暗闇を照らすイエス・キリストの光

2020年12月24日 クリスマス・イブ礼拝メッセージ全文

ルカによる福音書 2章8~20節

 

今、ご一緒に歌ったこの「荒野のはてに」という讃美歌は、クリスマスの讃美歌として、最も有名なものの一つであると思います。教会だけでなく、街中や、お店の中でも、この曲が流れているのを耳にしたことのある方もおられるのではないでしょうか。さてこの中にある「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」という歌詞ですが、これは、先ほど読まれた聖書の中の1節から来ています。ルカによる福音書2章14節で、天使が神を賛美した時の言葉です。「いと高きところには栄光、神にあれ」。これを伝統的な教会の言葉であったラテン語で歌ったのが先ほどの「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」です。

この言葉が示しているように、クリスマスの出来事とは、神様の栄光を現わすものです。この「栄光」という言葉は、分かり易い言葉で言うと「輝かしい光」であると言えると思います。それも、この世のものとは思われないほどの輝かしい光、神様の存在を指し示す光として、「栄光」という言葉は聖書の中で使われています。

クリスマスとは、そのような輝かしい光として、イエス・キリストという方がお生まれになった、ということを意味します。しかし、それは、今を生きる私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。私たちは今、この時の羊飼いたちのように、神の栄光を直接見ている訳ではありません。しかし、イエス・キリストが光であるという事実は変わることがありません。それは、どのような意味においてでしょうか。今日はそのことについて、3つのことをお話ししたいと思います。

 

1.すべての人を照らす光

まず一つ目に、イエス様の光は、すべての人を照らす光であるということです。

この夜、最初にイエス様誕生の知らせを聞いたのは、羊飼いたちであったと書かれています。羊飼いとは、本当に過酷な職業です。羊が逃げて行ったり、外敵に襲われたりすることがないように、夜でも群れの番をしなければなりません。当時は、街灯も、懐中電灯もなければ、ストーブもダウンジャケットもありません。どれだけ暗く、寒い夜だったでしょうか。しかしイエス様の光は、そのような人々の上に、初めに照らされました。それは、イエス様の誕生を通して放たれる光は、最も暗いところにいる人々、最も見捨てられたようなところにいる人々に、届く光であるということです。

イエス様誕生の知らせを次に受け取った人は、占星術の学者たちでした。この人たちは、ユダヤよりも東の遠い国に住んでいた人たちでした。彼らが星を見ていると、突然、見たことのない輝きを放つ星が昇ってくるのが見えました。彼らにはそれが、ユダヤ人の王が生まれたことを意味する星であると分かりました。それで彼らは、この新しいユダヤ人の王を礼拝しようと、はるばるエルサレムまで旅立ってゆきました。この出来事は、イエス様誕生を知らせる光は、国や文化を越えて、遥かかなたまで届いていったということを意味しています。学者たちが見た星と、羊飼いたちの見た光が同じものではないかもしれません。しかし、イエス様の輝きを伝える光として、この星が学者たちのもとに現れたことは事実です。そのように、イエス様の光は、国や文化や、宗教の隔たりを越えて、届いてゆきました。

天使は羊飼いたちに言いました。

 

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである(ルカ2:10-11)」

 

私たちも今日、この言葉を聞いています。私たち全てのために、救い主がお生まれになりました。その救いの光は、人間の考えでは届かないであろうと思われるところにまで届きます。今年私たちは、新型コロナウイルスの流行という、これまで誰も経験したことのない災害を経験しました。その中で、教会に皆が集まることのできないという状況が続いています。そして、感染者は日々拡大し、医療の現場では過酷な状況が続いています。しかし、どのような状況の中にあっても、イエス様の救いの光は、わたしたち一人一人のもとに届いています。このイエス様の光について、ヨハネによる福音書の中に、こう書かれています。

 

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネ1:9)」

 

イエス様はすべての人をご自分の光で照らすために、この世に来られました。クリスマスの出来事は、そのような方として、イエス様がお生まれになったということを伝えています。

2.心の暗闇を照らす光

そして二つ目に、イエス様が光であるということは、私たちの心の暗闇を照らす光であるということです。

このクリスマスのシーズンは、多くの場所で、綺麗なイルミネーションを見ることができます。水戸教会でも、今年は昨年よりもイルミネーションを増やして飾っています。クリスマスが終わってもしばらくの間はつけている予定なので、まだの方は是非見にいらしてください。さて、そのようにイルミネーションは綺麗なものですが、結局は人間が作り出したものです。この時期、そのように華やいだ景色を見ると、余計に空しさを感じるという経験をされた方もおられるのではないでしょうか。それは、目に映る光が眩しければ眩しいほど、自分の心の中にある空しさや暗闇が目立って見えるからであると思います。イエス様の光は、この世の光とは比べ物にならない程の明るさを持った光です。しかし、その光を見る時に、私たちの心の暗闇がより一層際立って見えるようになります。

