神から託された重荷

2021年5月23日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録16章6~15節

今日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげしています。ペンテコステの日、聖霊が降って教会が誕生した日、使徒ペトロは次のように語りました。

 

 

使徒言行録2:14-21

「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」

人々が聖霊に満たされ、異なる国の言語で一斉に話し出したのを見た時、ある人々は「この人たちは酒に酔っているのだ」と言いました。聖霊が降るという出来事は、それだけ人々に大きな驚きを与えたものであったということです。今日、私たちは、聖霊が降って教会が生まれたこの日のことを記念して礼拝していますが、聖霊は今も私たちの内に働き、導いていて下さいます。私たちも、神様が当時の人々に与えられたような、驚きと感動をもって、聖霊の新しい導きを受け取ってゆきたいと思います。

預言者ヨエルが語ったとおり、聖霊の導きは、様々な形で教会に与えられました。預言や幻、夢、これらは、神様からのメッセージが不思議な形で人間に届けられたということを示しています。今日の箇所は、パウロが見た幻について伝えています。その幻が与えられた時の背景について見てみたいと思います。パウロは、イエス様の福音を伝えるために、アンティオキアから派遣されて、各地を巡回していました。この時は、アジア州、現在のトルコの西側の地域、に差し掛かったところでした。そこでパウロは不思議な体験をします。

 

6節「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」

 

聖霊は、イエス様のことを世界中の人々に証するために、天から注がれたものでした。しかしその同じ聖霊によって、パウロはアジア州で、御言葉を語ることを禁じられてしまいました。そして、同じようなことが、その後にも起こりました。

 

7節「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」

 

ミシア地方というのは、現在のトルコの北西部で、ビティニア州とは、その更に北、現在のイスタンブールがある辺りです。この地方には、イエスの霊によって、入ることすら許されなかったということです。

これらのようなことが起こったことも、聖霊の導きによることでした。聖霊によって示される神様の御心とは、私たちの持つ思いや、立てる計画とは異なることがあります。しかし、そこに神の目から見た最善が用意されています。

これらの地域にパウロが入って行かなかったことは、そこに神様の計画が全く無かったということではありませんでした。使徒言行録を読み進んでいくと、パウロは後に、アジア州の中心都市であるエフェソを訪れます(19章)。そして、このエフェソでの宣教を通して、アジア州全体に、福音が伝えられていったと、言われています。そして、さらにその後には、このアジア州に拠点となる七つの教会が建てられ、これらは、ヨハネの黙示録で、神様が特別にメッセージを送った教会となりました。

このように、神様の御計画は、必ず実現されます。しかし、その実現の時期や方法は、私たちの思いや考えをはるかに超えたものであることを、今日の箇所は伝えています。

さて、それではこの時、神様がパウロたちに立てられていたご計画とは何であったのでしょうか?それは、マケドニア州という、全く新しい場所へ踏み出すことでした。

 

9~10節「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」

 

この時パウロたちは、トロアスという港町にいました。トロアスからエーゲ海を挟んだ反対側は、ギリシャがあり、ヨーロッパが広がっています。この地域のことを、当時はマケドニアと呼んでいました。主は、アジア州やビティニア州に入ることを禁じた代わりに、このマケドニア州に渡って来るように、パウロに幻を与えられました。

このように、主は幻を通して、私たちを導かれることがあります。それは、この時のように、夢の中であることもあれば、起きている時に突然頭に上ってくる思いかもしれません。私はロサンゼルスの神学校で学んでいた時、卒業後は神様がどこに導かれるのだろうかとずっと祈っていました。当時、私は神学校の近くの日本人教会に通っていたこともあり、アメリカにある日本人教会に仕えたいという思いが生まれてきました。その頃、ちょうど開拓準備中の場所に、フロリダがあるという話を、祈り会の中で聞いたところでした。そんな時、自分のアパートの窓から、毎朝必ずといっていいほど、同じ男の人が歩いているのを見るようになりました。多い日は日に2,3度、我が家の前を通過するその男性は、“FLORIDA”と大きく印刷されたシャツを着ていました。その光景を見ている内に、自分はフロリダに導かれているのかもしれない、と思うようになりました。しかし結局、神様はその扉を開かれませんでした。

これは主の導きではなかった例ですが、神様は、私たちの日常生活のあらゆる出来事を通して、私たちに語っておられます。大切なことは、それをどうやって受けるかではなく、それが主から与えられたものかどうかということです。

主から与えられた幻は、私たちに確信を与えます。パウロがマケドニア人の幻を見たとき、一行はそれが主の導きであると確信し、すぐに出発しました。目に見えるところは、不安で一杯であったと思います。幻の中で、一人の人が「わたしたちを助けてください」とパウロに語りましたが、一体マケドニアのどこに行けばいいのか。その後はどうすればいいのか。何も分かっていません。しかし彼らは、それが主からのものであると確信して、一歩踏み出しました。

「幻」とは、原文では「見る」という言葉から派生した言葉です。英語ではこれを、ビジョンと言うとおりです。それはつまり、実体のない幻想を思い描くことではなく、神様の現実を見ること、これが幻、ビジョンであると言えます。聖霊降臨の出来事を経験した弟子たちは、使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という幻を常に目の前に見て、生きていました。それで、マケドニア人の幻を見た時にも、すぐにそれが主からのものであると分かり、行動に移すことができたのです。

そして、主から与えられた幻に従ってゆくと、自然に道が開かれてゆきます。アジア州やビティニア州では、どんどん道が閉ざされてゆきましたが、パウロたちがマケドニア州に渡ってゆくと、自然に行くべき道が開かれてゆきました。彼らは、フィリピという町に導かれ、そこで、安息日に祈るために人が集まっていた川岸へと向かいました。恐らくこの町には会堂がなく、ユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した少人数の人々が、川岸に集まっていたのだと思われます。その中に、リディアという女性がいました。この人が主イエスを信じ、ヨーロッパで初めてのクリスチャンとなりました。リディアが福音を受け入れたのは、「主が彼女の心を開かれた」からであると書かれています。そのように、幻に従ってマケドニアに渡って来た彼らには、自然と救われる人が与えられてゆきました。このリディアは、家庭を開放し、家の教会ができるまでになってゆきました。すべて、聖霊が結んだ実でありました。

ペンテコステの日に注がれた聖霊は、今も、私たち一人一人の心に幻を与え、進むべき道を示して下さいます。そこには、私たちの思いや計画を遥かに超えて、素晴らしい収穫が用意されています。今日の説教題は、「神から託された重荷」となっています。「重荷」という言葉は、今日の箇所には出て来ませんが、聖霊によって神様から与えられる幻、進むべき道は、「重荷」と表現することもできると思います。自分の力では到底負えないけれども、神様が自分のために用意して下さったと思える使命がそれぞれに与えられるからです。神様は私たちを愛されているがゆえに、期待と信頼をもって、その重荷を託して下さっています。聖霊は、幻を通してパウロを導かれ、素晴らしい収穫を与えられたように、私たちも日々導いて下さり、進むべき道について、進むべきでない道について、負うべき重荷について、負わなくてよい重荷について、示して下さいます。その導きに従って豊かな実を結ぶとき、神様の栄光が現わされてゆきます。