狭い門から入る

2020年11月22日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書7章13~14節

 

1.世の中の「狭い門」

今日の御言葉は、「狭い門」について私たちに語っています。「狭い門」と聞いて、皆さんは初めに何を連想しますか?私はやはり、自分も経験した、入学試験を思い起こします。私は中学校から私立の学校に行きましたので、小学校の時に初めて、この「狭い門」にぶつかりました。小学校4年位の時から、塾に通い、ひたすら勉強しました。私は元々成績優秀ではなかったので、とても大変でした。朝早く起きて勉強、学校から帰るとすぐに塾に行き、深夜まで勉強しました。あまりのストレスで、十二指腸潰瘍になってしまう程でした。それはとても辛かったですが、努力の甲斐あって、何とか志望校に入ることができました。それも、一次試験では不合格となり、ごく少数しかとらない二次試験の、さらに補欠での合格、という、正に超狭き門をくぐって、入学することができました。

「狭い門」とは、そのように、厳しい関門を突破して何かの資格を得る、ということを指して使われることの多い言葉です。その門を入るために、人は一生懸命努力をします。中には、努力をしなくてもそこに入っていくことのできる人もいますが、それはごく限られた天才と呼ばれる人たちです。いずれにしても、この世の中では、「狭い門」に入るために、競争をしなくてはなりません。

 

2.聖書の伝える狭い門

しかし、今日の聖書の箇所で語られている狭い門とは、そのように、人間の努力や競争によって入るものではありません。イエス様の呼びかける狭い門に、人は何によって入るのでしょうか?それは、信じることによってです。それも、イエス・キリストという方が、私の罪ために十字架にかかられたという恵みを信じることによってです。狭い門は、人の努力によってではなく、この一方的な神様の恵みによって入るものです。

私はこのことが分からずに、回り道をしました。実は、私が苦労して入学した学校というのは、カトリックのミッションスクールでした。入学式の日に、新入生の一人一人に、名前入りの聖書が配られました。私はそれまで聖書を読んだことがありませんでしたが、キリスト教に関心がありました。それで、たまに読んでみたり、ごくたまに、朝の礼拝に参加してみたりしましたが、すぐに飽きてしまい、続きませんでした。

私はその学校で、中・高の6年間を過ごし、その後大学を受験して進学しましたが、その学校も、キリスト教、今度はプロテスタントの学校でした。その学校で私は、キリスト教について学んでみたいと思うようになりました。それで私は、クリスチャンでないのに、神学を専攻して卒業しました。しかし私は、学問としてのキリスト教に興味を持っていただけであり、信じようとは思いませんでした。より正確に言うと、自分にはまだ信じられないと思いました。自分は聖書が教えるような聖い人間じゃないし、また、聖書の内容もまだ十分理解していない、だから、信じるにしても、もっと学んでからでなければならない、そういう風に考えていました。

そのような私が、イエス様を信じることとなったのは、社会に出て、仕事を始めてからでした。会社に入って、忙しい生活が始まりました。しかし、何をやっても満たされないということを経験しました。友人に恵まれ、仕事にもやりがいをもって取り組んでいたと思います。しかし、自分が何のために生きているのか、ということの答えは、どんなに仕事をしても、どんなに遊んでも、得られませんでした。そのような中で、誰に誘われるでもなく、自然と足が近所の教会へ向かいました。そしてその教会の礼拝に参加した時に、聖書の言葉が、今の自分に向けられたメッセージであると感じました。そのようなことは初めての経験でした。それまでは、聖書の言葉は勉強の対象でしかありませんでした。しかしその教会に通う内に、まだよくわからないけど信じてみたい、という思いが与えられました。

私たちは、聖書の内容を十分理解したから、信じるのではありません。また、聖書の教えを実行できるようになったから、救われるのでもありません。そのように考えてしまうとしたら、かつての私がそうであったように、この世の「狭い門」の価値観によって縛られていることになります。聖書は、どこまで行っても人間は罪びとであるということを明らかにしています。つまり、人間の知識や行いというものは、神様の前には不完全であり、罪の支配の下にあるということです。これは、人間の努力によっては、どうにもならないものです。そのような私たちを、罪から完全に解放し、救いに導くために、イエス様が十字架にかかられ、私たちの罪をすべて、負って下さいました。そのことを信じる時に、私たちは、無償で、ただで、救われ、永遠の命を得ます。罪によって滅びるはずだった者が、神の子どもとして永遠に生きる者となるということです。

しかし、それではなぜ、聖書でも「狭い門」と言われているのでしょうか?恵みによって、信じるだけで誰でも救われるのなら、「広い門」と言われても良さそうなものです。それは、私たちの入るべき門が「狭い」という事実は変わらないからです。私たち一人一人が救いに入るための門、それはやはり「狭い門」なのです。

このことは、別の箇所のイエス様の教えを通して見てみましょう。福音書に繰り返し出てくる「金持ちの青年」と言われる箇所で、マタイによる福音書の中では19章16節からの箇所です。その中で、イエス様はこのように言われています。

