恐れずに福音を語る

2021年2月7日 礼拝メッセージ全文

恐れずに福音を語る マタイによる福音書10章26~31節

 

先週の箇所は、イエス様が弟子たちを、また私たちを、救いの収穫のために遣わしてくださったという箇所でした。それに続く今週の箇所も、そのようにイエス様から遣わされた存在である私たちに向けられたメッセージを伝えています。そのメッセージとは、26節にあるように「恐れてはならない」というものです。

聖書は、「恐れるな」というメッセージを多くの箇所で伝えています。それは、私たちが恐れてしまう存在であるということの裏返しであると言えます。私たちは、病気や様々な問題、そして死を、恐れてしまうものです。それだけでなく、周りの人々との関係や、人からどう思われるだろうかという恐れは、私たちの心を強い力で支配しています。

今日の箇所でも、イエス様は「人々を恐れてはならない」と言われています。実は、この26節の原文には、「だから」という接続詞が文の初めにあります。つまり、「恐れてはならない」と言われていることの理由が、その前に書かれているということです。

25節「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」

この箇所で、イエス様を信じ従う者の姿が、師に教えを乞う弟子、主人に仕える僕として描かれています。私たちも、イエス様を自分の師として、主人として、仕えています。しかし、その師であり主人であるイエス様は、「ベルゼブル」と呼ばれたということです。この「ベルゼブル」というのは、別の箇所では「悪霊の頭ベルゼブル」と言われています(マタイ12:24)。悪霊の頭、つまりサタンに、このような名前がついていると信じられていたということです。イエス様は、神の子として、人々を救うためにこの世に来られましたが、人々はそのようなイエス様に対して、このようなひどい中傷をしていたということです。そしてこの箇所は、イエス様を主人とする私たちも、それと同じか、もっとひどい中傷を受けるようになるだろうということを伝えています。イエス様は、たとえ私たちがそのような中傷を受けるとしても、それは自然なことであるから、恐れてはならないと、言われているのです。

その前の10章16節~23節は、このような弟子たちの受けるべき迫害について、より具体的に予告しています。22節には、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」とまで書かれています。イエス様を信じることは、神様の愛を伝えることなのに、なぜ人々に憎まれなければならないのか、と私たちは思います。しかし、イエス様を信じ、神様に従うことは、世の価値観を信じ、世の中の流れに従う生き方とは真逆の生き方です。私たちが、唯一の真理であるイエス様を信じ、万物の造り主であり支配者である神様に従うとき、必然的に、この世に従って生きる人々との間に摩擦が生まれてきます。それは私たちが人々を批判したり、反発したりすることによって起こるのではありません。私たちがこの世ではなく、神様に属しているために、この世を支配しているサタンの力との衝突を経験するためです。イエス様は、私たちがそのような衝突を受けることがあっても、「恐れてはならない」と言われています。

なぜならそれは、私たちの自分の力による働きではなく、神様ご自身がなさる御業だからです。それは具体的には、以下の箇所が示していることです。

26節後半「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」

ここで言われている「覆われているもの」を現すこと、そして「隠されているもの」を知らせること、これは、私たちの行うことではなく、神様がなさることです。

この「覆われているもの」「隠されているもの」とは、二つのことを指し示しています。それは一つには、覆われた私たち人間の罪であり、隠されている人間の罪です。

ルカ12:1-3「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」

この箇所で、「覆われているもの」「隠されているもの」とは、人間の偽善であると言われています。偽善とは、外見的には正しいが、中身は嘘偽りであるということです。ファリサイ派の人々は、律法をすべて守って、自分の力で正しい者となろうとした人々のことです。しかし、自分の力で正しくなれるという人は存在しません。どんなにすばらしい人でも、陰では、不平不満を言ったりするものです。私たちが一人でいるときに暗がりで言ったこと、自分の部屋でつぶやいたことのすべてを公表して、私には何のとがめられる点もない、と言える人がいるでしょうか。そのような人はいないでしょう。すべての人が、目に見える罪、目に見えない罪を犯して生きています。人の目には見えなくても、また自分の目にすら見えなくても、神様はその覆われた罪、隠された罪を明らかにされます。

