哀しみ 呻き 嘆かれる神

2021年8月1日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 2章1~10節

8月から9月にかけて、エゼキエル書をご一緒に読んでゆきましょう。皆さんは、エゼキエル書について、どのようなイメージを持っておられるでしょうか?長い、難しいというイメージがあるかもしれません。確かに難しい箇所もたくさんあると思います。しかしそこには、今を生きる私たちに向けられたメッセージがたくさん詰まっています。この夏、エゼキエル書からじっくりと御言葉を聞き、主の恵みを受けてゆきましょう。

今日はまず、エゼキエル書の背景について見てゆきたいと思います。エゼキエルという人物については、1章の初めのところに説明があります。

 

1章1~3節「第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ」

エゼキエルは、「ケバル川の河畔に住んでいた」とあります。このケバル川は、バビロンの地の中に流れる運河のような川であったと言われています。イスラエルの民は、主ではない偶像の神々を拝むという罪を犯し、バビロンに移住させられることになってしまいました。エゼキエルも、そのようにバビロンに捕囚とされたイスラエルの民の一人でした。そして1節の「第三十年」という言葉が示すように、この時、エゼキエルは三十歳であったと思われます。まだ若い一人のイスラエル人であったエゼキエルは、川のほとりで、「神の顕現」を経験しました。「顕現」とは、神様が目に見える形で現れるということです。

この時の神の顕現の様子について、続く4節以降が伝えています。それは、本当に不思議な驚くべき光景です。それを読んでも、私たちはその全体がどのようになっているのか、中々理解できません。それは、言葉では表現できない程、不思議な光景であったということでしょう。そこではまず、「四つの生き物」の存在が語られます。この生き物が何であるかについては、エゼキエル書の10章で語られています。

10章20節「これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしは、それがケルビムであることを知った」

エゼキエルが見た四つの生き物の正体は、ケルビムであったと言われています。このケルビムとは、聖書の中で繰り返し登場する存在で、「天に存在し、神様に仕える生き物」であると言われています。エゼキエルは、この地上にいながらにして、天に存在するケルビムを見る者となりました。しかし、エゼキエルが見た最も大切なことは、このケルビムの上に、神様ご自身の存在を見たということです。

1章26~28節「生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた」

エゼキエルが見たケルビムの上には、サファイアのように輝く天の王座があったということです。その上に、神様の御姿があったということをエゼキエルは伝えています。それは、腰のように見えるところから上は琥珀のように輝き、腰のように見えるところから下は、虹のように光を放っていた、ということです。これらの言葉は、神の栄光の輝きを表しています。この世の物とは思われない程の眩い輝きに包まれた神の栄光の輝きを見て、エゼキエルは、「ひれ伏した」と書かれています。

神の栄光というものを実際に見るという出来事は、聖書の中で幾度も記されています。例えば同じ預言者のイザヤやダニエルも、それぞれ違った仕方で神様の栄光に出会いました。しかしその時の反応はみな同じで、神の栄光の前にひれ伏すというものでした。私たちも、もし同じような光景を目にしたら、きっと同じ反応をすると思います。それだけ、私たちが信じている神様の栄光は、驚くべき、輝かしい存在であるということです。そのことを私たちは普段そこまで実感することがないかもしれません。私たちは、エゼキエルの伝える神の顕現の様子を通して、全ての人間がひれ伏すべき偉大な神の栄光を思い浮かべることができます。

神の栄光の前にひれ伏したエゼキエルの元に言葉がありました。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる(2章1節)」という言葉でした。

偉大な神の栄光の前にひれ伏していたエゼキエルに対して、主は「自分の足で立て」と語りかけられました。人は皆、神様の御前には、あまりにも小さく、弱い存在です。しかし、そのような人間に対して主は、御言葉を与えて下さいます。私たち人間が神の御言葉を聞き、その御言葉を行い、神の栄光を現わす者となることを願われるからです。

エゼキエルに与えられた言葉の内容について、今日の箇所は次のように伝えています。

2章10節「彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」

主は、エゼキエルに御言葉を「巻物」として渡されました。その巻物は、表にも裏にも文字がびっしりと書かれていて、その内容は、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」ということです。私たちは、神様から与えられる御言葉は、喜ばしい言葉、祝福の言葉であることを願いますが、この箇所を見ると、それはむしろその逆の否定的な言葉のように聞こえます。これらの言葉が表しているのは、神様ご自身の内にある、哀しみ、呻き、嘆きのことです。神様は、人間の神に背いた歩みを、嘆き悲しんでおられます。聖書の初めにアダムが神の命令に背き、善悪の知識の木の実を食べてから、イスラエルの民が偶像を拝み、バビロン捕囚を経験し、そして、今日の私たちに至るまで、人間は常に神に背き続けてきました。そのような私たち人間の「罪」に対して神様が持っておられる哀しみ、呻き、嘆きについて、この言葉は表しています。

