清め、建て直す神

2021年9月12日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 36章25~38節

先日、教会員の方の葬儀が教会で行われました。今回、葬儀の司式に携わらせていただいて、次のようなことを感じました。それは、神様は本当に清いお方であるということです。日本では、葬儀や人の死は、不吉なもの、汚れたもののような考え方があると思います。しかし、主にある永遠の命を信じるキリスト教会では、死を不浄なものととらえることをしません。もちろん、別れの悲しみはそこにありますが、私たちは召天者と共におられる主を見上げて、共に賛美し礼拝をささげます。これは、教会以外ではあり得ないことであると思います。同時に、そのような清い神様によって、私自身も清められているのだと改めて覚えました。罪汚れのある私という人間が、死に打ち勝つ神の恵みを取り次ぐ者とされる、そこには、すべての人を清めて下さる神様の力が注がれているのだと知りました。

今日の箇所は、神様が私たちを清めて下さるというメッセージを伝えています。

 

1.清めて下さる神

25節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」

この箇所は、神様による清めがどのようなものかを教えています。それは、神様が私達のすべてを清めて下さるお方なのだということです。言い換えるならば、本当のの神の清さに触れるときに、私達は、一部分ではなくて、完全に清められる者となるということです。これは、私達の自分の力や、人間の行いによって、できることではありません。私達がどれだけ一生懸命に手や体を洗っても、完全に汚れを落とすことはできませんし、できたとしても、時が経てばまた汚れてしまいます。また、私達が自分の心を清めたいと思って、何か良い行いをしたり、良いお話しを聞いたりしたとしても、それは一時的には「清められた」と感じることにはなったとしても、私達の心が完全に清められるということはありません。それに対して、神様が清めて下さるということは、本当に私達のすべてを清めて下さるということです。ここで、「水を振りかける」という動作が記されています。このように、清めのために水を振りかけるという儀式は、旧約聖書の律法の中にも書かれていることでありました。けれども、それは汚れを受ける度に繰り返されなければなりませんでした。しかし、ここでは、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき」と言われています。つまり神様ご自身が、清めて下さるのであって、それを行うのは私達人間ではないということです。しかも、それは水を「振りかける」だけでいいということです。ふつう私達が何かを綺麗にしたいと思ったら、水に浸けこんだり、丁寧に洗ったりしなければならないものですが、神様が私達を清めて下さるとき、水を「振りかける」だけで、その清めの力は、私達の全体に及んでいくということを、この箇所を通して知ることができます。そして、神様のご計画とは、イスラエルの民を、そしてすべての人間を、このような完全な清さにあずかる者にするということでありました。

26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」

ここで、神様が私達を清めて下さるときに、「新しい心」「新しい霊」が与えられると言われています。このことは何を指しているでしょうか。それは、神様が私たちを清めて下さるというのは、私たちの中の既にある心を清めるということではなく、「新しい心」を与えるものであるということです。神様の新しい光によって、私達の古い心が照らされるということです。すると何が見えてくるでしょうか。それは、そこに、「石の心」があるということです。私達の心の中に、石のように固くかたくなで、神様を受け入れない心があるということです。神様によって清められていくというとき、私達はそのような石の心が砕かれていくという経験をしてゆきます。それは、時に痛く、苦しい経験です。

31節「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する」

この箇所で語られているように、私達の心が神様の新しい光で照らされるとき、私達は、「自分の悪い歩み」「善くない行い」、こういったものを思い起こすことになります。これは本当に苦しい経験です。私達は、「清め」というときに、何か自分自身が高められる、より善い人間になる、という風に考えてしまうことがあると思います。私もクリスチャンになったばかりの頃、そのように考えていたなぁと思い出します。自分が聖書をたくさん読めば、自分がいっぱい祈れば、何か自分がより清い人間になれる、という風に思っていました。もちろん、聖書を読むことや祈ることは、信仰生活の中でとても大切なことですが、でもそれによって私達が自分の力でより清い人になるということではありません。この箇所が伝えているように、私達が神様の清めの力をいただいてその新しい心を受けるとき、私達はむしろ、自分自身の内側にある汚れや過ちに気が付かされてゆきます。ですからここで、「罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する」とまで言われています。自分の中にある罪に気が付かされるとき、私達も自分が嫌になるということがあるかもしれません。しかし、今日の箇所は、そのような経験さえも、私達が神様によって清められていくという過程の一部分なのだということを伝えています。

