神の国の拡大

2021年5月9日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録 11章19~26節

 

使徒言行録は、聖霊によって、御言葉が全世界に広がっていったということを伝えています。

 

 

 

使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

 

この御言葉は、使徒言行録の全体を貫いているテーマです。今日の箇所の19節を見ると、そこに色々な地名が出てきています。フェニキアとは、現在のレバノンという国の辺りです。キプロスは、今も存在する国で、地中海に浮かぶ小さな島です。そしてアンティオキア、これは今でいうとシリアにある町です。このアンティオキアは、当時のローマ帝国の三大都市の一つとされた、大きな町でした。このようなそれぞれの国と町に、福音が伝えられてゆきました。

しかし19節の後半を見ると、初めは、彼らと同じユダヤ人にだけ、福音が伝えられたということです。当時、ユダヤ人は世界中に散らばって生活していました。彼らはその国々の生活に溶け込み、多くのユダヤ人は、当時の共通言語であるギリシャ語を話すようになっていました。ギリシャ語は、ローマ帝国全域で、広く話される言葉でした。それは、ローマ帝国の前に、この地域一帯を支配していたギリシャ帝国が、とても強い影響力を持っていたからです。このギリシャの文化は、ヘレニズム文化と呼ばれています。その影響は、言葉だけでなく、数学や哲学、芸術など多岐にわたっていました。

そのような背景から、旧約聖書も、ギリシャ語に翻訳され、世界各国で読まれていました。そして後に新約聖書は、このギリシャ語で執筆されました。それは、より多くの人に御言葉が伝えられるためでした。歴史の中で、神様はそのように福音がより広く伝えられるような舞台を備えていて下さったことを覚えます。

それで、エルサレムから散らされていった人々の中のある人々は、ギリシャ語で、ユダヤ人以外の人々にも福音を宣べ伝えていったということです。

 

20節「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」

 

ここで「ギリシ語を話す人々」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「ヘレニスト」という言葉になっています。これは、先ほどの「ヘレニズム」から来ている言葉です。ギリシャ語を話したり、ギリシャ文化に影響を受けたりした人々、そういう人々がこの地域にはたくさんいたということです。そのような人々に、ギリシャ語の分かるユダヤ人は、ギリシャ語で福音を伝えてゆきました。これは、とても画期的なことであったと私は思います。

ギリシャ語とユダヤ人の話すヘブライ語を並べて見ると、この二つは、全く違う言語であることが分かります。例えば、ギリシャ語は日本語や英語と同じように、左から右に書きますが、ヘブライ語は右から左に書きます。文字も文法も、全く違います。そのように、全く違う言語、全く違う文化が、イエス様の福音によって一つとされた、ここには大きな神様のお働きがあったということが言えます。それは、使徒言行録1章8節が伝えているように、聖霊の力のなせる業でした。聖霊は、言語や文化など、人々の間に存在するあらゆる垣根を壊しながら、福音を全世界へと届けてゆきました。

天から聖霊が注がれたペンテコステの時、何が起こったでしょうか。同じガリラヤ出身の人々が、一斉に異なる言葉で話し出しました。それは神様が、世界中のあらゆる言語を用いて、異なる人々に伝道していくことを望まれたということの現われでもあります。神様はそのようにして、世界中に神の国の拡大を成し遂げて下さり、今日私たちも、日本語で聖書の御言葉を聞くことができることに感謝します。

使徒言行録は、このような神の国の拡大に用いられた弟子たちのことを記し、私たち一人一人もまた、そのような者の一人であるということを伝えています。

今日の箇所に登場するバルナバという人物も、神の国の拡大のために、大いに用いられた人でした。

 

22節「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した」

 

バルナバは元々、キプロス島の出身でした。ですから、アンティオキアで伝道をしていた人々と同じような立場であったと言えます。彼もまた、ギリシャ語を話す、ヘレニストの一人でありました。それで、アンティオキアで、キプロス島や各国から来た人々がヘレニストの異邦人に伝道し、人々が救われているといううわさが聞こえてきたとき、エルサレムの教会はバルナバを派遣することを決めました。このバルナバについては、以下のように書かれています。

 

24節「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである」

 

実はこの同じ表現が、使徒言行録に出てくる別の人物にも使われています。それは、ステファノです。ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ(使徒6:5)」と紹介されています。このステファノも、バルナバと同じように、ヘレニスト、ギリシャ語を話す人々の一人であったと思われます。彼は、自分と同じヘレニストのやもめたちが軽んじられているという問題の解決のために使徒たちから選ばれて、素晴らしい働きをしました。しかしステファノは同胞たちから妬みを受け、石打ちの刑で殺されることになってしまいました。使徒言行録7章には、ステファノが死の直前に行った説教が伝えられています。それを読むと、彼は、人間の基準や伝統を超える神様の導きを信じ続けた人であったことが分かります。そして彼は、その神の導きに逆らい続けるイスラエルの民の罪を、正面から指摘し、それがゆえに殉教の死を遂げました。

