神のデザインに生きる

2021年9月26日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 43章1~12節

この夏のエゼキエル書からのメッセージは今日で最後となります。8月から続けてエゼキエル書を読んできましたが、そこから皆さんと一緒に多くのことを学ばせていただきました。今日の箇所は、43章1~12節ですが、40章から最後の48章までは、エゼキエルが主から示された最後の幻、新しい神殿の幻について伝えています。

 

1.新しい神殿のデザイン

40章1節「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った」

エゼキエルは、バビロンの地で捕囚として暮らすイスラエルの民の中にあって、二十五年もの歳月が経過していたということです。これは本当に長い期間であったと思います。その期間の途中、都エルサレムが破壊され、さらに十四年が過ぎていたということです。異国の地で故郷と神殿を失い、イスラエルの人々の多くは失望とあきらめの中を生きていたのではないかと思います。

しかし正にその時に、主はエゼキエルに新しい幻を与えられました。それは、新しく建てられる神殿の幻であり、この神殿によってイスラエルの民が再び神の栄光を仰ぐようになるという約束を与えるものでした。この神殿がどのようなものであるか、40章からの箇所に事細かに記されています。それは、まるで設計図面であるかのように非常に細かく、私たちは読んでいるだけでは中々全体のイメージが湧かないかもしれません。

実際、エゼキエルは、この神殿の全貌をイスラエルの人々に伝えるために、これを視覚化したようです。今日の箇所の43章10節には「神殿のあるべき姿」という言葉があります。これは、新改訳では神殿の「模型」と訳されています。人々が実際に神殿の全体像を見ることができるようにした、ということであると思います。さらに11節には、「神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせなさい。それを彼らの目の前で書き記し、そのすべての計画と掟に従って施工させなさい」と書かれています。ここで主はエゼキエルに、神殿の全体の図面を書き記し、その通りに施行させなさいと言われています。ここには「計画」という言葉が繰り返されています。この言葉は原文では、全体の「形」という意味の言葉であり、これを英語訳では、「デザイン」と訳しています。神様が神殿をどのようにデザインされたのか、そのことを、神様はエゼキエルを通して人々に示されたということです。私たちは、この前後に記されている神殿についてのあまりに詳細な描写を読むと、全体が良く分からなくなってしまいそうですが、神様が示されたデザインの全体の意図を読み取ることが大切であると思います。

それでは、神様の持っておられたデザインの意図とは何であったのでしょうか。

12節「以下は山の頂の神殿に関する律法である。周囲を区切られたこの領域はすべて最も神聖である。見よ、これが神殿に関する律法である」

この箇所は原文では、「これが神殿に関する律法である」と二回繰り返しています。それほど、このことが神殿を建てるにあたって大切だったということです。それは、「周囲を区切られたこの領域はすべて最も神聖である」ということでありました。

「神聖」とはどういう意味でしょうか。それは、この箇所で言われているように、周囲から区切られている、区別されているということを指します。聖書で、「神聖な」とか「聖なる」とか言われる場合、それは、場所や、物や、人が、神のために取り分けられた存在であるということを意味しています。これを「聖別する」とも言います。神殿とは、最も神聖な存在として、主なる神様のために特別に取り分けられた場所でなければならないということです。これこそが、新しい神殿のデザインの全体を流れている主の御心であると言えます。ここに記されている神殿の構造の一つ一つは、意味なく並べられているのではなく、神様が聖なる方であるということを示すべく、聖なる空間として、配置されています。そして、このエゼキエル書を最後まで続けて読んでいくと分かることは、この神殿で使われる道具も、そこで働く人も、そして人々がそこに入ることのできる時間も、すべて神様のために特別なものとしてささげられているということです。

このことは、神様がこの世界を造られたその初めの時から貫かれている、神のデザインの原理を示しています。創世記で、神様が初めの人であるアダムを造られた時、彼はエデンの園という場所に置かれました。そこには、あらゆる食べ物を実らせる木がありましたが、園の中央に神によって置かれたもの、それは、命の木と善悪の知識の木と呼ばれるものでした。神様はアダムに、園にある木からは何でも食べてよいが、善悪の知識の木からは決して食べてはならないと命じられました。それは、これが神の領域であって、人間が越えてはならない境界線であったということです。そのように神様は、人間が神様の支配と摂理の下で生きる時に神の栄光を現わすことができるようにされました。ところが、蛇がやって来て、この善悪の知識の木の実を食べれば神のように善悪を知る者となれるのだと、人間を唆しました。これは、神のようになろうと人間を誘うサタンの誘惑でありました。人間はその誘惑に負けて、善悪の木の実を食べてしまいました。それは、聖なる神の領域を犯すという罪であり、罪ある存在である人間は、エデンの園から追放され、神様との関係が遮断されてしまうということが起こりました。

 

