神の良い計画

2022年8月21日 礼拝メッセージ全文

ダニエル書1章1節~21節

今回から、ダニエル書を読んでいきます。これまでパウロの手紙を続けて読んできましたが、その新約聖書の手紙と、旧約聖書の預言書の間には、大きな時代の隔たりがあり、書かれた言語もギリシャ語とヘブライ語(一部アラム語)と、大きな違いがあります。しかし、その間には共通したテーマがあり、現代を生きる私たちの経験にも深く通じるものです。それは、変わりゆく世の中で、神様を信じる者が経験する信仰の戦いです。ダニエルの言葉を通して、私たちは、どのような時も主が私たちと共にいて下さり、信仰の戦いに勝利を与えられているということを、改めて覚えることができます。

 

1.バビロン捕囚は主の計画

2節「主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた」

この箇所が伝えているのは、エルサレムの陥落、いわゆるバビロン捕囚の出来事です。紀元前7世紀の終わり頃、イスラエルのユダの人々が、敵国バビロンによって攻められ、彼らの国に連れていかれてしまうことになりました。それはユダの人々にとっては、大変な出来事でありました。しかしこの2節の文章は「主は・・・落とされた」となっています。それはつまり、バビロン捕囚の出来事は、主によって起こされたことであり、神の御心であったということです。

このバビロンの王であったのが、ここに記されているネブカドネツァルという人物です。彼は、エルサレムを容赦なく攻め、その神殿の祭具を奪い取っていきました。イスラエルの人々から見れば、目の敵のような存在、また私たちの目から見ても、極悪な人物のように思われます。しかし神様は、そのような悪い人物さえも、御自分の計画のために用いられたということです。エレミヤ書の中には、主が彼のことを「わたしの僕ネブカドネツァル」と呼んでいる箇所さえあります(エレミヤ25:8)。

では、神様のご計画とは何だったのでしょうか。それは、主から離れてしまったイスラエルの民が、真の神である主だけを畏れ、主に立ち返るということでした。バビロン捕囚とは、そのために主が与えられた出来事でした。神様は、人間の目には悪と思われることをさえ用いて、良い計画をなさるお方です。それは、私たちが本当の意味で神様の存在を知り、このお方の前にへりくだるようになるためです。聖書全体がそのような神様の計画を伝えていますが、それを最も端的に伝える出来事は、イエス・キリストの十字架です。十字架刑とは、最も残酷で屈辱的な処刑方法でした。そのような刑に、例えば私たちの家族や尊敬する人がかけられたなら、到底耐えられるものではありません。その十字架に、神の子であるイエス様がかけられたのです。それは人間的に見れば、絶望であり、最悪の事態です。

しかし主が十字架にかけられたのは、すべての人の罪を贖い、そして死から命へと救い出すためでした。そのようにして十字架は、神の最も良い計画を実現するために用いられたのです。私たちは、このイエス様の十字架を通して、すべての物事を見ることが大切です。この世には、数えきれないほど悪い出来事が起きているように見えます。私たち自身の内にも、数えきれないほどの悪、そして罪が充満しています。しかし、それらすべてのために、イエス様が十字架にかかられたということを私たちが知る時、そこにも神様のご計画があるということを信じることができます。旧約聖書の時代には、イエス・キリストというお名前自体は示されてはいませんでした。しかし、そこにも、主がすべての罪を贖ってくださる、そしてその主の良いご計画が主の民の上に実現する、という信仰が示されています。

 

2.計画に忠実に生きたダニエル

今日の箇所に出てくるダニエルをはじめとする四人の少年たちは、そのように神様の立てられた良い計画に忠実に生きた人々でありました。彼らは、多くの人々と共にバビロンに連れてこられ、王に仕えるための訓練を受けさせられました。住み慣れた土地や家族から離されて、それは辛い経験であったと思います。彼らは名前をも変えられて、バビロンの言葉と文化を強制的に学ばされました。そのような中で、彼らには、「宮廷の肉類と酒」が毎日与えられた、と書かれています。当時バビロンは、経済的にも大きな力を持っていたので、宮廷の食事は豪華なものであったと思います。しかし、それらのものは、彼らを大切に育てるためというよりも、王の家臣として絶対に刃向かわないように彼らをコントロールするためであったでしょう。

実際、ここには具体的に書かれていませんが、多くの少年たちが、そのようにしてバビロンの文化を教え込まれ、バビロンに飼い慣らされ、この国に仕える家臣となっていったことが想像されます。しかし、ダニエルたちは違ったということが分かります。彼らは、バビロンに住み、名前を変えられ、家臣となる訓練を受けながらも、自分たちはあくまでも、唯一の神である主だけのものであり、この主に属する者として行動をし続けました。

そのような彼らの姿勢を示す出来事として、今日の箇所では、彼らが王の定めた食事と飲み物を拒否したということが伝えられています。

8節「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た」

なぜ彼らは、王の食べ物や飲み物を拒否したのでしょうか。一説には、宮廷の食事の中には、ユダヤの律法で禁じられた食べ物があったのではないかと言われます。また、偶像に献げられた供え物があったのではないかとも言われます。これらの理由からダニエルが「自分を汚すまい」と決心した可能性もあります。さらに「食べる」という行為には、ただの物理的な意味だけではない、もっと深い意味があります。例えば、私たちが誰かと同じものを食べるということを通して、その人との間に精神的なつながり、絆が生まれるということを経験することがあると思います。これは良い意味での例ですが、ダニエルたちにとって、王の定めた宮廷の食事を受けるということは、バビロンの支配を心に受け入れるということを意味したと考えられます。彼らは、名前を変えられることや、バビロンの言葉や文化を学ばされることは、拒否しませんでした。それらは表面的なことであり、表面的な部分は変えることができました。しかし、その最も深い部分で、つまり魂の領域で、バビロンの支配を受け入れることはしませんでした。彼らが王の食事や酒によって養われることを拒否したのは、彼らは主のものであり、王のものではないということを宣言するという意味がありました。

