知恵と力は神のもの

2022年8月28日 礼拝メッセージ全文

ダニエル書 2章1節~24節

1.知恵は神のもの

ダニエル書2章は、バビロンの王の夢をダニエルが解き明かすという良く知られた箇所です。この出来事を通して、私たちに与えられたメッセージは、20節のダニエル自身の言葉に集約されています。

20節「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの」。

ダニエルは、知恵と力は神のものであると告白しました。本当の知恵と力は、人間に属するものではなく、すべて神のものであるということです。まず、「知恵は神のもの」ということについて考えてみたいと思います。

知恵とは何でしょうか。私たちは、物事が順調に行っている時はあまりそのようなことを考えないかもしれません。しかし、行き詰まった時や、恐れや不安を感じる時、「自分の生き方はこれでいいのだろうか」「自分は将来どうなるのだろうか」と考える時があると思います。そのような時、人は知恵を求めていると言えます。

今日の箇所に登場する、バビロンの王ネブカドネツァルもそのようであったことが分かります。彼は強大な国バビロンの王として君臨し、多くの富と権力を持っていました。ところが、彼はある時、夢を見ました。それも何度か見て、不安になり、眠れなくなった、と書いてあります。同じような夢を繰り返し見たのだと思います。その夢によって王様は不安になり、占い師や祈祷師を呼んで、自分の見た夢を説明させようとしたということです。

私たちにも、同じような経験があるかもしれません。夢ということに限らず、自分には理解のできない不可解な現象や、受け入れ難いような辛い出来事に遭遇する事があります。そのような時、真の神様を知らなければ、神ではないものに願をかけたり、占いをしてもらったりするということがあったかもしれません。

しかし聖書は、これらの行為を厳しく禁じています。それはなぜかというと、こういった行為は、人間が神様抜きで、神にしか知り得ない知恵を得ようとすることだからです。

そして聖書を読むと、はるか昔から、人間は自分の力で神の知恵を得ようとしてきたということが分かります。天地創造の初め、最初の人間として造られたアダムとエバは、神様から禁じられていた木の実を食べることを通して、神の知識を得ようとしました。そこには、人間に罪を犯させようとした蛇、すなわちサタンの誘惑がありました。つまり、人間が自分の分を越えて神の知識を得ようとする時、その先には神様ではなく、サタンがいるということです。

また、今日の箇所の舞台となっているバビロン帝国が置かれた土地とは、あのバベルの塔が建てられた場所でもありました。バベルにおいて、人間は、自分たちの造る塔によって、神のおられる天にまで到達しようとしました。この出来事も、人間が自分の力で神の知恵を得ようとしたことを伝えています。そして、このようなバベル文明の精神を、このバビロンという国は引き継いでいたということが分かります。ネブカドネツァル王は、占い師や祈祷師、その他様々な知者たち、さらにユダから連れてきた優秀な少年たちを教育し、自分に仕える者とさせました。そのようにあらゆる叡智を集めれば何でも知ることができる、神の知恵をも得ることができるというような、傲慢さがそこにはありました。

これらのことを考えてみると、人間が自分の力で知恵を得ようとするということは、現代まで続いていることであると気づかされます。現代でも、色々な占い師や祈祷師に神の知恵を求めるということがありますし、さらには科学の進歩によって、人間は何でも知ることができるのだという考えもあります。特に最近では、人工知能AIによって、人間はすべてのことを知ることができる、さらには神のようになることができるとさえ言われることがあります。このような誘惑に、私たちは今後さらに直面してゆくことになるでしょう。

このような人間世界の流れに対して、ダニエルは違ったということを今日私たちは聞いています。彼は、知恵とは人間のものではなく、神にだけあるということを信じて疑いませんでした。このダニエルには、素晴らしい知恵と才能が与えられていました。1章には、彼が「どのような幻も夢も解くことができた(17節)」と書いてあります。さらに、今日の箇所では、夢の解釈だけでなく、王がどんな夢を見たのかを言い当てることができたということです。しかし、そのすべての知恵は、ダニエル自身によるのではなく、神様の知恵によることであったと、彼は繰り返し証ししています。

30節「その秘密がわたしに明かされたのは、命あるものすべてにまさる知恵がわたしにあるからではなく、ただ王様にその解釈を申し上げ、王様が心にある思いをよく理解なさるようお助けするためだったのです」

