神の時を見上げる

 

2020年10月11日 礼拝メッセージ全文

コヘレトの言葉 3章1~17節

 

皆さんはどのような「時」を過ごしておられるでしょうか。私はというと、このところかなりバタバタした時を過ごしているように思います。先週は、息子が透明なシールのようなものを誤って飲み込んでしまい、一家騒然となりました。結局、病院を二軒回った末、何とか飲み込んだものを取り出すことができました。そして今週は、週明けから息子が風邪で発熱し、一時は39℃以上まで熱が出てしまいましたが、何とか癒されて今日を迎えています。子育ての先輩方から話を聞くと、このようなことは珍しいことではないということなので、これから先もきっと色々なハプニングを経験していくのだと思います。そのように、子育ての中では、いつ何が起こるか分からない、ということを思い知らされました。時は、自分の思い通りにはならないものだ、ということを実感しています。

 

1.二種類の「時」

さて、今日の聖書箇所のコヘレトの言葉3章は、「時」について語っている箇所です。

 

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある(1節)」

 

この節には、「時」という言葉が二回出てきていますが、原文のヘブライ語ではそれぞれに違った単語が使われています。

まず一つ目の「時」ですが、これは「一定の時間」「時期」「季節」という意味の言葉です。例えば、この日曜日の午前11時10分から12時までは、水戸教会の礼拝の時間です。この時間というのは、私たちがどのようにその時間を過ごそうと、決まっているもの、変わることのないものです。「何事にも時がある」ということの意味は、私たちの人生の中のあらゆる出来事は、そのような時間の中で動いている、ということを意味しています。この一つ目の「時」は、ギリシャ語では「クロノス」という言葉です。この言葉は、色々な言葉の語源になっていて、例えば、時計が好きな方はクロノグラフというものを知っているかもしれません。ストップウォッチのように時間を計る機能がついた腕時計のことをクロノグラフといいます。そしてこの「クロノ」が、「クロノス」から来ています。

それに対して、二つ目の「時」は、「最適な時」「潮時」といった意味の言葉です。新共同訳では「定められた時」と訳されていますが、これは「神様によって定められた時」と言うことができるでしょう。先ほどの例で言えば、今日、日曜日の11時10分から12時までは、ある人にとっては、いつも通りの礼拝の時間であるかもしれません。しかしある人にとっては、神様と出会う特別な時、神様がその人のために定めて下さった特別な時であるかもしれません。そのように神様は、私たち一人一人のために、「時」を定めておられます。「天の下の出来事」とあるように、私たち人間は天の下で、この地上で、目に見える出来事を経験します。しかしその出来事は、偶然に起こっているのではなく、神様によって定められた時に従って起こっているということです。そしてこの二つ目の時は、ギリシャ語で「カイロス」という言葉です。

 

2.すべての出来事は神の時に従って起こる

2節から8節までは、そのような、「天の下の出来事」を具体的に伝えています。その一つ一つの時、これは神様の時、カイロスであるということが伝えられています。それはつまり、一つ一つの出来事は、神の時に従って起こるのであり、私たちの行いの結果起こるのではないということです。このことを一番実感するのは、初めに挙げられている、「生まれる時、死ぬ時」ではないでしょうか。いつ生まれてくるかを自分で決めて母親の胎内から出てくる人はいないですよね。また、一人の人が死ぬ時というのも、誰かが予め知ることのできることではありません。この地上に一人の人間が生まれるということ、そしてその人が死ぬということ、それは、神様とは無関係にただこの地上に起こった出来事ではなく、神様が一人一人のために定められた時に従って起こることです。

人の一生には、生き死にのように「神様の時」を感じやすい時もありますが、そうではない日常的な時もあります。例えば二番目の「植える時、植えたものを抜く時」はどうでしょうか。作物を育てる人は、苗を植えて、時期が来れば、その収穫をします。農家の人にとっては、それは日常のことで、特別なことではないかもしれません。しかし、毎年当たり前のように来る田植えの時期も、稲刈りの時期も、神様の摂理の中で与えられている時です。これは、目に見える作物を植える時に限りません。私たちが何か新しい事業を始めるにしても、また、新たな教会を開拓するにしても、そして誰かの心に福音という御言葉の種を蒔くにしても、そのそれぞれの時は、神様によって定められた時です。そしてそのように植えられたものが実を結び、収穫を行う時が来ます。それもまた、神様によって定められた時です。

さらに、人生の時の中では、「神様の時があるなんて到底信じられない」という時もあります。3節から4節にかけて、「殺す時」「破壊する時」「泣く時」「嘆く時」と、ネガティブな響きを持つ言葉が並んでいます。「殺す時」という時、戦争の中で相手を殺すようなことが想定されていたと思います。しかしこれは、現代の私たちに無関係なことではありません。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです(Ⅰヨハネ3:15)」と聖書にある通りです。「癒す」ということの反対の意味で、「殺す」ということを、私たちは日常生活の中で行ってしまう者です。同じように、私たちの時の中には、「破壊する時」もあります。私たちは、人を、物を、又ある時は自分自身を、暴力をもって、言葉をもって、破壊してしまう者です。そのようにして私たちはある時は加害者となり、ある時は被害者となります。しかし、そのような時さえ、神様の時であるということを、今日の聖書箇所は伝えています。これは一体どういうことなのでしょうか。

