安息への招き

2021年10月31日 礼拝メッセージ全文

詩編92編1~16節

今日の詩編は、特に「安息日」のためのものであると書かれています。安息日とは、旧約聖書の戒めにある教えで、人は6日間働いた後、7日目は休まなければならない、というものです。これは神様が、天地を6日間で創造されて、7日目に休まれたということに由来しています。ユダヤ人は今でも、この教えを守り、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日とし、すべての活動をやめています。

この安息日とは、ユダヤ人のためだけのもので、イエス様が来られた今、私たちには関係のないものなのでしょうか?イエス様は、安息日について、こう言われました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある(マルコ2:27-28)」

イエス様は、安息日が「人のために定められた」と言われました。それは、人間が決まったリズムで休むことは、神様が人間を作られた摂理にかなっているということでしょう。私たちは誰でも、休む時間が必要です。体だけでなく、心を休める時間というものが必要です。しかしイエス様はそれだけではなく、ご自分が「安息日の主」であると言われました。ユダヤ人は安息日を守るために、たくさんの細かいルールを作りました。「安息日にはこれはしてはいけない」「これ以上歩いてはいけない」というようなものです。でもイエス様が言われたのは、本当の目的が安息日を守ること自体にあるのではなく、それを通して、主であるイエス様に感謝をささげることにあるということでした。これは、安息日という特定の日のことだけではなく、私たちが神様のもとに安息を得ることを通して、主に感謝をささげるようにという、神様からの招きでありました。

 

1.主に感謝をささげる

2~3節「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは、いと高き神よ、御名をほめ歌い、朝ごとに、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは」

「いかに楽しいことでしょう」という言葉で、今日の箇所は始まっています。ここで、「楽しい」と訳されている言葉は、原文では「良い」という一般的な言葉で、英語訳ではGoodとなっています。神様は天地創造の時に、すべての被造物を御覧になって、「良しとされた」と言われています。その「良い」と同じ単語が使われています。

つまり、創造主である神様に感謝するということ、これは「良い」ことであり、世界の初めから、神様が人間に願っておられることであるということです。そして、私たちがそのように神様に感謝をするとき、私たちは、神と共に安息を喜び、楽しむことができるということでもあります。

「朝ごとに、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは」。私たちが何もしなくても、夜があり、そして朝がやって来ます。そのこと自体が、神様の恵みであり、私たちには神様に感謝するべき十分すぎるほどの理由があります。日々の中で、私たちにはあらゆる不平や不満、思い煩いが募ります。それをいったん神様にゆだね、感謝するということ、これが神様の与えられる安息の中を生きるということです。

しかしこのことは、口で言うほど簡単なことではありません。私たちは何か少しでも不安なことがあったり、自分の思い通りに行かないことがあったりすると、感謝できず、楽しめないものです。

先日、私は夏の休暇をいただきました。身体を休めることのできる時間が与えられたことに本当に感謝しました。しかし、お休みをいただきながらも、中々普段の生活から離れることができず、色々なことが気になってしまう自分を発見しました。私が以前働いていた会社のイギリス人の上司は、夏になると、海外に1か月の家族旅行に行きました。宿泊先では料理人を雇い、完全なバカンスを楽しんでいたそうです。もしかしたらそのようにできれば、完全に休むことができるのかもしれません。ただ、これは日本では中々難しいですし、私たちのすべてがそのような休暇を楽しむ時間やお金がある訳ではありません。

では私たちは、どのようにしたら本当の安息を得ることができるのでしょうか?それは、今日の御言葉にあるように、まず神様に感謝をささげるということ、このことによって与えられます。もし、私たちが安息を得るために、「これこれこういうことをしなければならない」と考えるとしたら、たとえ休んでいても感謝はなくなります。それは正しくイエス様が言われたように、「人が安息日のためにある」という本末転倒なことです。大切なことは、どのように休むか、お休みに何をするか、ではなく、まず神様に感謝をするということ、そしてそのためだけの時間を持つということであると思います。

私たちは、なぜ感謝することができるのでしょうか。それはイエス様が、わたしの罪のために十字架で死んで下さったことを通して、神様の愛が注がれているからです。昨日までのわたしの生活の中で何があったとしても、イエス様はすべてを赦して下さり、今日という日に、神様の愛を喜び楽しむことができるようにして下さったからです。私たちはこのような感謝をささげる神の安息に、この日曜日だけでなく、毎日、招かれています。そして、その招きに応えて主であるイエス様に感謝をする時、私たちの心は、深い神の平安を喜び、楽しむことができるようになります。

5節には「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」とあります。神様の安息とは、私たちが自分に既になされた神の御業に感謝するということです。そして、すべてのことをこの神様の御手にゆだねていくということです。イエス様を信じる私たちは皆、この神様の安息を受けるように招かれています。