この箇所でも言われているように、彼は「わたしではない」という態度を貫き通しました。それは、彼が、神様の知恵の前に、へりくだっていたということを伝えています。私たちも、神様の知恵の前にへりくだるということが大切です。「へりくだる」ということは、知恵を求める際に、「私が何を知りたいか」ではなく、「神様の御心は何か」「主は何を望んでおられるか」を求めてゆくということです。

結局のところ、ネブカドネツァル王は、神の知恵ではなく、人間の知恵を求めていました。彼は夢を通して、神が何を自分に語られているのかを知りたかったのではなく、ただ、自分が不安から解放されたかったのです。そのためなら、占い師であろうと誰であろうと関係なく、自分の権力を用いれば、それを知ることができる、そして自分は不安から解放される、と思っていたのです。そこには、神の知恵の前にへりくだるということは一切ありませんでした。

私たちはどうでしょうか。人生の意味を知りたいと願い、聖書の言葉を求める人は多いと思います。自分もそうでした。自分の生きている目的は何だろうか、また自分の感じる漠然とした不安や恐れを何とか解消したい、そのように願って教会の門を叩きました。しかし、今考えると、自分もネブカドネツァル王のように、自分が不安から解放されたい、自分が知恵を得て立派な人間になりたいという考えから、神の言葉を求めていなかっただろうかと思います。もし私たちがそのような願いだけをもっているなら、自分の求める答えや解決が与えられなかったら、神に頼ることは意味がないと思ってしまうと思います。しかし、神様の知恵とは、まず私たちがいかに神様の知恵から離れた者であるのかを示します。神様の御心とは、私たちが知恵を得て、どんどん知恵深い者になっていくということではなくて、むしろ私たちがいかに無知な者であるかを知り、神の知恵の前にへりくだるということを知ることです。だからこそ、旧約聖書の知恵の書と言われる箴言の中では、次のように言われています。「主を畏れることは知恵の初め(1章7節)」。つまり私たちが、神様の知恵を本当に求めたいと思ったら、まず私たちが自分の無知を知り、神様の知恵の前にへりくだるというところから始めることが必要であるということです。私たちは、今日、ダニエルの言葉と行動を通して、このように神の知恵の前にへりくだることの大切さを教えられています。

2.力は神のもの

そして次に、20節の後半のメッセージは、「力は神のもの」であるということです。

私たちは皆、力を求めて生きている者です。王のように権力を求めてはいなくても、自分の生きる世界を自分の力で治めたいと日々願っています。しかし神様が示されるのは、私たちは何一つ自分の力によっては治めることができないということ、そしてただ神様だけにその力があるということです。

21節「神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる」

時を移し、季節を変えられるのは神様であるということです。私たちは、良い時があればずっと同じように続けば良いと願いますし、悪い時が来れば良い時が早く来るようにと願います。それは自然な願いであると思いますが、この箇所は、時を支配しておられるのは神様であると伝えています。私たちの目に、良い時が来るのも悪い時が来るのも、みな神様の御手の中にあるということです。そして同じように、「王を退け、王を立て」られるのも、神様であると言われています。王様の権力も、神のご支配のもとにあるということです。そしてこのことこそ、神様が夢を通してネブカドネツァル王に伝えようとされていたことでした。

王の見た夢については、31節~45節で、詳しく説明されています。その内容を大まかに見ると、まずそこには、一つの巨大な像が現れました。その像は、「頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土」でできていました(32~33節)。しかしその像のすべてが、「人手によらず切り出された石(34節)」によって打ち砕かれ、その石は大きな山となり、全地に広がっていったということです。ダニエルに神から与えられた解釈によると、この像の体の各部分が指していたのは、バビロンに引き続いて世界の中心となる国々であるということです。そして、「人手によらず切り出された石」とは、人間によらず神によって立てられる存在、すなわちイエス・キリストによってもたらされる神の国のことを指しています。

44節「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます」

これは、王に対する警告を含んだメッセージでした。王は、自分の国と自分の王座をいかにして守り繁栄させるかだけを考えていました。しかし、彼の治めるバビロンも、その後に興るどんなに強大な国も、神ご自身の遣わされる方、御子イエス様によって実現される神の国の前には、到底及ぶことができないものであるということを、この夢は伝えていたのです。

