真夜中の救い

2021年5月30日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録16章25~40節

5月は使徒言行録を読んで来ました。ペンテコステ(聖霊降臨日)の前後となるこの5月は、毎年、使徒言行録を読むことが多いと思います。その中心テーマは、聖霊降臨の出来事、すなわち、神の霊が地上に降ったとき教会が誕生したということであると思います。しかし、今年与えられた聖書日課のスケジュールを通して見ると、そこには「救い」というテーマがあったように思います。聖霊が降ったことにより、救われる人が一人また一人と起こされていったということ、このことをこの5月、聖書から聞くことができたのではないかと思います。その中で、私たちの教会では、5月に二度のバプテスマ式が与えられ、救われる方々が起こされたこと、これも主の導きであったと感謝しています。

今日の聖書箇所でも、神様が救いの出来事を起こして下さったことが伝えられています。それは特に、「真夜中」に起こったことであると言われています。

25節「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」

真夜中とは、最も暗い時です。それは、物理的な暗さだけでなく、人の心の中にも暗さをもたらします。多くの犯罪が夜の内に起こるというのは、暗闇が人の心にもたらす影響を表していると言えます。そして、この時、パウロとシラスは、牢の中に閉じ込められていました。それも、二人は看守によっていちばん奥の牢に閉じ込められました。その場所は、光から最も遠い場所であったと言えると思います。そのような最も深い暗闇の中で、今日伝えられた救いの出来事が起こりました。

イエス様は言われました。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(ヨハネ8:12)」

この言葉の通り、イエス様を信じたパウロとシラスは、暗闇の真っただ中にいても、失望せず、イエス様の光を見続けていました。そして彼らは、賛美の歌を歌い、祈りました。誰に対してでもなく、ただ「神に向かって」の賛美と祈りです。当然、楽器も、楽譜も、何もなかったでしょう。しかし彼らがささげる賛美は、喜びに満ちあふれ、「ほかの囚人たちがこれに聞き入っていた」ほど、人々の心を打つものとなりました。彼等は、真夜中の暗闇、牢獄の奥深くにいても、光輝いていました。それは、イエス様自身を通して放たれる光でした。

賛美とは、このように、まだ見ぬ神の栄光を、ほめたたえるものです。暗闇の中で、何の光も見えなくても、神を賛美する。そのことによって、神の栄光は、現実のものとなってゆきます。私たちの賛美には、神の栄光を呼び覚ます力が備えられているのです。ダビデは詩編の中で、「わたしは曙を呼び覚まそう(詩編57:9)」と歌っていますが、それはまさにこのことでした。真夜中の暗闇の中にあっても、曙、すなわち朝の光を呼び覚ます力が、主を待ち望む私たちの賛美には秘められています。

さて、そのような彼らの賛美に引き続いて起こされた出来事は、大きな地震でした。

26節「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」

この大地震によって、何がもたらされたのでしょうか?御言葉は、「牢の土台が揺れ動いた」と伝えています。

この大地震が表しているのは、「牢の土台」すなわち、この世で、私たちが拠り所としている人生の土台が揺れ動くという出来事でありました。

大地震は、囚人たちにとっては、歓迎すべきことでした。それによって、牢のすべての扉が開き、彼らの鎖も外れ、自由の身になることができたのです。しかし、これは看守にとっては、最悪の事態です。自分の任されている監獄が壊され、囚人たちが逃げれば、自分が責任をとらねばなりません。実際、使徒言行録12章で、ペトロが牢獄から天使により救い出されるということが起こりましたが、この時、牢を守っていた兵士たちは、死刑にされてしまいました。この看守は、自分も同じように死刑になってしまう、そのように考えたのでしょうか。自ら剣を抜いて、自殺しようとしました。

この看守は、何を人生の土台としていたのでしょうか。それは、自分の任されている牢獄という職場、そしてローマの高官たちから良い評価を得ること、などであったと思います。無難に、いつも通りの日常を送ること。そのことを求めて生きていたのだと思います。これらのようなことは、私たちが日常生活の中で求めていることでもあるかもしれません。

しかし、この看守の何事もない日常は、大地震によって、一瞬のうちに崩れ去ってしまいました。牢の扉はすべて開き、囚人たちの鎖は外れてしまいました。囚人たちが皆逃げてしまったと思った彼は、もはや、生きていることの意味を見失ってしまいました。

私たちの人生の中にも、時折、地震のような、人生の土台を揺れ動かす出来事が起こります。その時、多くの人は絶望し、ある人は、この看守のように自殺を考えるかもしれません。

