愛による労苦

2020年10月18日 礼拝メッセージ全文

コヘレトの言葉4章1~12節

 

今日の箇所は、コヘレトの言葉4章からです。これまで読んできたコヘレトの言葉ですが、その全体のテーマは、「空しさ」ということでした。地上で起こるあらゆる出来事は空しい、とコヘレトは語ります。しかし、今日の箇所は、その空しい人生の中にも、具体的な希望があるということを伝えています。それは、特に9節の御言葉です。

「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い(9節)」

 

コヘレトの言葉の全体を見ると、「労苦」という言葉が29箇所も使われています。人間が苦労して何かを産み出そうとしたり、作り上げようとしたりすることは、空しい、とコヘレトは繰り返し語っています。しかし、そのような労苦であっても、ふたりが共にする労苦には価値がある、ということをこの箇所は伝えています。

二人の別の人間が、共に力を合わせて労苦する、そのこと自体に、神様のご計画があり、人間が造られた目的があるということです。このことは、聖書の一番初めの創世記からも、知ることができます。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう(創世記2章18節)」

 

神様が人間を造られた最初の時点から、人間は一人で生きる存在ではなく、互いに助け合う存在であったということです。それは、人間が互いに愛し合う存在として造られたということです。

 

1.罪に由来する世の中の苦しみ

しかし、この世の中の状況はどうでしょうか?むしろ、そのような神様の愛によって助け合うのとはかけ離れた状況がそこにはあります。それは、初めの人間であるアダムとエバが神様に背く罪を犯して以来、ずっと続いてきたことでありました。今日の箇所の前半部分は、そのような世の中の有様を具体的に示しています。

まず、1節にあるように、「虐げ」という現実があります。弱い立場にある人が虐げられる、虐待されるということは、歴史の初めからあったことです。家庭の中でも、社会の中でも、そのような虐げは今でも多く起こっています。それは、人に与えられた「力」を間違って用いることによって起こります。本来は、その力は、人を守ったり、助けたりするために与えられています。しかし、「虐げる者」はその手にある力を弱い人を攻撃するために使ってしまいます。それによって、虐待という悲惨な出来事が起こってしまいます。しかも、虐待をする人というのは、自分自身も過去に虐待を受けたことのある人が多いものです。それによって、虐待が世代を超えて引き継がれていくということが起こります。そのような虐げの繰り返される状況を見て、コヘレトは、生きているよりも死んでいる方が幸いだ、とまで言っています。

そして4節には、「競争心」、又は「妬み」のことが書かれています。愛し合い、助け合うべき存在である人間は、むしろ互いに妬み合い、争い合ってしまうということです。人にはそれぞれ異なった能力や賜物が与えられているので、神様はその人がそれらを用いて、お互いを補い合うことを求めておられます。しかし実際には、人は、自分に与えられた能力や賜物を喜ぶのではなく、異なる人と自分を較べて、劣等感を感じたり、妬んだりしてしまいます。お互いに助け合っているようでも、何とか相手を打ち負かしてやろうという競争心がその背後にあることもあります。そのような妬みや競争心に支配された人生は空しく、風を追うようなものだ、とコヘレトは語っています。

そして、7~8節を読むと、今度は逆に、人との関わりから離れ、完全に自分のためだけに生きている人の自己中心的な姿があります。彼は友も息子も兄弟もなく、ただひたすら、お金のために働き続ける者です。お金とは本来、自分を養い、また人を養うために用いるものです。しかし、そのお金を得ること自体が人生の目的になると、もはや何のために生きているのか分からないような状態になってしまいます。それもまた、空しい人生である、とコヘレトは語っています。このように、世の中の状況とは、虐げや妬み、そして自己中心性であふれたものであることが伝えられています。

 

2.ふたりが共にする労苦

神様は、そのような苦しみと空しさのあふれる世の中にあっても、あくまでも人間が神様のはじめの愛、共に愛し助け合うはじめの愛に立ち帰るように、招いておられます。

それは、9~12節に書かれているように、ふたりが共に労苦する、という関係の中においてです。どんなに労苦が苦しみを生み、それに空しさを覚えても、その労苦を二人で共にするなら、良い報いがあると言われています。

「共に労苦する」とは、どういう意味でしょうか?それはただ、二人が同じ作業をするということではありません。その具体的な姿は、次の節以降に表現されています。

 

