慌てふためかないで

2020年7月19日 礼拝メッセージ全文

テサロニケ信徒への手紙二 2章1~17節

 

私たちは、日々、色々な情報に接して生きています。特に、現在のようなコロナウイルスの流行の最中にあって、新聞やテレビなどの情報が私たちに与える影響は大きいと思います。そのような情報に触れると、自分はどうしたら良いのだろうか、と不安に感じることがあります。将来のことを思い煩い、慌てふためいてしまうことがあります。しかし、そのような私たちに、今日の御言葉は、「慌てふためかないでほしい」と伝えています。この手紙の宛先のテサロニケの教会の人々も、色々な情報に接する中で、不安や動揺を感じて生きていました。特に、イエス様はいつ再び来られるのか、ということに関して、教会の内外に色々な意見がありました。それに対してパウロは、この手紙を送り、慌てふためかず、聖書の約束に信頼するように励ましています。私たちは、日常の色々な事についても不安に感じ、慌ててしまうものですが、聖書が伝える終末の約束について知り、落ち着いて日々を過ごしてゆきたいと思います。

 

1.主の日はまだ来ていない

今日の箇所でパウロが最初に伝えるのは、主の日はまだ来ていない、ということです。
2節「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」

テサロニケの人々は、激しい迫害の中を生きていました。そのような状況の中で、これはもう世の終わりで、主の日は既に来てしまったのだ、と主張する人々がいました。彼らは、直接テサロニケの人々に話したり、パウロからの手紙であると偽ったりして、そのようなことを主張していたようです。当時は、電話もラインもありませんでしたから、コミュニケーションの手段は、直接会って話すか、手紙を書くしかありませんでした。しかしそれでも、そのような嘘のうわさが広がっていたということは、不安や恐れというものが人間に与える影響力の強さを示していると思います。これは、コミュニケーションの手段が発達した現代においては、なおさらのことです。例えば最近では、トイレットペーパーが足りなくなるということをネット上でつぶやいた人がいた結果、その情報が瞬く間に広がり、日本中からトイレットペーパーが足りなくなるということが起こりました。このような日常生活のことでもそうなのですから、まして、世の終わりが来るという、この上なくショッキングなニュースは、どれだけ早く拡散し、どれだけ大きな混乱をもたらすことでしょうか。
しかしパウロは、たとえ「主は既に来てしまった」と言う人々がいても、動揺したり、慌てふためいたりしないように伝えました。まず落ち着いて、聖書がどう言っているのかを知るべきであると教えています。イエス様は、世の終わりがどのように来るかということについて、マルコによる福音書13章5~8節で、次のように教えられました。
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」

イエス様も「慌ててはいけない」と言われました。たとえ戦争や、地震や、飢饉のような出来事があっても、それだけでは、まだ世の終わりではないと言われました。世が終わり、主が来られる前には、定められたしるしが現われなければならないからです。だから、私たちの気付かない内に、いつの間にか世の終わりが来ていた、ということや、盗人が家を襲うように、突然不意打ちのように主の日が来るということはないのです。世には色々な情報が流れていますが、イエス様を知っている私たちは、慌てふためかず、主を信頼して、その日を待つことができます。

 

2.不法の者は滅ぼされる

それでは、主の日が来る前に定められているしるしとは、何でしょうか。それは、今日の箇所の3節に書いてあります。
「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです」

主が再び来られる前に起こることは、「不法の者」または「滅びの子」と呼ばれる存在が現われるということでした。これがどのような存在かということについては、4節に述べられています。
「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」

「不法の者」とは、神を否定し、自分こそが神であると主張する者です。この者は、具体的な人間として現れます。そのような者が現われるということは、聖書の色々な箇所で伝えられており、ダニエル書やヨハネの黙示録は、この存在の現われを具体的に伝えています。それらはいずれも、終わりの日に、神に反逆する者が現われ、それから主の再臨が来るということを告げています。しかし、大切なことは、ここでは「不法の者」と呼ばれている神に反逆する者は、自分勝手にやって来るのではなく、主が定められた時に現れるということです。6節には次のようにあります。
「今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現われるためなのです」