しかし、私たちの目に土台と見えるものが失われても、神の目には決してそれで終わりではありません。

神様は、私たちの目には全くマイナスのように思われる出来事をさえ用いて、私たちを救いに導いて下さるからです。

剣を抜いて、今にも命を絶とうとした看守のもとに、大声で叫ぶ声がありました。

「自害してはいけない!わたしたちは皆ここにいる!」

地震が起こったとき、パウロとシラスは、すぐに逃げ出すこともできました。しかし彼らは、目の前で命を絶とうとしている看守の命を救うために、叫びかけました。この叫び声は、私たちに向けられた神様ご自身の叫び声でもあります。私たちの土台としていたものが崩れ落ちるとき、絶望する私たちに、神様は、「わたしはあなたと共にいる!」と叫びかけておられます。どんなに絶望的な状態の中にあっても、主は私たちと共におられます。

看守は、このパウロの叫び声を聞いて、我に返り、死ぬことではなく生きることを選びました。死から救い出された看守は、もはや、それまでしがみついていた土台からは自由にされていました。看守であることは忘れ、ただ一人の人間として、「救われたい」という純粋な願いが彼の心に生じたのはこの時です。

29~30節「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか』」

看守は、震えながらひれ伏してパウロとシラスに尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。それは彼の必死な思いを表していました。

彼だけでなく、イエス様を知らないほとんどの人がこのように思っています。「救われるためには、何かをしなければならない」。「どうすれば救われるか」そのような、教えや哲学は、この世に満ち溢れています。しかしそれは正に、使徒言行録15章のエルサレム会議で否定された、「行いによる救い」「律法主義」というものでした。人は皆、自分の力では救われることができない、そのことを知りつつも、どうしてもその重荷を背負って生きようとしてしまうものです。そして、いつしか「善いことを行うこと」が人生の土台になっていってしまいます。

しかし、聖書の教える救いの方法は、そのような難しいものではなく、極めて単純なものです。それは、看守に対するパウロとシラスの答えにすべて表されています。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

誰であっても、何をしていても、していなくても、ただ、イエス様を信じることによって、救いが与えられるということ、このような神様からの一方的な恵みを聖書は伝えています。

そしてそれは恵みであるがゆえに、私たちが受け取ると、周囲へと流れ広がってゆくものです。「あなたも家族も救われます」という言葉が示している通り、私たちの家族へと救いの恵みは流れ広がってゆきます。

しかし私たちの内の多くは、家族の救いというものが、簡単なものではないことを知っていると思います。自分の生い立ちや弱さもすべて知る家族であるからこそ、福音を伝えたり、祈ったりすることが難しいということがあります。

しかし、聖書は何と言っているでしょうか。「主イエスを信じなさい」。家族の救いは、自分の力によることではなく、イエス様を信じることによって与えられる恵みであると伝えています。ここで、「信じる」と言われている言葉は、二つのことを意味しています。一つは、イエス様を、自分のための救い主として心に受け入れるということです。これは、一生で一度のことです。私たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けるということ、これは、人生の中で、一回限りの経験です。しかし「信じる」という言葉はもう一つの意味を持っています。それは、「信頼する」ということです。イエス様を信じて、バプテスマを受けることによって、クリスチャンとしての新しい人生が始まります。「信じる」とは、その人生の中で、良い時も悪い時も、疑ってしまうことがあっても、それでも、イエス様を信頼し、信じ続けていくということです。その二つの意味で、私たちがイエス様を信じ、そして信じ続けるとき、神様は「あなたも家族も救われます」と約束をしておられます。

イエス様を信じたこの看守は、その真夜中の内に、家族と共にバプテスマを受けました。そして、その後、パウロとシラスを自分の家に案内して、一緒に食事をし、救われたことを皆で喜び祝いました。すべて、同じ真夜中に起こった出来事です。真夜中に一人、自ら命を絶とうとしていたこの看守は、イエス様を信じたことによって180度変えられ、新しく救われた命を喜ぶ者になるという急展開を経験しました。私たちの人生にも、このような急展開があります。真夜中の暗闇から、救いの光へと移される急展開は、私たちの努力によるのではなく、私たちのために十字架で死なれ、復活されたイエス様からの一方的な恵みによることです。

しかし、そのために、あきらめずに神様に祈り続けた人がいる、ということも同時に覚えたいと思います。パウロとシラスは、真夜中の暗闇の中で、まだ見ぬ失われた魂の救いのために、祈り、感謝し、神様に賛美をささげていました。その中で、神様は地震を送られ、この看守が神のもとへ導かれるようにされたのです。ですから私たちも祈り、賛美を続けましょう。真夜中の暗闇のような中でも、主を見上げ、賛美をするときに、神様は奇跡を起こして下さり、私たちを暗闇から救い出して下さるだけでなく、さらに新たな魂を救いへ導いて下さいます。私たちはそのことを、共に喜ぶようになるのです。