神を畏れる人の幸福

2020年11月1日 礼拝メッセージ全文

コヘレトの言葉 8章8~17節

 

「空しさ」を繰り返し語るコヘレトの言葉ですが、実はそこには、その逆とも思われる言葉が繰り返されています。それが「幸福」という言葉で、今日の箇所だけで3回、この言葉が出てきます。「幸福」と訳されている原文のヘブライ語は、「トーブ」という単語で、これは「良い」とか「楽しみ」とか、訳されることもあります。この単語だけで見ると、コヘレトの言葉全体で、52回も使われています。以前の礼拝で、「空しい」という言葉が33回出てくるとお話ししましたので、コヘレトはそれ以上の頻度で、「幸福」「良い」「楽しみ」について、語っているということになります。「空しい」人生の中に、それだけポジティブなものを見ることができるとは、一体どういうことなのでしょうか。

それを知るにはまず、今日の箇所の12節後半の言葉を見る必要があると思います。

「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり」

幸福の源は、神を畏れることにある、とこの箇所は伝えています。それでは、神を「畏れる」とは、どういうことでしょうか。今日の箇所はそのことを具体的に語っています。

 

1.人間の限界を知ること

それは、まず一つには、人間の限界を知るということです。これは、神様の前にへりくだるとも言い換えられます。今日の箇所の初めの8節の最初に次のようにあります。

「人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。」

 

ここで「霊」と訳されている単語には、「風」や「息」という意味もあります。創世記の2章には、神様が人間を塵から形作られ、その鼻に命の息を吹き込まれて、生きる者とされたと書かれています。つまり、人間に命を与えられたのは神様であり、人間は誰も自分の力で命を得たり、取り去ったりすることはできない、ということです。それは、人間が自分の吸う息や吐く息をコントロールできないのと同じです。もちろん、多く吸ったり、少なく吸ったり、息を止めたりすることはできますが、息そのものを造り出すことは人間にはできません。

また、続く箇所では「死の日を支配することもできない」と言われています。人が死にゆく日を予め知るということは、誰にもできません。それは、神様の定めておられる時だからです。そのように、天の下の出来事には神様の定められた時がある、とコヘレトの言葉の3章は伝えていました。生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。それらはすべて、神様が特別に定めておられる時、これを「カイロス」の時と呼んでいました。そしてそのような時を、人間がコントロールすることはできません。

8節のさらに続く箇所には、「戦争を免れる者もない」とあります。ここで「戦争」と言われているのは、一般的な戦争というよりは、これまで言われてきた、「死との戦い」のことを指していると思います。この箇所は、リビングバイブルでは次のように翻訳されています。

「この暗黒の戦いを免れることは絶対にできないのです。その場に臨んだら、どんなにじたばたしても始まりません。」

死という最も暗い出来事を前にして、人間は何もすることができないということを、この箇所は伝えています。そして、この戦いから逃れることは誰もできません。こう考えると、人生はとても暗いもののように思えます。しかしこれは、人生の悲惨さを示すものではなく、人間の力の及ばないことがあるということを伝えるものです。生まれること、死ぬことを始め、人生のあらゆる局面において、私たちはそのことを体験します。それは、私たちが人間の力の限界を知り、神様の存在を覚えるようになるためでした。それが、神様を畏れるということの一つの意味であると、今日の箇所は語っています。

 

2.神様の支配を認めること

次に、神様を畏れるということの二つ目の意味は、神様の支配を認めるということです。8節には、「支配」という言葉が二回使われていました。そして9節にも「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」とあります。人間はとにかく「支配」を望むものです。「自分を支配したい」「他人を支配したい」「世の中を支配したい」と人間は考えてしまうものです。しかし、人間が「支配」する時には苦しみが臨みます。自分の力でコントロールしようとすればするほど、自分にも、周囲にも苦しみが増し加わります。しかし聖書は、人間ではなく、神様こそが真の支配者であると伝えています。私たちは、神様がすべてを支配しておられるということを認め、神様にすべてを委ねる時、この苦しみが取り去られてゆくということを経験します。

続く10節~12節では、そのような苦しみや悪が世の中に蔓延している状態について語られています。特に11節以下には、次のようにあります。

「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいている者がなお、長生きしている(11~12節)」

 

