神の前に生きる

2022年5月15日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録 22章30節~23章11節

1.良心に従って神の前に生きる

 

1節「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました』」

聖書は「良心」というものがあるということを伝えています。この言葉は、聖書以外でも広く使われる言葉ですが、聖書の伝える「良心」とはどのようなものでしょうか。それは、私たちを神様の前で生きるように促すもの、ということができます。神様は、私たちの一人一人に良心というものを与えて、神様に従って生きることができるようにしてくださいました。でも私たちは、本当の神様を知らなければ、このような良心の本来の働きを見ることができません。私たちはよく、「良心の呵責」と言ったりします。何か悪いことをしようとしたら、「それをしてはいけないんだ」という良心のとがめを感じるということですね。このように、神様を知らなければ、良心は私たちをとがめ、罪の意識を与えるだけのものです。なぜそのようになってしまったかというと、すべての人間が罪を犯す者となったからです。創世記の初めには、アダムとイブという最初の人間が、罪を犯したことが書かれています。その時の様子を見ると、最初の罪を犯した彼らが、既に良心のとがめを感じていることが分かります。

創世記3章8節「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」

この二人の人は神様と親しく交わって生きてきました。しかし、この時は神様が歩いて来られる音を聞くと、園の木の間に隠れてしまいました。それは罪を犯してしまった彼らが、「あなたがたは罪を犯した」「神の前から隠れなければならない」と良心のとがめる声を聞いたからではないかと思います。このように良心は、私たちが神様の御前に立ちえない者であることをとがめるものとなってしまいました。それは現在でも同じと思います。私たちの心の中にある良心というものは、何が善いことで何が悪いことかを伝えますが、その善いことを私たちは自分の力では行えない者です。良心は、そのような私たちをとがめ、神様の愛から遠ざけているという現実があります。

しかし私たちには、救いのニュースがあります。それは、私たちがイエス様の十字架によって、全く無条件で罪を赦される者となったということです。そして、そのことを信じる時に、私たちの内にある良心というものは、私たちを神様から遠ざけるのではなくて、むしろ神様に近づこうとする心に変えられてゆきます。

ヘブライ人への手紙10章22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」

イエス様を信じて、私たちが心に聖霊をいただく時、私たちの心の内には、「良心のとがめ」はなくなってゆく、そして私たちは「真心から神に近づこう」とする者と変えられてゆくということです。アダムとイブが、腰にいちじくの葉っぱをつけて、神様の前から隠れたようにではなく、私たちはむしろ、良心に導かれて、自分のすべてを赦し受け入れ、愛して下さる神様の御前に、進み出てゆく者となるということです。

パウロが今日の箇所で、「良心に従って神の前で生きてきました」というのは、そういう意味で言われている言葉です。これは、自分はこれまで何の罪も犯さず、清い心で生きてきたということを言っているのではありません。むしろパウロは聖書の別の箇所で、「わたしは罪人のかしらです」と言っています。そのように、最も罪深い者でありながらも、イエス様の恵みによって神様に赦され、導かれている者であるということを信じて、これまで生きてきたということです。このように、私たちも、イエス様を信じて神様が私の罪を赦して下さるということを信じるとき、この良心の導きに従って、神様の示される道を歩んでいくことができます。人間の考えやこの世の論理に従って生きてゆくのではなく、神様の導きに従って、神の前に生きるという人生には、大きな自由があります。何物も、誰も、その人を縛ることができないからです。

 

2.神の前に自由に生きる

ところが、今日の箇所に登場する、最高法院の議員たちの姿はどうでしょうか。そこには、良心に従って神の前に自由に生きるパウロとは対照的に、人間の考えや制度に縛られた人々の姿が映し出されています。そもそも彼らは、パウロの何を訴えようとしていたのでしょうか。少し前の箇所を振り返ってみます。

21章28節「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」

つまりパウロは、神殿と律法を軽視したという疑いで、捕らえられ、殺されそうになっていたということです。これは、パウロだけでなく、初期のクリスチャンたちの多くが迫害を受けた理由でした。ステファノもまた、同じような疑いをかけられ、訴えられ、殉教をしてゆくことになりました。そしてさらに振り返れば、イエス様ご自身がこのような疑いをかけられたのでした。イエス様は、神殿を軽んじ、律法を破るように教えているとしてユダヤ人たちから訴えられ、そして最終的には十字架にかかられてゆきました。しかし、この当時、ユダヤ人たちは、本当に神殿を聖なる場所とし、神の律法を守っていたのでしょうか。実際のところ、彼らが神殿で礼拝していたのも、律法を守っていたのも、神に従い、神の前に生きることのためではありませんでした。彼らの姿を見るならば、それらすべては、人間の造った伝統や教えを守ることのためであったということが分かります。パウロも、ステファノも、そしてイエス様も、神殿や律法を廃止することを説いたのではありませんでした。ただ、人々の心が神様に向いていないという罪の現実を示したのでした。

