悪魔に対する勝利

2021年1月10日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書4章1~11節

 

イエス様がこの地上での働きを始められる際、最初にされたことは、先週見たようにバプテスマを受けるということでした。そしてその後に何があったかと言うと、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はいずれも、今日の箇所である、悪魔からの誘惑を受けるという出来事について伝えています。イエス様はなぜ、悪魔からの誘惑を受けられたのでしょうか?そしてそれは、私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか?

 

1.悪魔の定義

悪魔とはどのような存在でしょうか?悪魔というと、漫画や神話などのイメージが浮かびやすいものですが、聖書は、具体的な人格を持った存在としての悪魔について伝えています。神様が私たちの目には見えないように、悪魔も目に見えない霊的な存在です。この悪魔には、色々な呼び名があります。一つは、日本語で「悪魔」と訳されている言葉で、これは原文のギリシャ語ではディアボロスという言葉です。これは、中傷する者、嘘の訴えをする者という意味です。人間を貶めて、神様の救いから遠ざけようとするのが悪魔の働きであるということです。そして、3節では、悪魔のことが「誘惑する者」と言われています。今日の箇所を通して、悪魔は様々な手段を通して誘惑をする者であることが明らかになっています。そして、10節には悪魔のことがサタンと呼ばれています。これは、旧約聖書のヘブライ語の言葉で、「敵対する者」を表す言葉でした。そのように、悪魔は神様に敵対する者であり、その神様に従う人間に敵対する者でもあります。

このように、悪魔の目的は人々を中傷し、誘惑し、それによって人々を神様と敵対させ、救いから遠ざけることですから、その一番の標的は神様に従う人々です。創世記の3章で、初めて悪魔が蛇の姿をとって人間の前に現れましたが、このとき、世界は完全な平和の中にありました。すべて造られたものは神様の目に良いもので、その中で、最初の人アダムがイブと結ばれるという祝福の出来事が起こりました。しかし悪魔が登場したのは正にその時でした。イブは悪魔の誘惑に屈して、神様から食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べ、それをアダムも一緒に食べました。そのことによって、全人類が罪の下に置かれることになりました。

このような悪魔が、神の子としてこの世に来られたイエス様を放っておく訳はありませんでした。イエス様を誘惑して、アダムとイブのように誘惑に屈すれば、全ての人間は永遠に罪と滅びの中に閉じ込められたままになります。しかしイエス様は、悪魔がご自分のところにやって来る前に、自ら、悪魔の誘惑を受けに行かれました。それは、自らが悪魔の誘惑に打ち勝つ存在であることを示すため、そしてそれによってイエス様を信じるすべての人が同じように悪魔に勝利することのできる道を示すためでした。

 

2.悪魔の誘惑

それでは、悪魔の誘惑とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。今日の箇所はイエス様が受けられた3つの誘惑について語っています。

 

3節「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」

 

この時イエス様は、四十日間の断食を終えたところでした。空腹は絶頂に達していたことと思います。そのような時に、悪魔がやって来て、目の前の石がパンになるように命じたらどうだ、と言いました。イエス様は神様ですから、そのような奇跡を行うこともおできになったと思います。悪魔はそのことを知っていて、イエス様にこのような誘惑を行いました。

パンとは、私たちの生活の糧を表しています。生活の糧を得なければ、私たちは生きてゆくことができません。しかし、生活の糧は、神様から与えられるものであって、私たちが造り出すものではありません。悪魔は、このところに働いて、私たちが自分の力で生活の糧を得ようとし、神様から遠ざかるように誘惑をします。例えば、祈ることや、聖書を読むことは、この世的に考えたら、何の生産性もないことかもしれません。その時間を働いたり、勉強をしたりする方が、効率的であると思われるかもしれません。しかし、このような思考の内にも、悪魔の誘惑が働いています。この移り変わる世の中で、目に見えない神様を信じ続けるとき、私たちは、目に見えるものに目を向けさせる悪魔との戦いを常に経験しています。

このような悪魔の誘惑をイエス様も受けられました。そしてそれに対して、イエス様はどのように対処されたでしょうか。

 

4節「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」

 