ネブカドネツァル王にとって、「力は神のもの」ではなくて、「力は自分のもの」となっていました。彼も、神様の存在を信じてはいたと思います。しかし、彼にとって何よりも大切なことは自分の力であって、神様の力は、自分の力を高める「プラスアルファ」のようなものになってしまっていたということが言えます。これは、バビロンの王だけでなく、すべての国の王様に対して向けられた言葉でした。さらに、王ではなくても、今を生きる私たちに対して言われていることでもあります。私たちも、神様を信じながらも、時として、同じように神の力を自分にとっての「プラスアルファ」のように考えてしまう時がないでしょうか。そうなると、神様は、自分の願いを叶えるための道具のようになってしまいます。

しかし、神様の力とは、人間の力とは較べることができないものです。王の見た夢の中で、像が「人手によらない石」で打ち砕かれ、全く跡形もなくなったように、神の力は、人間の力を完全に打ち砕かれます。そして、この石が大きな山となり、全地に広がったとあるように、神の力によって人間の力が全く打ち砕かれる時、新しい創造があり、復活の御業が起こされるのです。イエス・キリストが、十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活されたように、私たちが自分の力を捨てて神様に委ねる時、私たちも神ご自身の力によって復活を遂げることができる、そのような希望を私たちは主からいただいています。

3.知恵と力を与えて下さる神

このように、ダニエルは知恵も力も神のものであると告白をしました。すべての知恵と力は、神様から来る、私たちはその偉大な神様の前にへりくだる他ない、そのようなメッセージを伝えています。

しかし、今日の箇所で彼は同時にこのように祈りました。

23節「わたしの父祖の神よ、感謝と賛美をささげます。知恵と力をわたしに授け、今、願いをかなえ、王の望むことを知らせてくださいました」

ここで、「知恵と力をわたしに授け」と言われています。「神のもの」であったはずの知恵と力が、わたしに授けられるものとなったということを証ししているのです。神様は、ダニエルにご自分の知恵を与えて、王の見た夢の秘密を示されました。また、神の力によって、バビロンの知者を皆殺しにしようとした王の手から、ダニエルたちを守ってくださいました。これらのことは、神様が、本来なら人間が受けるに値しない神の知恵と力を、私たちがへりくだって求める時に、恵みによって与えてくださるということを伝えています。私たちは今、このことを信じ、そして祈り求めることができます。これは、私たちクリスチャンにだけ与えられた特権です。

今日の箇所に出てくるバビロンの知者たちは、次のように言いました。「王様のお求めになることは難しく、これに応じることのできるのは、人間と住まいを共になさらぬ神々だけでございましょう(11節)」。彼らは、王の見た夢の内容を言い当てることは難しい、自分たちにはできないと答えた訳です。そして、それができるのは「人間と住まいを共になさらぬ神々だけ」と言いました。しかし、私たちは、「人間と住まいを共になさる神様」がいるということを知っています。イエス・キリストというお方が、約2000年前に、実際に人々と住まいを共になされ、そして復活された主は今でも私たちと共におられるということを知っています。ですから私たちは、このイエス様が私たちと共にいてくださるということを信じて、神様に知恵と力を祈り求めることができる者です。そして、たとえ人間の目には「そんな事は分からない」「それは無理だろう」と見えるようなことであっても、私たち自身は無知で無力なままで、神様の知恵と力が与えられるようにと祈ることができるのです。

私たちがそのような祈りを、一人だけではなく、共に祈ることができるという恵みを、今日の箇所は伝えています。ダニエルは、王様からの命令を聞いた時、「家に帰り、仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤに事情を説明した(17節)」とあります。そこで彼らは、共に祈りました。この夢の秘密が分からなければ自分たちは殺されてしまう、何とか助けて下さい、と、心を合わせて必死に祈ったことと思います。そのような祈りに神様は答えて下さり、ダニエルに夢の秘密を明かしてくださったのです。

神様は、私たちにも、共に主の知恵と力を祈り求める、仲間を与えてくださいます。どのような問題や不安が襲う時にも、私たちは共に主を見上げ、神の知恵と力を求めることができる者であるということを、主に感謝します。