 

3.神の時は美しい

11節の御言葉は、新改訳聖書で次のようになっています。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

ここでも、「時」という言葉が使われています。この「時」は、これまで繰り返されてきた、神様の時、カイロスとしての時です。この神様の時を通して見るならば、すべてのことが「美しい」と言われています。パズルのピースがピッタリと合うように、すべての出来事は、神様の目から見ると、美しい一枚の絵を形作っているようなものだと言えます。一つ一つの出来事、その事が起こる時は、その中の一つのピースを表しています。しかし、人間の目には、そのピースがどのように合うのかが分かりません。どうしてこんなことが自分に起こるのか、分からずに悩み苦しむものです。

ここで自分の一つの体験を紹介したいと思います。私は神学生の時アメリカのロサンゼルスの近くにいたのですが、ある時、それまで行っていた教会を離れざるを得ない状況になりました。その教会での最後の礼拝を終えた日曜日の夜、これから自分はどうなるのだろうか、と考えていました。するとその夜、自分の携帯に電話が入りました。実はその翌日、妻が運転免許の取得のために、試験を受けることになっていました。電話は、そのために車を貸して下さるはずの方からでした。なんと車が急に故障して、明日は行けなくなってしまったとのことでした。その代わりに、自分の知り合いを紹介するから、明日はその人と一緒に行ってくれ、ということでした。私たちは突然のことで驚き戸惑いましたが、翌朝、言われた通り、指定された場所で、その方と待ち合わせをしました。会ってみると、その方は日系アメリカ人で、日本語はできないのですが、クリスチャンでした。そして、その方の車で妻が試験を受けている間、待合室で何時間も信仰について熱く語り合うことができました。彼の話では、まもなくシアトルの方へ引っ越すから、どこか良い教会を教えてくれないか、ということでした。そこで私は彼に、自分の知っているシアトルの近くの日系教会を紹介しました。妻の試験が無事に終わって帰宅した後、私はその教会の先生にメールで、もし彼がそちらに行ったらよろしく頼みます、と伝えました。するとその返信で、良ければあなたたちもしばらく、こちらで教会生活を送ってみないか、との話がありました。私たちはそれが主の導きであると信じて、3か月の間、その教会に住みながら、奉仕をさせていただくことになりました。

神様のなさることは本当に不思議であると思います。もし、あの夜、車の故障が起こらなかったら、一人の信仰の友と出会うことはありませんでした。また彼と出会わなければ、新たな教会での奉仕の道は開かれなかったと思います。そのように、神様の時というのは、私たちの理解を越えた美しい導きを私たちにもたらします。

神様は時に、美しいご自分の計画の一部を、私たちに示して下さいます。しかし、それでも、私たちはそのご計画のすべてを知ることはできません。11節の後半に次のようにある通りです。

「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」

 

神様は、パズルのピースがどのように合うのか、時にかなって示して下さいます。しかし、それでも神様がご覧になっている絵の全体像をとらえることは、人間にはできません。それは、永遠という時であり、人間にはこの始めから終わりまでを見ることが許されていないからです。私たちにできることは、ただ、与えられた一つ一つの時を、感謝して歩んでいくことです。

 

4.神の時を見上げて生きる

私たちはそのように「美しい」神の時を見上げて生きるように招かれています。どんなにこの地上で起こる出来事が、美しさとは真逆のような状況にあっても、神様の時は変わらずに流れ続けていて、私たちを最善へと導いています。しかし私たちは、どのように、その神の時を見上げることができるでしょうか。それは、唯一、神でありながら人となられ、私たち人間と同じ時を過ごして下さった、イエス様を信じることによってです。イエス様は、今から約2千年前にこの地上に生まれ、十字架ですべての人間の罪を背負って死なれ、その後復活して天に昇られました。イエス様は天の御座におられますが、同時に、今、私たちの一人一人と共にいて下さるお方でもあります。私たちが生まれる時も、死ぬ時も、殺す時も、癒す時も、愛する時も、憎む時も、戦いの時も、平和の時も、イエス様は私たちと共におられ、父なる神様を見上げるように私たちを招いておられます。私たちはすべての出来事を通して、この世界の空しい現実ではなく、永遠に変わることのない、天の御国を見上げるように、招かれています。イエス様は、こう言われました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコによる福音書1章15節)」

 

神様の時、カイロスは満ちた、とイエス様は言われています。これは、今を生きる私たち一人一人に対しても言われていることです。今、どのような状況に置かれているとしても、私たち一人一人のために定められた神様の時が、今、満ちています。このイエス様からの招きにこたえ、イエス様と共に、主なる神様と、その神様の定められた時を見上げて歩んでゆきましょう。