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(19章23~24節)」

この箇所に出てくる青年は、金持ちであるだけでなく、立派な人間でした。幼い頃から聖書を読み、その教えを真面目に守ってきた人でした。しかし彼は、イエス様に、自分の財産を売り払い、貧しい人々のために施しなさいと言われた時に、それができず、イエス様の前から立ち去ってゆきました。ここで問題であったのは、彼が財産を売り払うことができなかったということではありません。彼の問題は、自分には何でも「できる」と思っていたことです。「できる」と思っていた青年に、イエス様は、「できない」という事を示されました。それでイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。これは、この青年のことだけを言っているのではありません。お金だけでなく、才能や、容姿や、プライドによって、自分自身には「できる」と思っている全ての人に対して、イエス様は、「あなたにはできない」と言われています。その意味では、この言葉は、世の中の価値観に従って努力や競争によって何かを成し遂げようとする、私たち一人一人に対して言われた言葉でもあります。だから、本当は、私たちが救いにあずかるというのは「らくだが針の穴を通る」程難しいことなのです。自分という人間が、自らの傲慢さに気付き、罪を悔い改め、イエス様を信じて救いに入るということ、それは、やはり狭い門を入るということなのです。だからこそイエス様は、金持ちの青年が去った後で、こう言われています。

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる(19章26節)」

救いに至る狭い門を入るということは、自分の力では不可能なことです。しかし、神様にはそれがおできになります。私たちは、イエス様の恵みによって、この狭い門に入らせていただいている、ということを覚えたいと思います。

 

3.狭い門に続く細い道

そして今日の箇所は、もう一つのことを語っています。それは、狭い門から入る私たちは、細い道を歩き続けるということです。

世の中にある「狭い門」の代表例である、入学試験について考えてみましょう。特に、大学入試に関して言えることですが、日本の大学は多くの場合、入るのは「狭い門」ですが、入ってしまえば、遊びたい放題の「広い道」であるような気がします。そのような状況は、大学だけでなく、社会全体に広く見られることだと思います。

しかし、イエス様を信じて、狭い門を入るキリスト者の人生はどうでしょうか?私は初め、バプテスマを受けたら、人生の問題が全くなくなるかのように、思っていたような気がします。その道を、何の葛藤もなく歩く「広い道」のように考えていたのかもしれません。しかし、実際にはそうではないことを、私たちは知っております。イエス様を信じるがゆえに、日々の生活の中で葛藤を感じたり、周りの人々と摩擦が生まれたりすることがあります。また、何が神様の御心であるのか迷ったり、信仰的に落ち込んだり、信仰生活の中で私たちは、様々な戦いを経験します。それは、私たちを神様から引き離そうとするサタンとの霊的な戦いの道です。

それは本当に、細い道であると感じます。多くの場合、主の示される狭い門、細い道は、二つの極端な道の間に存在しています。例えば、私たちが聖書を読もうとするときのことを考えてみましょう。聖書を読むということは、生きた神の御言葉をいただくということですから、日々聖書を読み続けることはとても大切なことです。しかし、私たちが頑張って自分の力でそれを続けようとするならどうでしょうか。私たちは途端に苦しくなり、体調が悪くて読めない時などがあると、ひどく落ち込んだりします。これは、いわゆる「律法主義」、言い換えれば「ねばならない主義」であり、神様の恵みに頼る生き方と反したものです。私たちは「何かをしなければ」救われないのではなく、イエス様の一方的な恵みによって救われます。しかし、そうかと言って、では聖書を読む必要がないのか、というとそれも違います。このように、私たちの前には、二つの極端な道が広がっています。これは、聖書を読もうとする時でも、礼拝であっても、祈りであっても、誰かを愛することであっても、同じことが言えます。私たちは自分の力でそれらのことをすることができません。しかし、イエス様は恵みによって、その細い道を歩ませて下さいます。ところがサタンは、私たちが「できない」ということを理由に、私たちが信仰の歩みを全く止めてしまうように誘います。そして私たちが再び歩み始めると、今度は、私たちが自分の力に頼って頑張るように誘惑をするのです。このように、サタンの誘惑する広い道が私たちの前には広がっています。その広い道の間に、神様の示される細い道が存在しています。それは、日々神様の御声を聞きながら歩み続ける道です。

私たちは10月からコヘレトの言葉を学んできました。その中には、多くの矛盾するようなことが書かれていたと思います。コヘレトは「すべては空しい」と言いました。しかし同時に、「神のなされることは全て美しい」とも言っています。また、賢過ぎてもいけないし、愚か過ぎてもいけない、とも言っています。これらの言葉は、私たちが生きてゆく中で、「空しさ」に心を留めると同時に、「美しさ」にも心を留めるということ、「賢さ」を持つと同時に「愚かさ」を持つということの重要性を伝えています。それは神様の御心が、ちょうどその間にあるからです。一見矛盾するこの世の中の状況の中で、その只中に存在している神様の「細い道」を見いだして、日々その道を歩むように、私たちは招かれています。

 

4.イエス様と共に歩む

今日の箇所が伝える「狭い門」「細い道」とは、何よりも、イエス様ご自身が歩まれた道です。イエス様は、神の御子であり、全く罪のない存在でありながら、罪人の一人として、最も残酷で屈辱的な処刑方法である、十字架にかけられ、死なれました。それが、人間を救うための唯一の道であったからです。罪の中にあるすべての人間を救うために、罪のないイエス様がその罪を背負って、死んで下さいました。イエス様が、十字架という最も「狭い門」を入られ、最も「細い道」を歩まれたことにより、今日の私たちがあります。だから私たちが、与えられた日々の中で「狭い門」「細い道」に出会う時、イエス様は私たちと一緒に、その門を入り、その道を歩んで下さいます。この道は、私たちを滅びではなく、命に至らせる道です。日々、イエス様と共に、この道を歩んでゆきましょう。