このようなダニエルたちの姿勢から、私たちが主のご計画に忠実に生きるとはどういうことなのかを教えられます。私たちは、主を信じ、主のものとされたとしても、この世の中で生きてゆかなければならないことは変わりません。文化や職業、家族など、それぞれに置かれる環境は異なります。しかし、私たちがどこにいても、何をしていても、主のご計画が変わるということはありません。そして、置かれた状況の中で、いつも心の内に、自分は主のものであるという確信を持ち続けるということ、そしてその確信に基づいて、一つ一つの判断を行ってゆくということ、それが主のご計画に忠実に生きるということです。それは、ダニエルたちのように、お肉を食べてはいけないとか、お酒を飲んではいけないとか、そういうことではありません。何を食べるにしても、何を飲むにしても、自分の心が主から離れていないかどうか、ということをいつも吟味してゆくということです。

私たちを取り巻く環境は、日々変わってゆきます。その中で主が、バビロン捕囚のように、私たちの存在そのものを揺るがすような試練や困難を起こされることもあります。しかし、環境が変わろうとも、主の計画だけは決して変わることがありません。「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである(エレミヤ29:11)」。エレミヤは、バビロン捕囚の出来事は、災いの計画ではなく、平和の計画であると預言しました。その先に、主の良い計画があると信じていたからです。私たちも、そのことを心に信じ続け、決して離れないことです。そのように、主のご計画に信頼し続けるならば、主は必ず私たちを守ってくださいます。

9節「神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした」

神様は、不思議な方法で、私たちを守ってくださるお方です。ここで「神の御計らいによって」とありますように、すべては神様のご計画によるのです。2節では、敵であるネブカドネツァル王が神に用いられたように、ここでは侍従長という存在が用いられています。彼も異邦人であり、主のことを知らなかったと思いますが、この侍従長を通して、神様のご計画が実現してゆきました。彼の好意を得ることができたダニエルたちは、結果として、宮廷の食事と飲み物を取らずに済むことになりました。そしてそれだけでなく、彼らは肉や酒を与えられた少年たちよりも元気で良い顔色を保つことができ、それによって彼らは、王のそばで仕える者として登用されることになったのです。主に従い続けた彼らは、人間の知恵によってではなく、神の計画によって自然と守られてゆきました。

私たちは、何か問題が起こったり、困難が生じたりすると、いかにしてそれを解決するか、ということをまず考えてしまいがちではないでしょうか。しかし、すべての出来事は主のご支配の下にあり、ネガティブに見えることの中にも、主の御心が存在しています。ダニエルたちが、その主のご計画を信じ、行動してゆく中で主に守られていったように、私たちも、主のご計画に自分をゆだねていくときに、神様は私たちの想像とは違った仕方で、私たちを守ってくださいます。そして、ただ守られるだけでなく、主の最善がなされてゆくということを経験してゆきます。

 

3.主の良い計画の成就

神様は、私たち一人一人に良い計画をもっておられ、それを成就されるお方です。

21節「ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた」

キュロス王とは、この後の時代、バビロンに取って代わってこの地域を支配するようになったペルシア王国の王です。そして、このキュロス王の元年に、何が起こったかというと、この年に、このキュロス王が、バビロンの時代から捕囚となっていたユダの民に、エルサレムに帰ってよいという勅令を出したのです。このことも、本当に不思議な主の導きで、主がこの王様の心を動かされました。イスラエルの民をバビロン捕囚に出したネブカドネツァル王も、そこから帰国を赦したキュロス王も、異邦人で主を知らない人々であるのに、主は彼らを用いて、御自分の計画をなさいました。

かつて、預言者エレミヤが告げていたとおり、イスラエルの民は、バビロン捕囚となってから70年後に、元の土地に戻らされることになったのです。それは、主のご計画が必ず成就するという事実を、私たちに証ししています。

神様は、私たち一人一人に対しても、御自分の良い計画が成就されるように、導いておられます。それは、主イエス・キリストを信じることによって、私たちが罪の赦しを得、滅びから救い出されるということです。私たちは、主を信じた後も、この地上の生活においては、様々な所を通らされます。ダニエルたちがバビロンにあって、信仰の戦いをし続けたように、私たちもこの世にあっては、様々な戦いがあります。それは、私たちを救いの確信から引き離そうと日々働いているサタンとの霊的な戦いです。終わりの時代に向かってゆく今、私たちを取り巻く環境は、この当時のバビロンよりもさらに悪くなっていると言えます。しかし私たちは、この世がどのように変わってゆこうとも、この世に属する者ではなく、神に属する者として、神のご計画を信じ、その良い計画に自らをゆだねてゆくことができます。日々の生活の中で、どこにいても、何をしていても、私たちを十字架によって罪から救い出してくださったイエス様を、そして世の終わりの日に再び来られて、すべての悪を滅ぼし、義の宿る新しい天と新しい地とをもたらしてくださるイエス様を、心に慕い求めながら生きてゆくことができます。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ16:33)」。私たちは様々な苦難を経験します。しかし、その只中にあってこそ、「わたしは既に世に勝っている」というイエス様の御声を心に留めて、主の立てられた良い計画に日々忠実に、生きてゆきましょう。