それは、つまり、私たち人間の持つ罪というものが見えてくるということです。聖書は、「すべての人が罪を犯した」とはっきりと記しています。この罪とは、私たちの目に見える悪い行いのことだけではなく、妬みや憎しみ、自己中心や貪欲など、心の奥にある罪のことも指しています。それらから完全に自由な人はだれもいません。しかし、その罪について、私たちは自分では気づくことができません。私たちは、自分の悪いところについて、既に知っていると思うかもしれません。しかし、罪とは、人から見て悪いと思われることではなく、神様の目から見て、悪とされることです。自分には良いと思われることも、神様から見ると罪であるということがあります。その罪に気付かせるために、神様は、私たちのもとに来てくださいました。

そのことは、イエス様が生まれたことに対する、当時の人々の反応を通して知ることができます。イエス様は、ユダヤ人の家系にお生まれになりましたが、ユダヤ人は、自分達の祖先であるダビデの子孫として、救い主がお生まれになるという約束を信じて待っていました。ところが、当時ユダヤの王であったヘロデをはじめ、人々はイエス様誕生の知らせを聞いた時「不安を抱いた」と書かれています。そして、ヘロデ王は、生まれたばかりのイエス様を殺そうとまでしました。これは、イエス様の誕生によって、人間の罪が明らかにされたということを示しています。そしてそれは、イエス様誕生の時だけにとどまらず、イエス様のこの地上での生涯を通して起こったことでした。ユダヤ人は、神の御子としてお生まれになったイエス様を迫害し、そして最後には、十字架につけてしまいました。これらのことは、決して私たちと無関係なことではなく、むしろ、暗闇の中で、光を受け入れることのできないすべての人間の姿を表しています。

しかしイエス様の光は、私たちの暗闇を浮き上がらせるだけではなく、実際に私たちの暗闇の只中に来て、その闇を照らして下さる光です。これは、イエス様が飼い葉桶の中で生まれた、ということによって表されています。イエス様は、神様であるのに、人間と同じ姿になられて、しかも、家畜小屋の飼い葉桶の中という、最も暗く汚い場所に生まれて下さいました。それは、私たちの心の暗闇、罪の只中に来て下さり、それを背負うためでした。イエス様は、誕生の後、約33年後に、十字架にかかられました。それは、私たちのすべての罪を背負うため、暗闇を担うためでした。クリスマスの夜の光は、そのようにして人間の罪を背負って下さる救い主が生まれた、ということを表しています。

 

3.天の御国の輝きを伝える光

そして最後、三つ目に、イエス様の光は、天の御国の輝きを伝える光です。

神様は、この世界を造られたとき、初めに、光を創造されました。それは、神様ご自身が光であり、神の内には闇が全くないということを示しています。その神様の住まわれる天の御国は、神の栄光によって照らされ続けています。聖書の最後の書物、ヨハネの黙示録の21章には、やがて来る天の御国の様子が描かれています。そこには、天の御国は神の栄光によって輝いて、その輝きは「最高の宝石のよう」であり、「水晶のように輝く命の水の川」が流れている、と記されています。そのように、天の御国とは、神の栄光によって光り輝いているところです。イエス様は、神の御子として、その天の御国の輝きをもって、この地上にお生まれになりました。

それはつまり、イエス様を通して、私たちが栄光に輝く天の御国に入ることのできる希望が与えられたということです。イエス様が来られたのは、すべての人間の罪を赦し、私たちを神の子として、天の御国で神と共に永遠に生きることができるようにするためでした。そのためにイエス様は十字架にかかられ、三日目に復活され、今も天の御国で生きておられます。イエス様はその天の御国の光を、今も私たちの上に注いでくださっています。イエス様を信じる私たちの人生は死で終わりではなく、天の御国にある永遠の命です。

 

 

4.結び

イエス様は言われました。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た(ヨハネ12:46)」

私たちがこの世の暗闇にとどまることのないように、イエス様は、光として来られました。その暗闇とは、愛の失われたこの世界の暗闇、私たちの心の中に広がる根深い暗闇、そして死という暗闇です。イエス様はその暗闇から私たちの一人一人を救い出すために、この地上に生まれ、生きて、十字架で死なれ、そして三日目に復活されました。そのような輝かしい救いをもたらす方として、イエス様がお生まれになりました。その時、旧約聖書の預言であるこのイザヤ書9章1節の言葉が現実のものとなったのです。

 

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」

 

暗闇の中にある私たちを照らすために、イエス様が光としてこられました。この方は今もなお、私たちをその輝きで照らしてくださっています。