神による再建

2022年10月16日 礼拝メッセージ全文

エズラ記6章13節~22節

エズラ記は、神殿再建のストーリーについて伝えています。イスラエルの民は、バビロン捕囚に遭い、故郷を失い、神殿という礼拝の場所を失いました。しかし神様は、時が満ちた時、彼らがエルサレムの土地に帰り、神殿を再び建てるという恵みを与えてくださいました。

神様は、私たちの人生の中においても、再建を与えてくださいます。私たちも、大切な何かを失うということがあるかもしれません。また、それまで大事にしていたものが崩れ落ちるという経験をすることがあるかもしれません。イスラエルの人々は、神殿崩壊の出来事を通して正にそのようなことを経験しました。でも、エズラ記を通して教えられることは、神様は定められた時に、再建を与えてくださるということです。神様ご自身が、失われたもの、崩れ落ちたものに再生、復活の御業を起こしてくださる、そのような恵みが与えられていることを知ることができます。

1.反対の只中で

さて、今日の箇所は、そのように再建された神殿建築の最後の場面を伝えています。

13節「そこで、ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその仲間たちは、ダレイオス王が書き送ったことに従い、命令どおり実行した」

この箇所に先立つ箇所を読むと、神殿建築に至る道が決して平たんなものでなかったということが分かります。この箇所に出てくる「タテナイとシェタル・ボゼナイ」、あまり聞きなれない名前ですが、彼らはペルシアの高官たちでした。彼らは、エルサレムに神殿が建てられることに反対をしていました。神様はエルサレムに神殿を再建しようとなさいましたが、それには反対運動が起こったということを、聖書は伝えています。

5章3節「そのときには、ユーフラテス西方の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその仲間たちが彼らのもとに来て言った。『この神殿を建て、その飾りつけを完成せよ、と誰がお前たちに命令したのか』」

このペルシアの高官たちは、エルサレムに神殿を建てようとしている人々に対して「誰がそのことを命令したのか」と言いました。私たちの生きている世の中では、時に「何が正しいか」よりも「誰がそれを命令したのか」が大切にされてしまうことがあります。それは、この世で権威や権力を持っている人の言葉が、力を持つということです。

時代劇の『水戸黄門』をご存じでしょうか。その中のお決まりのラストシーンでは、黄門さまが敵の悪事を暴きます。敵は、黄門さまをただの老人だと思って、打ち殺そうとしますが、最後に徳川の御紋を見せて「このもんどころが目に入らぬか」と言うと、途端に敵たちは静まって黄門さまの前にひれ伏す訳です。この世で権威を持っている人の言葉は大きな力を持つということを示す一つの例であると思います。

エズラ記の中でも、当時の権力者である王様の言葉が大きな力を持っていたということが分かります。ペルシアの人々は、神殿建設に反対し、「誰がそれを命令したのか」と言いました。王が認めない工事は認められないということです。しかし、続く箇所を読んでいくと、王様の心が動かされ、神殿建設を認める命令が出されたことが分かります。そして今日の箇所の6章13節では、ペルシアの高官たちが「ダレイオス王が書き送ったことに従い、命令どおり実行した」と言われています。つまり彼らは、初めは神殿建設に反対していたが、王がそれを認めた途端、その命令に従い、反対運動を止めたということです。このように、この世においては、権力者の言葉が大きな力を持ちます。神様が何かをなさろうとする時、それに対してこの世は反対の言葉を投げかけます。「それは誰が命じたことか」「それは今でなくても良いのではないか」、そのような言葉が、私たちの周囲から聞こえたり、また私たち自身の中に生まれたりすることがあります。しかし神様は、人が何と言おうとも、御自身の計画を成就されるお方です。そしてそのために、神様の計画に反対する人々、権力者の心をさえ動かしてくださいます。そのように、私たちはエズラ記を通して、反対の声の只中で神様が神殿再建を成し遂げてくださったということを知ります。

 

2.御言葉によって

今日の箇所がもう一つ伝えていることは、神様が神殿建築を成し遂げるために、人々に御言葉を与えられたということです。

14節「ユダの長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて順調に建築を進めていた」

既に見たように、神殿建築に対しては、色々な反対運動が起こりました。しかし神様は、信じる人々に御言葉を与えて、励ましと力を与えられました。

ここで与えられた預言の一部、ハガイ書の御言葉を聞いてみましょう(ハガイ書1章1~11節)。

この箇所で、イスラエルの人々は「まだ神殿を再建する時は来ていない」と言っていたことが分かります。彼らは、自分の家を建て、作物を収穫し、自分たちの生活を守ることを第一に考えていました。それに対して主は、「今こそ、神殿を建てなさい」と言われました。彼らの生活に祝福がないのは、彼らが神を第一としていないからだと言われたのです。