 

2.人の評価からの解放

次に、そのような神の安息に生きる時、私たちの内に何が起こるでしょうか?それは、人の評価や、この世の価値観から解放されるということです。

8節「神に逆らう者が野の草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても、永遠に滅ぼされてしまいます。」

私たちが生きる社会の中では、目に見えるものや成果が評価されます。だから、良い成績、立派な職業、見た目の美しさ、等、が評価されます。それと比べると、私たちがただ神様の前に安息すること、感謝をささげることというのは、全く逆を行っています。この世の目で見るならば、神様に祈ったり礼拝をしたりするというのは、全く非生産的な行いであるかもしれません。

実際、「神に逆らう者」、神様を信じない人であっても、この世の成功者はたくさんいます。そして、この世では、むしろ「悪を行う者」の方が、「善を行う者」よりも栄えているという現実があります。これは、現代だけでなく、聖書の時代にも遡る、人間社会の現実であるようです。ところが、この箇所で何と言われているかと言うと、彼らは「永遠に滅ぼされてしまいます」。とても厳しい言葉です。しかし神様は、目に見える力や、人間の行いに頼る生き方がいかに儚いものであるかを示しておられます。

そして、9節「主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方」。主である神様こそが、「永遠に高くいます方」であり、このお方は人間の力の及ぶ存在ではありません。主を信じる私たちは、自分の力を捨てて、このお方のもとに憩うことができる存在です。

イエス様は、このことをご自分の生涯を通して示して下さいました。イエス様が働きを始められた時、悪魔がやってきてイエス様を誘惑し、自分が神の子であることを証明しなさい、と言いました。「神の子なら、これらの石をパンに変えてみろ」と言ったわけです。イエス様は神様ですから、そうして見せることもできたはずです。しかし、悪魔の誘惑に従うことはしませんでした。イエス様は、力を見せつけてご自分が神であると証明するのではなく、むしろ、すべてを捨てて十字架で死なれることによって、それを示されました。

悪魔は今も私たちクリスチャンに、「あなたがイエス様を信じて、神の子となったことを証明しろ」と誘惑をしてきます。しかし私たちはその誘惑に乗って、自分の力で、自分がクリスチャンであることを証明する必要はありません。私たちは、イエス様が十字架で命を捨てられたように、むしろ、

自らの力を捨てて、神のもとで安息を得ることができます。そのようにするとき、人がわたしをどう評価しようとも、主にあって、わたしは神の子とされ、神の力を受けているということを信じることができます。そのように、神様のもとに安息を得ることは、私たちを人の評価やこの世の価値観から解放された生き方へと導きます。

 

3.生い茂り、実を結ぶ

しかし神の安息に生きることは、この世の現実から逃避して生きることではありません。むしろ、私たちの生活の中において、神様ご自身の力が現わされ、人の力では決して成すことのできない、豊かな実を結んでいくことを経験します。

13~14節「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります」

ここで、「神に従う人」とは、イエス様を信じ、十字架の贖いによって義とされた私たちのことを指しています。そのような私たちは、自分の力によってではなく、神様の恵みによって、「なつめやしのように茂り」、とあります。なつめやしは、その青々と茂る葉と高い背丈によって、勝利と復活を表す植物として聖書で使われています。イエス様がエルサレムに入城された時、人々はなつめやしの枝を持って迎えに出ました。さらにヨハネの黙示録には、天の御国で、白い衣を着た大群衆が、手になつめやしの枝を持って、神様を賛美している様子が伝えられています。イエス様を信じる全ての人は、イエス様の十字架の死と復活によって、自らの勝利と復活を喜ぶ者となるということです。私たちは、主のもとで安息をいただいて生きる時、この地上において、そして天に召された後の御国においても、なつめやしのように、勝利と復活を表す人生を生きてゆく者となります。

15~16節「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と」

私たちは誰でも老いや死を経験します。それらはこの世的な目で見れば、「弱さ」「終わり」を表すものであると思います。しかし、この箇所が示すように、神と共に歩む人生は、その人が若くても老いていても、健康であっても病んでいても、常に神の安息によって満たされて、豊かな実を結んでゆきます。それは、私たちの力によるのではなく、「わたしの岩と頼む正しい方」、わたしを死から救い出して生かし、神の力で満たして下さる方、主イエス・キリストの力によるものです。私たちはこのような力ある主イエス様にすべてを委ね、安息を得るように招かれています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」。この安息を得るために、私たちに必要な行いは何もありません。ただイエス様のもとに行き、このお方にすべてを委ねる時に、私たちは神様からの真の安息を喜び、楽しむ者とされてゆきます。このような主の恵みに、今日も感謝をささげましょう。