目を覚ましていなさい

2022年2月6日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書13章32節~37節

1.家の内側を守る僕として

33~34節「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」

 

今日の箇所では、「目を覚ましていなさい」という神様からの命令が、旅に出る人が自分の家を僕たちに任せる様子にたとえられています。そこで、この家の主人が僕たちや門番に何を望んでいたのかを通して、神様が私たちに何を望んでおられるのかを知ることができます。

まず、「僕たち」に何を望んでいたでしょうか。主人は「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」た、とあります。主人は、留守の間、自分の家のあらゆる仕事を僕たちに任せました。家の仕事にはどのようなものがあったでしょうか。日々の食事や洗濯、壊れた部分の修繕、農家なら畑仕事、職人の家なら商品の製造、家計簿の記帳、等々。それらの仕事は、家を守るために必要なことでした。家の主人が望んだことは、まず、家の内側を守ること、そしてそのためにそれぞれが与えられた責任を忠実に果たすということでした。

神様は、私たちの一人一人にどのような「仕事」「責任」を与えられているでしょうか。私たちはそれぞれ、年齢や能力に関わらず、神様から「仕事」や「責任」を与えられています。これは、もちろん子どもも例外ではありません。ある本によれば、子どものいたずらは「神様からの宿題」であるとのことです。子どもが、大人から見るとなぜこんなことを繰り返すんだろうと思うようなことも、神様から与えられた宿題をこなしているんだと捉えることができるかもしれません。ところが、私たちは大人になるにつれ、実際に様々な仕事や責任を任されるようになっていきます。その中で、目の前のやるべきことなすべきことだけを見て、神様が自分に何を望んでおられるのかを見失ってしまうことがあると思います。そういう意味では、子どもたちは神様の導きだけに純粋に従っていると言え、私たちはそこから多くのことを学ぶことができます。イエス様は、「目を覚ましていなさい」と私たちに言われています。それはつまり、主が私たちに任せられたことが何であるかを見失わないようにしなさいということです。

そしてそれは、今日の箇所のたとえの中で言えば、私たちのそれぞれが任されている家の内側を守るということです。この「家」とは何を指しているでしょうか。これはまず、私たち自身の存在のことを表しています。少し前の9節でこう言われています。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」。この箇所でイエス様は、終わりの時には様々なことが起こると言われました。戦争や地震や飢饉が起こると言われました。そして今私たちが経験しているようなウイルス感染の流行、すなわち疫病も起こるだろうと言われました。しかし、イエス様は、この世の状況が目まぐるしく変わってゆくこのような時こそ、慌てふためくのではなく、まず「自分のことに気をつけていなさい」と言われました。それは、神様から任された自分という存在の内側に目を向けるということです。私たち一人一人の存在の内側に、神様はどのような計画を備えられているでしょうか?そこには、どのような活かされるべき賜物があり、どのようないやされるべき傷があり、また、どのような悔い改めるべき罪があるでしょうか。神様は御言葉を通して、これらのことを私たちに示して下さいます。そして神様はそれらの一つ一つのことを通して、私たちがこの地上において神の栄光を現わす者となり、イエス様の再臨の時、豊かな報いを受けるように願っておられます。

箴言4:23「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」

今、私たちはコロナ禍という前例のない時代を生きています。その中で、これまで当たり前にできていたことができなくなったということがたくさんあると思います。そのような中で私たちは、神様の御前で本当に大切なことは何なのか、そのことを問い直す機会が与えられていると信じます。聖書は「何を守るよりも、自分の心を守れ」と教えています。これはもちろん、自分の力で私たちが自分の心を守るということではありません。イエス様の御言葉を信頼して、イエス様を自分の心にお迎えするとき、イエス様の光が私たちの心に照らされ、そこにある闇が光となり、いやしと清めが与えられるという恵みを表しています。そしてそれは「命の源」となると言われています。私たちが、目を覚まして、自分自身という家の内側が守られるようにイエス様に祈り求める時、そこに「命の源」が湧き出るようになります。その命は、私たちの内側だけでとどまるのではなく、私たちの家庭や、神の家である教会も、この命で溢れ、結果として守られるという祝福を経験することができます。「目を覚ましていなさい」というイエス様の御言葉に導かれ、私たちは、まず自分自身の内側にイエス様の恵みを体験し、それぞれに任された家の内側が守られてゆくように祈り求めることができます。

 