「不法の者」は、今の時点では、抑えられており、神様がお定めになった時にやって来ると言われています。つまり、この者は、神様のコントロールの下にあるということです。神様が定められた時に、この「不法の者」は現われて、人々を欺くようになりますが、最終的には、イエス様がこの者を滅ぼして下さるということが約束されています。

7節では「不法の秘密の力は既に働いています」と言われています。現在はまだ、不法の者が誰であるのか秘められていますが、彼を通して働くサタンの力は今既に働いているということです。それは、「不法の者」と同じく、自分こそが神であると主張し、自ら神になろうとする力です。今でも、自分こそが神であると主張するような人々はいます。また、自ら神になろうとする思いは、神様を知らない人々ばかりでなく、クリスチャンとなった私たちの内にも、根強く残っているものです。これは、アダムとイブが、「これを食べると神のようになれる」と誘惑されて、善悪の知識の木の実を口にして以来、今日まで続いてきたことです。しかし、イエス様は、不法の力を打ち破るためにおいでになり、十字架でそれを成し遂げて下さいました。イエス様を信じることにより、私たちはあらゆる不法の力、滅びの力から解放され、自分を神とするのではなく、真の神様を礼拝する者に変えられます。そして今ある不法の力との戦いは、イエス様が終わりの日にこの不法の者を直接滅ぼして下さることを通して、終わりを迎えます。だから、私たちは現在この世を支配していると見える不法の力や、終わりの日に現れる不法の者をいたずらに恐れることなく、安心して今を生きることができます。

 

3.初穂として選ばれている

最後に、パウロは、今日の箇所の13節以降で、不法の力の只中から救い出されたテサロニケの人々が受けている救いの恵みを感謝し、彼らに励ましを与えています。
13節「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」

パウロは、テサロニケの人々は救いのために選ばれ、さらに初穂であると伝えました。初穂とは、初めの収穫物のことを指し、神様に献げられたものという意味です。旧約聖書の中では、献げものをする際に、収穫の初穂をささげるように定められていました。日本でも、「初穂」という言葉が示す通り、その年に収穫された初めの稲穂を納める習慣がありました。しかしそれは、真の神様に対してではなく、偶像に献げるためのものでした。惑わす力は、このようなところにも働いています。それは、神様から遠ざけて、神でないものを拝ませようとする力です。私たちはこのように不法の力が強く働く日本社会の只中から、イエス様による救いへと導かれました。テサロニケの人々も、偶像の支配する社会の中で、多くの迫害を受けながらも、イエス様を信じ、救いへと導かれました。それはまさに初穂のように、収穫の大きな喜びを神様の目にもたらすものでした。
初穂をささげるのは、収穫に感謝し、より多くの収穫を願ってのことです。そのように、神様は、初穂としてささげられた私たちを通して、より多くの魂の収穫を得ることを願っておられます。テサロニケの人々も、迫害の中で信仰を守り通した証を通して、多くの収穫をもたらす初穂として用いられました。私たちもまた、初穂として救いのために選ばれています。イエス様を知らない多くの人々が、滅びから救い出されるように、イエス様を伝えることが、初穂として選ばれた私たちの生きる目的です。
マルコによる福音書13章10節には「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」とあります。世の終わりが来る前に、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならないのです。そして、福音が全ての民に宣べ伝えられた時、「不法の者」が現われ、世の終わりが来ます。その時まで、初穂として選ばれた私たちは、更なる収穫のために福音を宣べ伝えてゆきます。世の中には様々な情報がありますが、私たちは終わりの日について定められたこの神様のご計画を知り、慌てふためかず、むしろ期待をもって、主の日を待ち望んでいます。