復活を信じる

2021年4月4日 イースター礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書28章1~15節

 イースターおめでとうございます。このイースターの時期は、教会の中だけではなく、多くの人が、新しい出発を覚える時期ではないでしょうか。進学であったり、就職でああったり、多くの人が新しい一歩を踏み出すときです。正にそのようなときに、わたしたちクリスチャンはイースターを迎えています。それは、わたしたちが、イエス様の復活によって、全く新しい命を生かされているということを改めて覚えるときであると思います。

イエス様は、十字架の死をもって、この地上での働きを終えられました。イエス様が息を引き取られたのは、金曜日の午後三時ごろであったと書かれています。そしてその夕方に、イエス様は、墓に葬られました。イスラエルのカレンダーでは、一日というのは、日没から始まります。そして金曜日の日没から土曜日の日没までは、安息日と呼ばれる特別な日です。ユダヤ人は、この安息日に、一切の働きをやめて、休みます。イエス様は正にこの日に、葬られて、地上での働きをすべて終えて、休まれたと捉えることができます。それは、イエス様の生涯は、十字架の死によって終わったのではなく、むしろ、日没と共に、新しい復活の命が始まったということを表しています。そのようにして迎えられた日曜日、週の初めの日は、それまでと同じ日曜日ではありませんでした。イエス様が死に勝利され、復活され、すべてが新しくされた、新しい時が、この時から始まったのです。

そのような新しい始まりとしての復活の出来事を、今日の聖書箇所は伝えています。その出来事は、大きく三つの出来事に分けることができます。

 

1.復活:遺体がなくなった

まず一つ目に、復活とは、イエス様の遺体がなくなったということです。イエス様が金曜日の夕方に葬られたとき、多くの人々がその様子を見ていました。今日の箇所に出て来るマグダラのマリアともう一人のマリアも、イエス様の埋葬の現場を見ていました。彼女たちは、日曜日の明け方、再びお墓に行きました。それは、ユダヤ人の慣習に従って、遺体に香料の含まれた油を塗るためでした。彼女たちはお墓に行けば、当然、そこに遺体があるだろうと思って、出かけてゆきました。しかし、その時突然、大きな地震が起こって、力強い天使が墓石をわきへ転がし、その上に座ってしまいました。天使は婦人たちに次のように言いました。

 

5節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」

 

天使は、イエス様が復活されたことを伝えるために、婦人たちに「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と言いました。埋葬の現場をその目で見た彼女たちにとって、それが、イエス様が復活されたことの何よりの証明であったからです。ヨハネによる福音書を見ると、そこには、イエス様の遺体を包んでいた亜麻布と、顔の覆いだけが残されていたということです。それらのものは、確かに、イエス様の遺体がそこにあったということを示しています。しかしイエス様の遺体だけがなくなっていました。それは、イエス様の遺体が、神様にしかできない方法によって、そこから別の場所へと移されていたということ、つまり、神様のもとへ引き上げられたということの証明でした。

 

このような驚くべき復活の出来事を、私たちは人間の常識では到底理解することができません。当時の人々も、何とかして、イエス様が復活したということを否定しようとしました。今日の箇所の直前の27章62~66節でも、祭司長たちとファリサイ派の人々、つまりユダヤ人のリーダーたちが、イエス様の遺体が盗まれることがないようにと、墓石に封印をし、見張りの番兵を置いています。彼らは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み出し、それによって「イエス様は復活した」と主張するようになることを止めようとしました。しかし、そのような人々の必死な努力は、イエス様の力ある復活の御業の前に、むなしいものとなりました。彼らが置いた大きな石も、見張りの番兵も、イエス様の復活を押しとどめることはできず、取りのけられた墓石の間から見ると、墓はすでに空っぽになっていたのです。