2.家の外側を守る門番として

さて、今日の箇所で、家の主人が家を任せたもう一つの存在は「門番」です。門番の役割は、家を不審者や侵入者から守ることです。主人がいない家は、泥棒にとって恰好の標的になったと思います。また、様々な野生動物が家に入ってくる危険もあったでしょう。門番はそのような危険を事前に察知し、家を守る役割を与えられました。

「目を覚ましていなさい」と言われたイエス様は、私たちを取り巻くあらゆる危険に対して、目を覚ましているように望まれています。その危険とはどのようなものでしょうか。

21~23節「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」

イエス様はこの箇所で、今日の箇所で言われたのと同じ言葉で「気をつけていなさい」と言われました。それは、イエス様を救い主であると信じる私たちを惑わす存在が現われることに対しての警告として語られました。イエス様は、この13章を通して、終末の時代、イエス様の再臨が近づく時代のことを話しておられます。それは、遠い将来のことではなく、今というこの時のことです。「その日、その時はだれも知らない」とイエス様は言われました。しかし、その日、その時は確実に近づいています。そしてその終わりの時代には、様々な惑わす存在が現われるとイエス様は言われました。このような危険に対して、私たちも目を覚ましている必要があります。家に入ろうとする侵入者は、大体味方を装って近づいて来るものだと思います。私たちはこの箇所の「偽メシア」「偽預言者」と聞くと、自分とはあまり関係のないもののように思ってしまうかもしれません。しかし、これらは、イエス様ではないもので私たちの心を埋めようとする力を代表する者たちであって、この力は私たちの身の回りにいつも働いています。ある時はお金で、ある時は名誉で、ある時は快楽で、サタンは私たちの心を神様から引き離そうといつも狙っています。

ペトロの手紙一5章8~9節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」

ここでも「目を覚ましていなさい」と言われています。それは、神様の愛ではない偽物の愛に対して、惑わされないように、目を覚ましていなければならないということです。これは私たちの自分の力で見分けることのできるものではありません。しかし、聖書に照らし合わせて、これはイエス様から出たものだろうかと吟味する時、聖霊は私たちにその違いを示して下さいます。

イエス様は、私たちが門番のように目を覚まして家の外を守らなければならないと言われています。それは、まず私たち自身が、あらゆるサタンの誘惑や惑わしから守られるように祈るということです。そして、自分だけでなく、私たちの家庭や私たちの教会が、同じように守られるように執り成して祈るということです。

 

3.目を覚ましていられない友として

このように、今日の箇所は、私たちがイエス様の僕として、また門番として、それぞれに任された家の内側と外側を守らなければならないと伝えています。しかし、これらの言葉を直接聞いた、弟子たちは、その後どうなったでしょうか。彼らは、目を覚ましていることができなかった者です。彼らは、自分の目の前にいるイエス様を信じ続けることができませんでした。今日の箇所の少し後の14章の中で、イエス様が弟子たちと共にゲッセマネの園というところでお祈りをされるという場面があります。その時、弟子たちは「目を覚ましていなさい」と言われていたのに、わずか1時間も目を覚ましていることができませんでした。このことが伝えているのは、私たちは決して自分の力では目を覚ましていることができないということです。

私たちがもし、自分の力で目を覚ましていなければならないということであれば、それはある種の宗教の修行のようなものになってしまいます。しかしイエス様は、私たちを「キリスト教の一信徒」と見ておられるのではありません。イエス様は、私たちの一人一人をご自分の「愛する友」として見ておられます。そして、そのような友として、私たちに「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。

自分の力では目を覚ましていることのできない私たち、神様から自分に任された責任や仕事が何であるのかを簡単に見失ってしまう私たち、そして、外側から私たちを襲う危険や誘惑に対して抵抗することのできない私たち、そのような私たちの弱さと罪を贖うために、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。そのイエス様が、今日も私たちに「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。それは、私たちが、イエス様の十字架の恵みに日々すがりながら目を覚まし続けてゆくときに、神様の栄光が現わされてゆくからです。私たちが目を覚まして、神様が自分に与えられた責任が何であるのかを見い出し、そして目を覚まして、外側から私たちを襲ってくるあらゆる危険や誘惑に立ち向かう時、そのような私たちをイエス様は終わりの日まで支え続けてくださいます。私たちは「目を覚ましていなさい」というイエス様の呼びかけに今日も応えていく者でありたいと思います。