3章1~3節「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」

神様から与えられた巻物をエゼキエルが食べると、それは「蜜のように口に甘かった」と言われています。神様の嘆き哀しみの言葉が、どうして蜜のように甘いのでしょうか?実は、これとほぼ同じような内容が、ヨハネの黙示録に記されています。

ヨハネの黙示録10章8~10節「すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」

この箇所は、エゼキエルの箇所を踏まえて書かれていると思われますが、いずれの箇所も、巻物を食べるという行為が書かれています。そして、それは口には蜜のように甘かったと言われています。この箇所では、食べると「腹が苦くなった」と言われています。

エゼキエル書でも、少し後の3章14節では「わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行った」と書かれています。そして、その後は、エゼキエルが、ぼう然として七日間座り込んでしまった、と書かれています。

神様が語られる言葉は、初めは蜜のような甘さを与えるものかもしれません。しかし、それを深く知っていくにつれ、私たちは甘さだけでなく、苦さを感じるようにもなります。それは、救われることの喜びを知るにつれ、救いを知らずに滅びゆく魂への哀しみ、苦い思いが増し加わっていくということです。ヨハネの黙示録は正に、イエス・キリストの再臨という出来事が、主を信じる者にとっては永遠の救いに至る喜びの知らせであると共に、主を信じない者にとっては、永遠の刑罰に至る悲しみの知らせであるということを伝えている書物です。そして、このエゼキエル書も同様に、主に選ばれ、愛されているイスラエルの民に対する神の愛を伝えていると同時に、主に背き続ける人間に対する神の哀しみ、呻き、嘆きを伝えています。

今日の箇所だけでなく、エゼキエル書を読んでいくと、そこにはたくさんの裁きの言葉や、嘆きの言葉、怒りの言葉があり、私たちはそれを読んでいると、苦々しい思いになることがあるかもしれません。しかし、それらの言葉を通して、私たちは神様ご自身の私たち人間に対する深い思いについて知ることができます。神様は、背き、離れて行くものを、忘れてしまうようなお方ではありません。むしろ、心の奥底にまで深い悲しみを抱いて、イスラエルの民が、そして私たち全ての人間が、御自身の元に立ち帰って来て欲しいと、強く願っておられます。それは私たち人間に対する神の愛のゆえです。

そしてこれは、私たちのために十字架にかかられた、イエス様の心でもあります。イエス様は十字架にかかられる前に、ゲッセマネというところで、弟子たちに次のように言われました。

マタイによる福音書26章38節「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」

イエス様は、何を悲しんでおられたのでしょうか?それは、ご自分の死に対する悲しみだけでなく、神の愛に背き、その独り子を死に至らしめてしまう、人間の罪に対する悲しみであると言えます。しかしこのように悲しむイエス様のそばで、弟子たちはどのようにしていたでしょうか?彼らは眠ってしまいました。イエス様の切実な悲しみの言葉を聞いても、それでもなお眠ってしまう、それは、私たちすべての人間の姿を指し示しています。私たちも、知識として、イエス様が十字架にかかられたことは知っています。しかし、イエス様の十字架の痛み、そしてその悲しみについて、どれだけ思いを寄せているでしょうか?イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われましたが、私たちもまた、弟子たちと同じように、日常生活の中で、イエス様の十字架の苦しみのことをいつしか忘れて、眠ってしまう者であるかもしれません。エゼキエル書は、そのような私たちが「目を覚ます」ための、警告の書であると言えます。イエス様は、私たちの罪のゆえに、今も、哀しまれ、呻かれ、嘆かれています。

 

私たちはこの世の中で、私たちは様々な哀しみや嘆きを経験してゆきます。しかし、それに遥かにまさる哀しみや嘆きを経験された神様がおられるということを、私たちはもう一度思い返す必要があります。エゼキエル書を通して、私たちはそのような神様の哀しみの深さというものを知ることができます。そしてその哀しみのゆえにこそ、神様がどれほど私たちを愛しておられるのか、その愛の深さを知ることができます。