満たしてくださる方

2022年1月23日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書6章30節~44節

神様は私たちの必要を満たして下さるお方です。いや、私たちが必要と考えるよりもはるかに豊かに満たして下さいます。私たちは今日の聖書箇所を通して、イエス様がそのように豊かに私たちを満たしてくださるのだということを、改めて知ることができます。

1.「来て、休みなさい」

今日の箇所で、使徒たち、イエス様によって選ばれ、任命された12人の弟子たちは、イエス様のもとに集まって来ました。この前の箇所で、彼らはイエス様によって二人ずつ遣わされて、多くの町々でイエス様の福音を宣べ伝えたと書かれています。

6章8~9節「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」

このように、彼らは旅立つにあたって、何も持たないで出かけて行きました。しかし、彼らの行く先々で、主は彼らのすべての必要を満たして下さいました。着るものも食べるものもすべて与えられました。そして、そのように満たされて、彼らは多くの働きをすることができました。13節には「そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。イエス様が福音を宣べ伝えられた時、いつも悪霊が追い出され、病人たちが癒されました。それと同じように、彼らも、御言葉を宣べ伝えることを通して、それが目に見える形で多くの実を結んでいくのを見ることができました。彼らは、そのように素晴らしい主の恵みによって満たされ、成果を見たことを喜んでイエス様に報告した、それが今日の箇所です。ここでイエス様が、素晴らしい働きを終えて帰って来た使徒たちに命じられたことは、まず、「休むこと」でした。

31節「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。」

なぜイエス様は、弟子たちに休むように言われたのでしょうか?それは、弟子たちに、自分の働きではなく、主の恵みにより頼むことを教えるためでした。聖書の中では、安息日の律法の中にもあるように、「休むこと」が、命令として与えられています。この箇所でも、「しばらく休むがよい」とありますが、原文では「休みなさい」という命令形になっています。そのようにイエス様の弟子たちに対して、また私たちに対しても、休むことが命じられているのは、人間が自分の働きに頼らず、すべてのものを創られ、また与えて下さる主に、依り頼むようになるためでありました。

イエス様はそのために弟子たちを「人里離れた所」に遣わされました。これは、人がほとんど住んでいない所、食べるものも得るのが難しい所、そのような場所を表しています。それは、彼らが自分の働きを一旦止めて、神様の恵みだけに依り頼むことを学ぶためでした。そのような「人里離れた所」に行くというのは、今を生きる私たちにとってはとても難しいことのように思えます。文明が発達し、日々忙しさの中で生きている私たちにとって、完全に「人里離れた所」に行くというのは中々できないものです。しかしそういった中でも、自分の力で生きているのではなく、神様の恵みによって生かされているということを実感できるような場所や時間を持つことは、やはり大切であると思います。私もそのような場を持とうと心掛けていますが、中々難しいことも多いです。一人で休んでいても、日々すべき事や色々な心配事が頭に浮かんで来ることがあります。そのような時、私の場合は、近くの海に行って、ぼーっと海を眺めて時間を過ごしたりすることで、少し心を休めることができます。

休み方は人によって色々ありますが、「これをしなければならない」「これをしてはいけない」という風に考えてしまうと、律法的になってしまい、休むことが難しくなります。イエス様が語られたユダヤ人たちの多くは、正にそのような律法的な人々でした。彼らは、安息日を守ることに固執し、数多くの規則を作りました。そしてそのことによって、かえって本当の安息を受け取ることができなくなってしまいました。そこでイエス様は、ご自分こそが「安息日の主」であると言われました。それは、イエス様のもとにこそ、安息日の目指すところの神の安息があるということです。

31節で、イエス様は、「さあ・・・休みなさい」と言われました。この「さあ」とは、原文では「来なさい」という言葉です。良く知られたイエス様の御言葉に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい(マタイ11:28)」とあります。この「来なさい」と同じ言葉が使われています。それはつまり、イエス様が休みなさいと言われたのは、「わたしのもとに来て、休みなさい」と言われたということです。日々の生活の中で、自分の働きを一旦止め、イエス様のもとに行くことによって、私たちは神様の安息をいただくことができます。

 