2.神の領域を汚した人間の罪

そのように、聖書が伝える罪とは、神の領域を汚すということです。創世記以来の人間の歴史とは、そのような罪の歴史であったと言えます。イスラエルの民の犯した罪も、そのように神の領域を汚すということでした。今日の箇所の7節~8節は、そのようなイスラエルの民の罪の状態を伝えています。

7節「彼はわたしに言った。『人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない』

主は、「ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である」と言われています。つまり、神殿は、主が王として支配される場所であるということです。そしてこの場所に、主は「とこしえに住む」と言われています。そのように、王である主のために用意された特別な場所において、イスラエルの民は何を行っていたでしょうか。それは、「淫行」と「死体」によって、主の聖なる名を汚すということでした。淫行とは、異なる神々を慕い求めてしまうということです。これは、先月読んだエゼキエル書8章の幻を通して示されたことでもありました。人々は神殿の中に様々な偶像を置き、異なる神々や太陽を拝んでいました。そしてさらに、この箇所で「死体によって」と言われているのは、王たちの遺体が、神殿の中かその近くに埋葬され、崇拝されていたということであると思われます。そのような死者崇拝まで、神殿で行われていたということです。これらのことが表していることは、イスラエルの民の中に、主のみを神として礼拝するということ、つまり、主を神聖な方として聖別するということへの意識が欠けていたということです。

「彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった(8節)」

これが、具体的にどのような事実を指しているのかははっきり分かりませんが、神殿の敷居とは、主なる神様が出入りする重要な場所です。そのように、主なる神様のために聖別されるべき場所のすぐそばに、彼らは自分が住むために必要な構築物を建てたということです。「わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった」、これは、神様のために聖別されるべき場所が、彼らにとってありふれた場所のようになってしまっていたということであると思います。これらの行いによって、イスラエルの民は主の聖なる名を汚すことになり、主の怒りを受け、バビロンに滅ぼされるということが起こってしまいました。

このようなイスラエルの民の犯した罪を見る時に、私たちは、それらが自分の日々犯している罪であるかもしれないと振り返る必要があると思います。私は、本当に主を聖なる方として、聖別しているだろうか、そのように自分に問いかけるとき、様々な自分の罪が見えてきます。私は直接偶像を拝んだりはしていないかもしれません。しかし、主以外に頼っているものがあるのではないだろうか。そのように思います。それはもしかしたら自分の力かもしれません。神様を礼拝しながらも、神様ではなく、自分の力に頼ろうとしている、そのような自分の姿が見えてきます。これは、先ほどの創世記の箇所で、蛇が人間に囁いた誘惑の声に似ています。私たちは、神様抜きで自分の力で、立派な存在になり人生の目的を達成することができる、そのような誘惑を、サタンはいつも私たちの心に送り込んできます。私たちはこのことを覚えながら、信仰生活を送っていく必要があると思います。

 

3.神のデザインに生きる

しかし私たちは、自分の力で、そのような罪から逃れることはできません。イスラエルの民が犯した罪も、私が日々犯す罪も、人間が神様によって本来造られたデザインから離れてしまったということを示しています。そのデザインとは、主なる神様のみを聖なる方として、このお方に栄光を帰していくという生き方です。人はだれも、自分の力で、そのような本来のデザインを取り戻すことはできません。そのことを成し遂げて下さったのは、主イエス・キリストです。イエス様は、神の御子でありながら、すべての人間のために命を捨ててくださいました。それは、神の領域を汚してしまった私たちすべての者を、神の子どもとするためでした。このような驚くべき恵みによって、私たちは神の栄光を現わす者と作り変えられています。

今日の箇所は、そのように、主を聖なる方とあがめる私たちの上に、神の栄光が照らされるという出来事を伝えています。この栄光は、一度は神殿から離れ去ってゆきました。エゼキエル書の10~11章を読むと、神の栄光が、ケルビムと共に、罪を犯したイスラエルの民から、エルサレムの神殿の東の門から出て離れていったと記されています。しかし、神の栄光は永遠にイスラエルの民から離れていったわけではありませんでした。神殿が本当に聖なる場所として建てられる時、神の栄光は戻って来て、神殿の中に入り、その中を満たすということ、その約束を、エゼキエルは神の幻を通して語っています。それは、私たち一人一人に対する、神様の約束でもあります。主は、私たちが主のみを聖なる方としてあがめるという私たちの造られた本来のデザインに立ち帰るなら、豊かに神の栄光を輝かせる者として下さいます。そのような者として、主は私たちの一人一人を用いようとされているのです。

エフェソの信徒への手紙2章10節「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」

ここでパウロは、「わたしたちは神に造られたものであり」と書いています。この箇所は新改訳聖書では「神の作品」と訳されています。私たちは、神様によってデザインされた、素晴らしい作品であるということです。私たちは作品である訳ですから、自分で自分を高めることも、何か他の存在に頼って生きる必要もありません。ただイエス様の恵みに頼り、このお方に従ってゆくこと、そのような本来の神のデザインに生きてゆくなら、私たちの一人一人も、私たちの教会も、ますます豊かに神の栄光を現わすものとなっていくでしょう。