「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす(10節)」

倒れた人を起き上がらせるには、かなりの力が要ります。しかしそれでも助け起こして、共に歩き続けるということ。「共に労苦する」とは、そのような犠牲を伴う行為のことを指しています。それは、共に労苦する相手が「友」であるからです。ここで「友」と訳されている原語は、「結束する」「つなぎ合わせる」という言葉からできた言葉です。共に労苦する二人は、もはや別々の存在ではなく、ひとつとなっているということです。このことからまず思い浮かぶのは、夫婦の関係です。しかし、それだけではありません。与えられた関係性の中で、「友」とひとつとなって労苦するということを神様は願っておられます。

 

「更に、ふたりで寝れば暖かい(11節)」

寒い中、ふたりが身を寄せ合うだけで、暖かさが生まれます。それは、互いの体の熱を分け合っているからです。これは、物理的な意味だけではありません。精神的な意味でも、ふたりが一緒にいることで、励まし合うことができます。「共に労苦する」とは、目に見えるものだけでなく、喜びや悲しみなどの気持ちを含め、あらゆる経験を共に分かち合ってゆくということです。

 

「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する(12節)」

そして最後に、ふたりで敵に立ち向かう様子が描かれています。これは、共にリスクを背負う関係であるということを表しています。敵と戦って、必ず勝つという保証はありません。勝ったとしても、損害を受けるかもしれません。しかしそれでも、共に労苦する「友」のために、立ち上がって共に戦うということ。「共に労苦する」とは、そのようなリスクを恐れず、受け入れて共に戦うということです。

 

ふたりが労苦を共にするとは、そのように、ふたりがひとつになり、共に犠牲を払い、すべてを分かち合い、リスクを背負い合ってゆくという愛の関係を指し示しています。どんなに世の中に苦しみや空しさがあっても、この愛というものは、生きてゆくことに意味と希望を与えます。それは人間が元々、そのように愛する存在として神様に造られたからです。しかし実際には、私たちの家庭や、職場や、学校での人間関係はどうでしょうか?そこには、愛よりもむしろ、今日の箇所の前半にあったように、虐げや、妬みや、自己中心性が強く根付いているのではないでしょうか?私たちは誰も、自分の力で、神様の望まれるように互いに愛し合い、助け合うことはできません。

 

3.イエス様の労苦と愛

そのような私たちすべての罪を贖うために、誰よりも大きな労苦をした人がいます。それは、神様の独り子である、イエス・キリストというお方です。このお方は、神様でありながら、十字架で自らの命を捨てて、私たち人間の一人一人の罪をすべて背負って下さいました。

 

「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマの信徒への手紙5章7~8節)。」

 

「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」とあります。私たちも、自分の大切な存在のためなら死んでもいい、と思える時があるかもしれません。そのために、一生懸命に働いたり努力したりすることもあるかもしれません。しかし、私たちの愛には限界があります。どんなに労苦しても、私たちの力にも限界があります。しかし、イエス様の愛と労苦は、そのような人間の限界をはるかに超えるものです。さらに、イエス様は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」、十字架で私たちのために死んで下さり、愛を示して下さいました。それは、自分を愛する者だけでなくむしろ、自分を迫害する者、自分を信じない者達のために、イエス様が十字架にかかって下さったということです。この愛に勝る愛は、この地上にはありません。私たちはそのような大きなイエス様の愛によって生かされ、赦され、支えられています。そのことを、今日の箇所の最後の部分から、確認することができます。

「三つよりの糸は切れにくい(12節)」

 

イエス様が共にいて下さる私たちは、もはやひとりではありません。どのような状況の中にあっても、イエス様が共にいて下さり、そして共に労苦して下さるのです。ですから私たちのあらゆる労苦は、イエス様と共にする労苦となります。神様は、人間が最初に造られたデザインの通り、私たちが互いに助け合い、愛し合う存在となるように願っておられます。その愛を実践し、与えられた関係性の中で、ふたりが共に労苦する時、それはイエス様の愛によって満たされた三つよりの糸になります。この糸は切れにくい、と今日、神様は言われています。すべてを忍び、すべてに耐えるイエス様の愛によって強められて、私たちは愛によって共に労苦する者となってゆきます。私たちも日々、この愛に感謝して、共に生きてゆきましょう。