ユダの人々は、このような預言者の言葉から励ましとチャレンジを受け取り、色々な反対や困難はあるけれども、主の神殿を建てていこうと決心してゆくことができました。そして、結果として、神殿の完成という主の御業を見てゆくことができました。そのように神様は、私たちに御言葉を与えてくださり、主のご計画を進み続けられるようにしてくださいます。神の言葉は決して変わることがないからです。先ほど見たように、王様の言葉や高官たちの言葉は、状況によって変わってゆきました。そのように、人の言葉というものは、移り変わってゆきます。もし私たちがそのような人の言葉に従う者となるなら、それによって振り回されてしまいます。しかし主の言葉は決して変わることがありません。ユダの人々のように、神様の言葉に聞き従ってゆくなら、神様のなさろうとしている再建工事の完成を見てゆくことができます。

今回私たち家族は休暇を利用して、青森県の六戸に行って来ました。以前から交流を持たせていただいている牧師夫妻が、六戸で今年の1月から開拓を始められたということで、教会を訪問させていただきました。先生は、この六戸のご出身でしたが、イエス様を信じ、献身をする決意をし、半ば勘当されるような形で秋田の教会へ出て来られました。そこで、約十二年の間教会に仕えられ、今年の初めから開拓伝道に出られることになりました。開拓の場所を祈っている中で、御自身の出身地である六戸の町を示されました。それは、創世記の中でヤコブが「あなたの故郷に帰りなさい」と主に語られた箇所から、自分も故郷に帰って福音を伝えなければならないとの思いが与えられたということでした。当初、六戸のご家族からは猛反対があったそうです。帰るべき家も、礼拝する場所もありません。しかし、ちょうどその頃、六戸で売りに出された家があったそうです。その家は、畑付きの家で、農家でなければ買うことができませんでした。すると、そのことを人づてに聞いた、農家である先生のお父様が、自分がその家を買うからそれを借りる形であなた方が住んだら良いと提案をされたそうです。そのように、お父様の心が動かされたことは、奇跡であると思いました。現在、その家を大幅に改装し、十字架と看板を掲げて毎週礼拝をささげておられます。そしてその礼拝には、お母様が毎週出席されています。そのことをお聞きしたとき、それはただ教会堂が建てられたということだけでなく、家族の救いと再生、そしてその地域の人々の救いが今まさに進もうとしているという主の御業を見せていただいたように感じました。

神様が、私たちの人生を通して計画されていることを始めようとされる時、そこには反対が起こります。しかし、神様の御言葉を通して与えられる約束を信じる時、私たちはその計画が、神様の御自身の力によって成就されてゆくということを見てゆくことができます。

 

3.喜び祝う者となる

今日の箇所は、そのように神殿の再建を成し遂げた人々が、そのことを喜び祝う者とされていったということを伝えています。今日の箇所だけで、「喜び」という言葉が三回繰り返されています。神様が、このエルサレムの土地に神殿を建ててくださったのは、ただ神殿という建物を建てることが目的ではなく、人々の心に主を礼拝することへの喜びがもう一度沸き上がってくることのためでした。

神様は、私たちの人生の中で、失われたもの、崩れ落ちたものをもう一度建て直してくださるという御業を成し遂げてくださいます。私たちはそのことを経験するとき、主を喜び祝う者へと変えられます。私たちが毎週、この日曜日に主を礼拝するのも、そのような神様の御業を喜び祝うことのためです。イエス・キリストが十字架にかかられて、三日目に復活をされたこの日曜日に、このイエス様が私たちの人生にも、復活と再生を与えてくださるということを信じて、私たちは喜びをもって礼拝をささげています。

神様は、私たちの人生の中で、何を再建されようとなさっているでしょうか。神様は私たちの一人一人を愛しておられ、私たちの人生を通して神様の栄光が現わされるように、一つ一つのことを整え、建て直していってくださいます。そのことを経験するとき、私たちの心は主への感謝と喜びで満たされます。