これは旧約聖書、申命記8章3節からの引用です。この言葉は元々、荒れ野で40年の時を過ごしたイスラエルの民に向けて語られた言葉でした。どんなに厳しい環境の中でも、試練の中でも、イスラエルの神である主は、決して見捨てられない方であるということを神様はかつて語られました。そして、この御言葉を神様はイエス様を通して、再び私たちに語っておられます。正にここで言われているように、私たちは神様の口から出る御言葉によって生かされています。世の人が何と言おうとも、悪魔が何と言おうとも、この事実は変わることがありません。私たちは、イエス様が言われた通り、日ごとにパンを食べるように、神様の御言葉を食べ、それによって力を得ることができます。それこそが、目に見えるものに頼るように誘惑をしてくる悪魔に打ち勝つ力です。

 

次に悪魔は、二つ目の誘惑を与えます。悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、次のように言いました。

6節「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」

 

この箇所は、実際に詩編91編11~12節にある言葉です。このように、悪魔は御言葉を知っています。ちょうど、創世記3章の蛇の誘惑の箇所で、神様が善悪の知識の木から食べてはいけないと人間に言われたのを蛇が知っていたことと同じです。蛇はその言葉を持ち出して、人間に疑いを抱かせました。そのように、悪魔は御言葉を、それを信じて救いに至らせるためではなく、それを疑って滅びに至らせるために悪用します。この箇所でも、悪魔は、引用した詩編の御言葉を利用して、神様を試させようとしています。私たちも、もし御言葉を、信じられないがゆえに自分の都合の良いように解釈したり、用いたりするなら、それは悪魔の誘惑に屈してしまうということになります。

そのような誘惑に対して、イエス様は別の聖書箇所を引用して答えられました。

 

7節「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた」

 

この箇所は、申命記6章16節からの引用です。「試す」というのは、「本当かどうか分からないので、テストする」ということです。どんなに知識として御言葉を知っていても、信じていなければそこに力はありません。悪魔は、人間が聞いた御言葉を疑うように誘惑します。その御言葉を信じることのできる根拠を示してみなさい、と問うてくるのです。その御言葉は本当に正しいのか、試してみなさい、と言うのです。悪魔がイエス様に神殿の屋根から飛び降りろと言ったのは、そのような意味でした。しかし、主を「試す」ことは、律法によって禁じられています。イエス様はその言葉を引用し、御言葉に疑いを与える悪魔の誘惑を退けました。主の御言葉は、試したり、証明したりするためのものではなく、私たちが信じるためのものです。私たちは、主から与えられた御言葉を子どものように素直な心で受け取って信じ、従うことによって、イエス様のように悪魔の誘惑を退ける者となります。

 

そして、最後に、悪魔がイエス様に与えた三つ目の誘惑は、権力と富による誘惑でした。

 

8~9節「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」

 

この箇所が示しているように、「世のすべての国々とその繁栄ぶり」、つまりこの世の権力と富とは、悪魔が支配しています。それらを造られたのは神様ですが、悪魔はこれらを欲する人間の欲望を通して人を支配し、この世で力をふるっています。権力や富を欲する人間の欲望とは、本当に強いものです。その欲望に働く誘惑は、悪魔の誘惑の中でも特に強い力をもって人間に迫ってくるものです。そのような誘惑にイエス様はどのように立ち向かわれたでしょうか。

 

10節「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』」

 

イエス様は、「退け、サタン」という、神ご自身の権威をもって、悪魔に命じました。神様の権威は、この世のどのような権力や勢力よりも強力な力を持っています。イエス様がその権威をもって御言葉を宣言されたとき、悪魔は離れ去っていきました。私たちもまた、イエス様を信じるとき、イエス様の御名によって、この神様の権威が与えられています。主の御名の権威をもって、御言葉を宣言するとき、悪魔は逃げ去っていきます。それは、私たちの力によることではなく、主の御言葉に力があるからです。

 

3.私たちに勝利を与えて下さるイエス様

今日の箇所を通して、イエス様は、最初から最後まで、ご自分の力によるのではなく、御言葉を通して悪魔に勝利されたということが分かります。その事実が示すように、御言葉にこそすべての力があり、悪魔に対して勝利するための鍵があります。私たちは、日々パンを得るように御言葉を心に蓄えるなら、また、子どものように素直な心で御言葉を信じてそれに従い続けるなら、そして、主の御名の権威によって御言葉を宣言するなら、悪魔に対して常に勝利して歩むことができます。しかし、御言葉によって歩むということ自体、私たちが自分の力でできることではありません。御言葉を読むことも、それを信じることも、そしてそれを宣言することも、聖霊の助けなくしてはできないものです。日々聖霊の助けを祈り、御言葉を慕い求める心が与えられるように祈ってゆきましょう。私たちの生活が御言葉によって導かれる時、私たちは悪魔に対して勝利し、神様と共に歩む者となっています。