しかし、ここで言われている「覆われているもの」「隠されているもの」は、同時に、もう一つのことを指し示しています。

ルカ8:16-17「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」

先ほどの箇所では、「覆われているもの」「隠されているもの」は、暗闇に隠れた人間の罪のことでした。しかしこの箇所では、「覆われているもの」「隠されているもの」は、ともし火のような光であると言われています。聖書は、旧約聖書の初めから、神様は光であると語っています。そして、罪を犯して暗闇に入ってしまった人間を救う光として、救い主が来られるということを証しています。しかし、それがいったい誰であるのか、そしてどのように来るのか、ということは、明らかにされていませんでした。使徒パウロはこのことを、エフェソやコロサイの信徒への手紙の中で、「秘められた計画」と呼んでいます。しかし、イエス様が来られたことによって、すべてが明らかにされました。

罪人である人間を救うために、神様が人となってこの世に来られました。この方が、イエス・キリストです。そしてイエス様は、すべての人間の罪を背負って、十字架で死なれました。それによってイエス様を信じるすべての人が罪から解放され、闇から光へと移された者になりました。このように、神様は、それまで覆われて、隠されていた神様の救いの計画を、イエス様にあって、明らかにしてくださいました。

私たちはこのようなイエス様による救いの出来事、すなわち福音を信じています。福音とは、「良い知らせ」と言う意味です。神様は、覆われ、隠されていた人間の罪を明らかにされます。もしそれだけなら、「悪い知らせ」であったかもしれません。しかし神様は、その人間の罪を贖うイエス様を私たちに遣わして下さいました。このことによって、神様は、「良い知らせ」である福音を、今も私たちに語り続けて下さいます。神様は、この福音のゆえに、あらゆる問題や、戦いの中にあっても、「恐れてはならない」と伝え続けておられます。

私たちはこのようなイエス様の福音を聞いて、信じて、救いにあずかる者となりました。神様はその福音を通して、私たちの心の中にある暗闇を照らし続けて下さいます。しかし神様は、その光をただ私たちの心の中にしまっておくのではなく、人々の前に輝かせなさいと言われました。

 

27~28節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」

 

この箇所を読むと、当時の弟子たちにとって、福音を語るということは、命がけのことであったということが分かります。実際、使徒たちの多くは、後に殉教の死を遂げてゆきました。現在の日本では、福音を語ることによって、命の危険を感じるという程のことは中々ないかもしれません。しかしそれでも、私たちがイエス様を信じようとするときに、信じさせまいとする力、福音を語ろうとするときに語らせまいとするサタンの力は、現実に働いています。私たちが御言葉を信じ、その御言葉を伝えようとするとき、この世を支配する暗闇の力との戦いが生じます。それは、神様の助け無くしては勝利し得ないサタンとの霊的な戦いです。

しかし神様は、そのような戦いの中で、私たちの一人一人を必ず守ってくださり、決して見捨てることをなさいません。

 

29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」

 

雀とは、私たちの目からすると、小さく、弱い動物です。しかしその一羽すら、神様と無関係に滅びることはない、と言われています。これは私たちの姿を指し示しています。私たちもそれぞれ、小さく、弱い存在です。この世の人々の目からすれば、神様を信じることなど、何の力にもならない、と思われるかもしれません。しかし神様は、ご自分にすがる者を守って下さり、豊かに祝福して下さいます。

 

31節「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」

 

一羽の雀さえも神様は守り、祝福していて下さいます。だから、私たちに及ぶ神様の守りと祝福はそれにはるかに勝るものです。私たちは様々な苦難を経験してゆきます。イエス様を信じ、またそれを語ることで、この世の中にあっては、常に戦いの中を生きてゆきます。しかし、「恐れるな」と神様は語っておられます。十字架で罪の力に勝利され、復活し死の力に勝利されたイエス様が、私たちと共にいて下さいます。私たちは、このイエス様によって強められ、あらゆる恐れの中にあっても、福音を信じ、そして語り続けてゆきましょう。