祈りの家としての教会

イザヤ書56章1~8節

預言者イザヤは、神に選ばれた人たちに対して公平と正義を守るように告げます。そうすれば救いが実現し、神の恵みの業が近いとイザヤは宣言します。私たちが公平と正義を得るにはどうしても安息日(教会にとっては「主の日」)を守る必要があります。キリスト者が主の日に神を礼拝することができるのは、神の招きと導きによるのです。今日の聖書は、異邦人たちが主のもとに集い、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日と主の契約を守るという麗しい光景を描いています。主は、異邦人たちを聖なる山に導き、神殿において豊かな交わりをされるのです。その神殿は「祈りの家」と呼ばれます。主イエス・キリストは、私たちに「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と語っています。教会は、キリストの体であり、目に見えた一つの姿を取ります。キリストの体が霊的健康を保つためには、そこに集うキリスト者が祈りと信仰に励むことが必要なのです。

    2018年11月4日 加山彰一