2.「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」

イエス様は、すべての人が、ご自分のもとに来て心も体も休んで、満たされるようにと願っておられます。

それは私たち自身のためだけでなく、私たちを通してこの主の恵みが分かち合われるためでもあるということを、今日の箇所は伝えています。

使徒たちは、自分たちだけで人里離れた所へ行き、休もうとしました。彼らが出かけてゆくのを見て、人々は彼らよりも先に走って行き、彼らより早く目的地に着いてしまいました。使徒たちはその状況を見た時どう感じたでしょうか。彼らはきっとがっかりしたのではないかと思います。せっかく休むために出て来たのに、これではいつもと同じではないか、そのようなつぶやきがあったかもしれません。それに対してイエス様はこの状況をどう見ておられたでしょうか。

34節「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」

ここに表されているように、イエス様はいつでも、「飼い主のいない羊」、失われた魂を求めておられました。イエス様は、そのような私たちを救うためにこの世に来て下さいました。しかし、その失われた魂を救うためにイエス様がとられた方法とは、人間を用いて福音を伝えるというものでした。弟子たちはこのことのために招かれたのでした。イエス様はそれを示すために、弟子たちを通してこの群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われました。

37節「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった」

このイエス様の言葉を聞いて、弟子たちはさぞ驚いたことと思います。自分たちは休むためにここに来たのであって、人々の世話をするためではない、と彼らは思ったのではないでしょうか。しかも、あり得ない程の人数です。「男が5千人」ということは、その家族を含めれば数万人になっていたと思われます。そんな大勢に食べさせられるだけの食べ物が、この「人里離れた所」あるはずはありませんでした。

しかし、イエス様は弟子たちに言われました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と。弟子たちは、自分たちが休むために持ってきていた食糧の量を大体知っていたのではないかと思います。それでもイエス様が彼らにパンの数を「見て来なさい」と言われたのは、自分達の必要を自覚させるためであったでしょう。そこには、五つのパンと二匹の魚だけがありました。数万人の人々を食べさせるには到底足りない量です。イエス様は、そのように無に等しいところから、神様の奇跡は起こるということを示されました。

イエス様に招かれた弟子たちの一人一人は、私たちと同じように、皆、弱さのある人間でした。数万人の人々を食べさせなければならないという状況の前で、彼らには何もできませんでした。しかし、イエス様は、そのような彼らを通して、大勢の人々を満たすことができるという神の恵みを、この奇跡の業を通して示されました。

これは、私たちの一人一人について言われていることです。それぞれに弱さがあり、罪があり、疲れ果てて休みを必要としている私たち。イエス様の恵みは、その私たちを通して、多くの人々を満たすことができます。それは、イエス様の恵みが、あまりに素晴らしいからです。

 

3.「すべての人が食べて満腹した」

41~42節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した」

ここで「すべての人が食べて満腹した」と言われています。「満腹した」は原文では「満たされた」となっています。そこにいた大勢の人たちは、ただ食べることができたのではなく、「満たされた」、完全に満たされることができたということです。これは、イエス様の恵みは、私たちを、そしてすべての人を満たすことができる恵みであることを示しています。それは、ただ単に私たちの物理的な必要を満たして下さるということではありません。私たちの存在そのものが必要としているすべてを、満たして下さる。それがイエス様の恵みです。

この五つのパンと二匹の魚の奇跡は、四つの福音書のすべてに書かれている出来事です。それは、この奇跡が、イエス様の福音とは何かを示す大切な出来事であったからであると思います。

ヨハネ8:35「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」

イエス様は、「わたしが命のパンである」と言われました。それは、イエス様が5千人に分けられた五つのパンと二匹の魚とは、後に十字架にかかり、私たちのために命を捨てて下さった、イエス様自身を指し示しているということです。イエス様が十字架で死なれ三日目に復活されたのは、私たちが罪から救われ、命を得るためでした。私たちがこのことを信じるなら、そのように命を得た者として、「あなたは、決して飢えることがなく、決して渇くことがない」とイエス様は言われています。そしてこのイエス様は、弟子たちに対して、「さあ、わたしの所に来て、休みなさい」と言われました。そして今日も、私たちに対して、「来て、休みなさい」とおっしゃっています。

 

今、私たちの目には、どのような自分の必要が、また、周りの人々の必要が、映っているでしょうか。そこに、どのように大きな必要があったとしても、イエス様はすべてを満たしてくださるお方です。私たちの願いをも遥かに超えて豊かに満たしてくださる方に、求めましょう。そして私たちは、イエス様にある安息に満たされ、その満たされた恵みをより多くの人々に分かち合ってゆく者とされてゆきます。このイエス様の恵みと安息が、私たち一人一人の上にありますように祈ります。