悪い人が、法律の合間をかいくぐって、色々な悪さをしているということが社会に起こります。そして、そういう人がお金儲けをして、裕福な生活をしているということもあります。政治の世界は、いつの時代もそのようなことの繰り返しのような気がします。しかし、ここで「条令」と訳されている言葉は、法律的なことを指すだけではなく、「宣告」とも訳すことのできる言葉で、これは、神様からの宣告であるともとることができます。つまり、何か悪いことをしても、神様からの裁きがないじゃないか、それならどんどん悪いことをしよう、と人間は考えてしまうということです。14節にあるように、「善人でありながら悪人の業の報いを受ける者」や「悪人でありながら善人の業の報いを受ける者」が存在します。悪いことをした人が得をし、善いことをした人が損をする、というようなことが世の中ではたくさん起こります。

なぜ神様は、正しい方であるのに、そのような悪が蔓延する状態をそのままにしておかれるのでしょうか?これは、人間がずっと問いかけてきたことであると思います。それに対するコヘレトの答えは、「空しい」ということでした。その答えは、地上を生きる人間には分からないということです。しかし、それはすべてが無意味だ、ということではありません。あくまでも、すべてのことは人間の支配の下にあるのではなく、神様の支配の下にあるということを認めるように、コヘレトの言葉は私たちに呼びかけています。

それは私たちが、自らの持つ正義を手放すということでもあります。自分の持つ物差しで、あれは良い、あれは悪いと判断するのではなく、正しい方である神様に、すべてをおまかせするということです。そうする中で、私たちは、他人を裁くということも、自分を裁くということも、なくなってゆきます。神様がすべてを支配しておられるので、自分の思いや願いと反することがあっても、平安でいることができます。神様を畏れるということは、そのように平安な生き方を私たちにもたらすものです。

 

3.与えられた分を楽しんで受け取ること

そして最後に、神を畏れるということは、私たちが、神様から与えられた分を楽しんで受け取るということを意味しています。

「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ(15節)。」

 

私たちそれぞれに与えられた人生の日数は、誰にも分かりません。また、日々の生活の中には、良いと思われることも、悪いと思われることも起こります。だからこそ、明日のことや、人間には知り得ないことは、神様の御手にゆだねて、毎日の生活を楽しんで生きるということ、それこそが神様を畏れる生き方です。

楽しむというのは、能動的な行為です。どんなに悩みや問題があっても、食事の時はやってきます。その時、悩みや問題のことはまず神様に委ねて、目の前の恵みを感謝して喜び楽しむということです。これは単純なことですが、意外に難しいものです。それには、毎日、自分自身を神様に明け渡しているということが大切であると思います。そしてそのようにいつも神様に委ねて、物事を楽しむ姿勢は、食事だけでなく、生活のすべてを豊かなものにしてゆきます。

しかし、私を含め多くの人は、楽しむということが苦手であると思います。まだ問題が解決していないのに、悩みがあるのに、楽しんでいいのだろうか、と罪悪感を持ってしまうことがあります。しかし、正にその罪悪感を神様に委ねなさい、と神様は言われているのだと思います。私たちの罪悪感、そしてすべての悩みや苦しみを背負うために、イエス様は十字架にかかって下さいました。このイエス様にすべてを委ねて、私たちが毎日の生活を喜び楽しんで生きることを、神様は願っておられます。

楽しむということが最も得意なのは誰でしょうか。それは、子どもたちです。子どもたちは自分が弱い存在であることを知っています。そして、恥じることなく、常に親の助けを求めて、すべてを委ね切ることができます。また、子どもたちは、何が正義であるか、などと難しいことを考えたりはしません。子どもにとって、毎日の生活がすべてであり、その毎日を安心して、楽しんで生きるということだけが重要です。それは、自己中心的なようでいて、実は、神を畏れる生き方を現わしたものであると言えます。それゆえに、イエス様は、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(マルコ10:15)」と言われました。私たちも、全く子どものようにとはいかないかもしれませんが、子どもたちから学びつつ、神様にすべてを委ねて生きるとき、日々の生活を喜び楽しんで生きる者とされてゆきます。

 

イエス様は、また、このようにも言われました。

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ(マタイ6:30)」

 

私たちは、今日のことよりも明日のことを考えてしまうことの多い者です。しかし神様は、「明日は炉に投げ込まれる野の草」でさえ美しく装って下さるように、私たちにも今日という日、素晴らしい恵みを注いでいて下さいます。分からない明日のことではなく、目に見える今日という日に備えられた恵みを受け取って、喜び楽しんで生きるように、私たちを招いておられます。神様を畏れるということは、そのように、神様にすべてを委ねつつ生きる人の幸福を約束しています。この約束を信じて、日々を生きてゆきましょう。