税人のマタイ」という名前があります。これは、このマタイによる福音書を執筆したマタイであると思われますが、彼は徴税人、人々から忌み嫌われていた存在でした。そしてリストの最後は、「イスカリオテのユダ」です。ここにも書かれているように、このユダが後にイエス様を裏切る者となりました。このように見てくると、十二弟子の中には、本当に色々な人がいたということが分かります。彼らは、自分の地位や能力によって使徒とされたのではありませんでした。しかもその中には、後にイエス様を裏切る者すらいました。このような十二人が選ばれて使徒とされたということは、神様が私たちに対して持っておられる計画について表しています。それは、罪人であり、弱さを抱えた私たちの一人一人が、神様の救いのために用いられるようになるということです。私たち自身にはそのような力はありませんが、イエス様は、神様からの一方的な恵みによって、私たちを選び、また遣わして下さいます。

5~15節には、十二使徒が実際にどのような働きをしたのかについて書かれています。この箇所を見ると、彼らがイエス様によって行われたことをそのまま行っているということが分かります。

7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」

この言葉は、かつて洗礼者ヨハネが語った言葉であり、そしてイエス様が語られた言葉でもありました。十二弟子は、この同じメッセージを伝えるようにイエス様から言われました。ですから、彼らの伝えた福音というのは、自分で造り出した特別なメッセージではありませんでした。そうではなくむしろ、イエス様から聞いたことをそのまま伝えた、というのが彼らの福音宣教でした。

8節「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」

これらのことも、先週の8章に出てきたイエス様の御業でした。イエス様はあらゆる病気の人々をいやし、悪霊を追い出し、福音を宣教されました。その同じ働きをするようにと、イエス様は十二弟子に命じられました。このことを私たち自身の働きの中で考えてみるならば、福音のための働きとは、自分の力で善いわざを行うのではないということが分かります。イエス様から与えられた恵みを分かち合ってゆくということこそが、働き手の務めの本質であるということです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。私たちは、ただでイエス様の恵みをいただき、救われた者です。だから、私たちはその恵みをただで分かち合ってゆきます。それは、イエス様の恵みがどれだけ大きなものであるかを、そしてそれは私たちの努力によるものではないということを、世の人々に示すためでした。

 

14節「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」

 

十二弟子は色々な町や家々を巡って、福音を伝えました。しかし、彼らや彼らの言葉を受け入れない人々もいました。この箇所は、そのような時にはどうするべきかを伝えています。それは、その場所を出て行って、「足の埃を払い落としなさい」というものでした。これはとても厳しい言葉のように聞こえると思います。しかしこのことは、十二弟子も、また今福音を伝える私たちも、働き手であるということ、そして働き手の務めはあくまで収穫をすることであるということを表しています。収穫者の務めは、実を造り出すことではありません。既に実っている実を刈り入れるのが、収穫者の務めです。ですから、そこにもし実が無ければ、実を造り出すことは、人間にはできません。もし福音を伝えても、そこに実を結ぶことを見ることができないのであれば、それはまだ収穫の時ではないということ、そしてその人々の救いは、神様にゆだねなさいということを、イエス様は語られています。

 

イエス様によって遣わされた十二弟子の姿から、私たちは、自分もイエス様の恵みによって遣わされている働き手であるということを知ることができます。イエス様は、そのような働き手である私たちに改めて、「収穫は多いが、働き手が少ない」と語っておられます。私たちの目に見える現実は、この御言葉と逆のものであるかもしれません。「収穫は少ないが、働き手が多い・・・」、このように思えてしまうことがあるかもしれません。この世の中にあって、あらゆる問題に直面する時、その問題が一向に改善されない時、私たちは、自分の無力さを覚え、自分の働きは無駄なのではないか、と思ってしまいます。しかしイエス様は、私たちの一人一人が、神様によって選ばれた働き手として既に遣わされていると語っておられます。そして、その働きの先には、大きな収穫が既に用意されているということを約束されています。私たちの理解や想像をはるかに超えて、神様の大きな収穫の恵みが用意されています。その収穫の実を刈り入れるために、主は私たちの一人一人を働き手として必要とされています。この神様からの招きに応えて、大いなる収穫を待ち望み、イエス様の恵みを分かち合ってゆきましょう。