レビ記19章2節「あなたたちは聖なる者になりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」

このレビ記の箇所が伝えているように、神様の願いは、私達の一人一人が、神様が聖なるお方であるように、聖なる者となることです。小さく、弱く、汚れた存在である私達が、自分の力で、神様のように聖なる者になることなど、到底できるはずがありません。しかし今日の箇所は、これらすべてのことは、私たち自身のためではなく、神様ご自身のためであると伝えています。

32節「わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ」

22節「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う」

神様が私たちを清めて下さるのは、私たちのためではなく、神様ご自身の「聖なる名」のためであるということです。私たちがどれだけ汚れていたとしても、神様はそのような私たちを清めるために、御子イエス・キリストを十字架にかけ、血を流して下さいました。それは、そのことを通して、私たちの清さではなく、主の「聖なる名」の清さが伝えられてゆくためでした。クリスチャンの歩みとは、私たちが自分の力によって清くされようとしていくのではなく、神様のご自身の力によって、私たちがイエス様に似た者へと作り変えられてゆくということです。私たちは、自分自身の内にある汚れ、この社会の罪汚れに直面しながらも、そのような主の清めの力に希望を持って生きてゆくことができます。

 

2.建て直して下さる神

今日の箇所の33~38節までは、神様が私たちをそのように清められた者として建て直そうとしておられるということを伝えています。

33節「主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃墟を建て直す」

この当時、イスラエルの民はバビロン捕囚の苦境の中にありました。エルサレムは廃墟のようになっていました。神様は、ご自分の民を清める日に、廃墟を建て直すと約束されました。私たちも、色々な困難の中で、廃墟のような状況に直面することがあるかもしれません。その時、まず私たちの身の回りの問題や、社会の問題を解決しようと考えてしまうことがあるかもしれません。しかしこの箇所が伝えていることは、神様は私たちが自分の力で外側の環境を変えようとする時ではなく、むしろ私たち自身が神様によって清められてゆく時に、あらゆる環境を整えていって下さるということです。私たちの生活の中でも、廃墟のように、建て直しや回復が必要なところがあるかもしれません。それを建て直すのは、私たち自身の力によるのではなく、神様の力、それも私たちのすべてを清めて下さる神様の力なのだということを覚えたいと思います。

38節「祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃墟であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」

今日の箇所の最後では、建て直された廃墟が人々の群れで満たされると伝えています。そこに集められる人々は「聖別された羊」にたとえられます。神殿があったころ、羊や、あらゆる動物はいけにえとされました。それらは、「聖別されたもの」、すなわち、特別に取り分けられたものとして、神に献げられました。そのように「聖別されたもの」として、神に選ばれ、清められた人々が、用いられるようになるということを表しています。このようなご計画の中に、私たちの一人一人が置かれています。そして、「そのとき、彼らはわたしたちが主なる神であることを知るようになる」とあります。私たちが神様のことを信じるのも、またこのお方を他の人々に分かち合ったりするのも、私たち自身の力によるのではありません。神様が私たちを清めて下さるときに、そのことが神様の力によって起こってゆくということです。

 

3.ぶどうの木につながる

ヨハネによる福音書15章1~5節は、イエス様につながる人の結ぶ実について教えています。特に2節では、父なる神が、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と言われています。これは、豊かな実を結ぶために、神様によって清められていくことが大切であるということを示しています。さらに3節でイエス様は、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われました。イエス様の御言葉、そしてイエス様の十字架の血潮には、私たちの一人一人を清める力があります。その力を受ける時に、私たちは、あらゆる罪汚れから、既に清められています。そのようなぶどうの木につながり続けること、これこそが豊かな実を結ぶために必要なことであると、イエス様は言われました。

私たちの今のイエス様との関係はどのようなものでしょうか?私たちの置かれる状況は日々変わりますが、どのような中にあっても、主にしっかりとつながっているならば、イエス様は私たちの一人一人を清め、豊かな実を結ぶ者として下さいます。そしてさらには、廃墟と見えるような場所をも建て直す、主の御業を共に見てゆく者となります。