今日の箇所を見ると、人々がそのように、神様に従うことよりも、この世の物事に従うことを求めていたということが分かります。特にこの箇所では、人に従おうとしている姿が見られます。2節から、大祭司アナニアという人物が出てきます。この大祭司とは、イスラエルの民のためにいけにえをささげ、罪の赦しを神に執り成す存在でありました。しかし、この当時、そのような霊的指導者としての大祭司の役割は形だけのものとなっており、ただ人々の前で権威を振るう存在となってしまっていました。パウロはそのような大祭司に対して、厳しい批判の言葉を浴びせていますが、それに対して周りの人々は「神の大祭司をののしる気か」と言ったということです。ここで大祭司は、パウロの弁明を聞き始めてすぐに、パウロの口を打て、と理不尽な暴力を命じています。人々は、そのような大祭司であっても、大祭司であるということだけで、彼に従っています。それは、人々が、神様ではなく、ただ上に立つ人々に従おうとしていた姿勢を表しています。これは、イエス様が大祭司の取り調べを受けた時も、同じようなことがありました。この取り調べの時に、イエス様は「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って平手で打たれた、と書かれています(ヨハネ18:22)。これらの様子というのは、当時の人々が、大祭司や霊的指導者を通して、神様の御心を聞くのではなく、ただ人に対して、盲目的に従うようになってしまっていたということを表しています。そして、このような危険は、現代でも起こり得ることであると思います。もし私たちの心が、神様に対してでなく、人間に向かっているならば、私たちは何か問題が起こると、簡単につまずき、神様から離れていってしまいます。私も今牧師として、このように御言葉を取り継ぐという働きをさせていただいています。本当に皆さんのお祈りがあってこそ、神様の言葉を語ることができていることに感謝します。でも、これは私に限らないことですが、語る牧師を通して、神様が何を語っておられるのかを聞くということ、これがとても大切なことであると思います。言い換えれば、私たち一人一人が、信仰の良心を持って、神様の御言葉を聞いてゆくということです。そして、その時に語られた御言葉を通して、神様が自分に対して何を語っておられるのかを求めてゆくということです。そのようにして、私たちは、どんな時にも、御言葉に導かれて、神の前に生きる者とされることができます。

 

3.神の前に兄弟姉妹と生きる

そして、そのように私たちの一人一人が神様の前に生きていないと何が起こるのでしょうか。そこには争いが生まれてきます。このことを今日の箇所は伝えています。

6節以降を読むと、パウロが「死者の復活」というテーマを持ち出すことによって、この最高法院が分裂してしまったということが書かれています。そもそも、彼らが集まったのは、このような教えについての論争を行うためではありませんでした。彼らは、パウロがどのような疑いをかけられ、それが正しいのかどうか検証するために集められたのでした。しかし、結果的にはその目的は果たされず、最高法院は分裂してしまいました。それは、一人一人が、神様の前に生きていなかったということの結果であると言えると思います。

現代の教会の中にも、色々な聖書の解釈が存在しています。世界中に、様々な教派、様々な神学的な立場があります。神様は、そのように私たち人間を、多様性をもって造って下さいました。大事なことは、私たちの一人一人が、神様から示された道を歩むということです。そして、自分の進む道を神様から示されたという確信があれば、私たちはある程度の寛容さを持って、他の人に接することができるようになってゆきます。もちろん、明らかな誤りや妥協できない点もあると思います。しかし、私たちのそれぞれが、神様の前で、自分に示された道を歩んでゆく時に、私たちはお互いに受け入れ合うことのできる者となると信じます。

この時の最高法院の議員たちのように、自分の信じるものを、神様の教えというよりも「自分の教え」にしてしまう時、私たちは目の前の兄弟姉妹を愛するよりも、違う意見の相手を打ち負かすことに躍起になってしまいます。結果として、この最高法院は分裂をしてしまいました。やはり私たちは、神様の前に生きてゆく時に、このことを覚える必要があります。それは、神の前に生きるということは、兄弟姉妹と共に生きるということでもあるということです。

今日の箇所の初めの1節に「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った」とあります。ここで、ただ「見た」のではなく、「見つめた」と書かれています。これを原文で読むと、やはり「熱心に見る」「注意して見る」という意味の言葉が使われています。パウロは、自分を裁くために集められた議員たちを敵としてではなく、あくまで「兄弟」として見つめ、語ったということです。それは彼が主なる神様の前に、確信を持って生きていたからです。

私たちも、何か心に隠していることや、わだかまりがある時、目の前の人をしっかりと見つめることができないということがないでしょうか。でも、私たちが神の前に生き、罪人である自分の姿を認める時、そして、そのような自分を赦して下さるイエス様の恵みを覚える時、私たちは、自分の前に立つ人を、兄弟姉妹として、しっかりと見つめることができるようにされてゆきます。

 

私たちが神の前で生きる時、私たちは孤独なようでいて、決して一人ではありません。それは、主と共に、そして主にある兄弟姉妹と共に生きるということだからです。そして、私たちはそのように兄弟姉妹と共に生きながらも、決して人に流されることもありません。それぞれが良心に従って、主の導かれる道を進んでゆくことができるからです。主は、神の前で生きるパウロに対して、このことを繰り返し示されました。

11節「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。

パウロのように、私たちもこの世の中で様々な迫害や苦しみを経験してゆくことがあります。しかし、そのような中にあっても、神の前に生きることを決断し続ける時、神様はこのような御言葉をもって、私たちを繰り返し励まし、導いて下さいます。今日も私たちは、「勇気を出せ」「わたしがあなたと共にいる」そう語られる神様を礼拝しながら、神の前に生きる一人一人でありたいと願います。