イエス様の遺体がなくなっていたという驚くべき出来事は、イエス様がこの世を支配する死の力に勝利されたということを示しています。イエス様が十字架で死なれたのは、敗北ではなく、罪と死に対する勝利であった、このことを、私たちはイエス様が復活されたことを通して確認することができるのです。そして私たちもまた、イエス様の復活によって、罪と死の力に対する勝利を与えられています。

 

2.復活:体をもって復活された

二つ目に、イエス様の復活は、体の復活をともなうものでした。イエス様は、実際に、目に見える体をもって復活されました。

 

9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」

 

婦人たちがイエス様の復活を伝えるために弟子たちのもとに走ってゆくと、その行く手にイエス様が立っておられました。そしてイエス様は「おはよう」と言われた、とあります。原文では、時間帯と関係なく通常使われる挨拶の言葉が使われています。そのようなイエス様に、婦人たちは近づき、その足を抱いたと書かれています。つまり復活されたイエス様は、亡霊でも幽霊でもなく、普通に会話を交わすことができ、触れることのできる、目に見える存在であったということです。しかし、その復活の体は、現在の私たちの体と同じものではありません。復活の体は、年を取ることもなければ、病気になることもありません。また、時間と空間を超えて移動することができます。そのような奇跡的な復活の体について、人間の言葉や知識ですべてを表現することは難しいでしょう。しかし確かなことは、イエス様の復活は、心の中だけで起こったことではないということです。それは、目に見える現実として起こったことであり、婦人たちはその証人となりました。

そしてそれは、イエス様を信じる私たちも、この地上の生涯を終えた後、イエス様と同じように、復活の体が与えられるということを示しています。イエス様を信じて、天に召されてゆくならば、私たちのこの体は朽ち果てていっても、将来、イエス様が再び戻って来られる時に、全く新しい、復活の体が与えられ、永遠に生きる者となります。イエス様の復活は、そのような将来の希望を私たちにもたらしてくださいました。

 

3.復活:私たちと出会ってくださる

そして三つ目に、イエス様の復活とは、復活されたイエス様が、私たちと出会ってくださるということを示しています。

イエス様は、復活された後、40日の間、人々のもとに現れてくださいました。なぜ、復活後すぐに、天に行かれなかったのでしょうか。それは、復活されたイエス様は、私たち一人一人と出会うことを望んでおられるからです。婦人たちに姿を見せた後、イエス様が向かわれた場所は、「ガリラヤ」であったと書かれています。このガリラヤとは、イエス様が、弟子たちと一緒に、多くの働きをされた場所でした。イエス様は、ガリラヤのナザレで育ち、そして、多くの人々を弟子にし、一緒に食事をし、数々の奇跡を行い、人々を癒しました。それは、イエス様にとっても、弟子たちにとっても、最も馴染み深い場所であったと言えます。そのようにイエス様は、私たちにとって馴染み深い場所で、私たちの生活の只中で、出会って下さいます。そして、私たちの一人一人が、復活の命を、「今」、生きるようにと、招いていて下さいます。

 

イエス様の復活の出来事は、今から約2千年前に、イエス様がすべての人の罪のために死なれたということ、そして罪と死を滅ぼして復活されたという、過去の出来事を伝えています。そして、その復活によって、イエス様を信じるすべての人が、イエス様の再び来られる時に復活の体をいただいて永遠に生きる者となるという、将来の希望を伝えています。しかしそれだけでなく、私たちが生きる「今」という時に、復活されたイエス様が共にいて下さり、私たちに復活の力を注いて下さるという恵みを伝えています。

使徒パウロは、この復活の力について、次のように証しています。

 

「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました(エフェソの信徒への手紙1:19-21)」

 

イエス様を死者の中から復活させた神の力は、イエス様の復活を信じる私たちの間で、今も絶大な働きをなしています。人生の中で、私たちは様々な困難や戦い、そして最後には死を経験します。しかし、その中にあって、復活されたイエス様の力が常に私たちと共にあり、死から命へと既に移されているということ、このことを信じて、どのような時も歩んでゆきましょう。