ステファノが語ったように、神様の導きは、いつも私たち人間の想像をはるかに超える偉大なものです。しかし、頑なでそれを受け入れることのできない私たち人間は、イエス様を十字架にかけ、殺しました。そしてこのステファノをも、殺してしまいました。

バルナバは、このようなステファノのスピリットを引き継いで、宣教を行った人であると言えます。バルナバは、人間の目に見えるところによらず、神の目に何が正しいことかをいつも祈り求めていた人でした。それは、彼がサウロを自分の助け手として選んだことに示されています。

 

25~26節「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」

 

サウロは、ステファノ殺害の首謀者の一人でした。そのような人を、バルナバが助け手として選んだことは驚きです。多くの人々は、サウロがイエス様を信じ、福音を伝える者になったとき、彼のことを恐れて、受け入れませんでした。ただ一人、バルナバだけが、サウロのことを受け入れて、弟子たちのもとに彼を連れていって、彼が宣教活動に加われるように取り計らったのです。そして、出身地であるタルソスに戻っていたサウロをはるばる探しに行き、アンティオキアに連れて帰りました。それは、バルナバが、サウロにしかできない働きがあることを確信していたからです。バルナバは、迫害者から伝道者へ、180度変えられたサウロのことを見て、彼が異邦人の救いのために用いられる器であると信じました。

私たちがどこで生まれ、どのように育ったか、そして、どんな言葉を話すか、これは決して偶然ではありません。それらのこと一つ一つの中に、神様のご計画があります。神様はすべてのことを益とされ、私たちの一人一人を選び、神の国の拡大のために用いようとしておられます。

そして最後に、神の国の拡大とは、私たちの周りで起こることだけでなく、私たち自身の中で起こることでもあります。

 

26節後半「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」

 

この「キリスト者」という言葉は、原文のギリシャ語では「クリスティアノス」という言葉で、「キリストに従う者」という意味です。それは、クリスチャン同士が呼び合う言葉としてではなく、ギリシャ語を話す未信者の人々がクリスチャンを呼ぶ時の言葉でした。ギリシャ語による旧約聖書の普及により、「キリスト」という言葉は、当時の人々の間では良く知られた言葉となっていました。それで、彼らは「キリスト者」の名をもって呼ばれるようになりました。それまでは、イエス様を信じる人々に対する定着した呼び名がありませんでした。イエス様を信じても、ギリシャ人はギリシャ人、ユダヤ人はユダヤ人のままでした。しかし、キリストにあって、全ての国民が一つであるということが、ここアンティオキアで実証されることになりました。それはつまり、キリストに従う者としての自分が、出身地や話す言語などよりも大切なアイデンティティになったということです。

これは、イエス様を信じる時、私たち自身の中で起こっていくことでもあります。イエス様を信じて、バプテスマを受けて、初めの内は、クリスチャンとしての自分と、普段の生活の自分が、二つに分かれてしまっていることがあるかもしれません。私自身、そうでした。会社員の時にバプテスマを受けましたが、平日の職場での自分と日曜日の教会での自分があまりにかけ離れていました。しかしこのようなことは、私に限らず、私たちが自分の力でどうにかできることではありません。私たちの内で生きておられる聖霊に自分自身をゆだねる時、神様は私たちのクリスチャンとしてのアイデンティティ、その存在感を増し加えて下さいます。

それは素晴らしい恵みでありますが、クリスチャンとしての存在感が増してゆくがゆえに、私たちはキリスト者としての戦いも経験してゆきます。「キリスト者」という言葉が使われている新約聖書の箇所は、この箇所を含めて3つしかないのですが、その内の一つが、次の御言葉です。

 

Ⅰペトロ4:16「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」

 

「キリスト者」であるということは、苦しみを受けることでもあるとペトロは語りました。私たちも、キリスト者としての存在感が拡大してゆくがゆえに、周囲との対立を経験することがあります。それは、家族や、友人や会社の同僚との間の摩擦かもしれません。もちろん、自分の過ちや失敗によって、人々との間に対立を招くこともあります。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、それを恥じてはならない、むしろ喜びなさいと主は言われました。それは、私たちの中で、神の国が拡大していることの証であるからです。

神様は、私たちの一人一人を、神の国の拡大のために用いようとされています。そのため、神様は、福音という種を、私たち一人一人の心に蒔き、それを日々、成長させて下さいます。その種が豊かな実を結ぶ時、神の御国は私たちの只中で拡大しています。さらに、それは私たちの身の回りから、私たちの住む地域、国、世界へと、拡大されてゆきます。そのようにして、神の国はこれまでも世界中で拡大されてきましたし、そしてこれからも、拡大され続け、神様の栄光が現わされてゆきます。