神様から与えられた役割

2020年8月23日 礼拝メッセージ全文

出エジプト記 6章28節~7章7節

 

先週の箇所は、モーセが、主なる神様から、エジプトからイスラエル人を導き出すという召命をいただいたという場面でした。今日の箇所は、そのモーセが実際に働きを始めるにあたって、アロンという助け手が与えられたということを伝えています。
神様は、すべての人を、ご自分の栄光のために造られました。その一人一人は、神様から役割を与えられています。その役割は、それぞれ違うものですが、どれが優れていてどれが劣っているというようなことはありません。大切なことは、私たちが自らに与えられた役割を知り、神様のために共に働くということです。
今日の箇所から、私たちは神様からどのように役割を与えられるのか、そしてそこにはどんな意味があるのか、ということを知ることができます。

 

1.モーセの役割

まず、モーセに与えられた役割について、今日の箇所は次のように伝えています。
「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい(29節)」

「わたしは主である」という言葉を通して、主が、モーセに直接語られたということが強調されています。その語られたことを「すべて」、エジプトの王ファラオに語るということが、主からモーセに与えられた役割でした。
この役割は、どのようにモーセに与えられたでしょうか。7節を見ると、この時、モーセの年齢は八十歳であったことが分かります。彼の過ごしたそれまでの八十年は大きく二つに分けることができます。まず前半の四十年は、エジプトでファラオの王女の養子として過ごしました。そして後半の四十年は、ミディアンで羊飼いとして過ごしました。この四十年という長さには、意味があります。聖書では、四十という数字は、完成を表すものです。イスラエルの人々は、モーセに率いられてエジプトを脱出することになるのですが、その後彼らが荒野でさまよった年数が四十年でした。また、モーセが十戒を受けるためにシナイ山の上にとどまっていた日数は四十日でした。つまり、モーセはイスラエル人として生まれましたが、エジプト人として完成される程長い期間を過ごし、その後は、ミディアン人としても完成されるだけの長い期間を過ごしたということです。彼はもはや、イスラエル人としての自分を、失いかけていたかもしれません。しかし、正にその時に、イスラエルの神である主と、イスラエルの民に仕える役割がモーセに与えられました。神様は、無から有を創り出されるお方です。その神様の働かれるとき、全くの無と思われる状況から素晴らしい成果が生まれてきます。
しかし、神様から呼びかけを受けたとき、モーセは次のように答えました。
「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか(30節)」

モーセは自分のことを、「唇に割礼のない者」と呼んでいます。これは、唇が中々開かない様子を指し示した表現で、口が重い、口べたであるという意味です。しかし主は、モーセがそのような人であることを良く知っておられました。その上で、モーセを選び、ファラオのもとに行って語るように命じられました。それは彼が、自分自身の能力に頼るのではなく、主の恵みに強められて、与えられた役割を果たすためでした。
そのモーセについて、7章1節では次のように言われています。
「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし(1節)」

この箇所は原文では、あなたをファラオに対して神とし、となっています。口べたで、自信のないモーセが、強大な権力者ファラオに対して、神と同じ権威を持つ存在となるということです。そしてこのことは、今日の箇所に続く7章後半からの「10の災い」の場面で、実現してゆきます。モーセは、神の恵みによって、大胆にファラオの前に立ち、神の言葉を語る器としての役割を果たしてゆきました。
そのように、神様から与えられる役割は、自分が認識する自分の役割とは異なることが多いものです。私たちは、自分にはこれができない、あれができないと、自分の能力に目を向けてしまいがちです。しかし、神様はそんな私たちの一人一人を用いるために、役割を与えて下さいます。その役割は、モーセがそうであったように、自分の置かれている状況や、自分の能力のゆえに与えられるのではなく、神様からの一方的な恵みとして与えられます。その恵みに応答する時に、主はすべての必要を備えて下さり、弱い、ありのままの私たちを通して、神様の栄光が現わされてゆきます。

 

2.アロンの役割

主は、そのように尻込みをするモーセに、助け手を用意しておられました。それが、彼の兄、アロンでした。アロンについて、1節後半~2節に、次のようにあります。
「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」

ここにあるように、アロンに与えられた役割とは、モーセの預言者となることでした。それは、モーセが主から聞いたことを、人々に伝えるという役割でした。
アロンという人について、少し振り返ってみます。7節を見ると、アロンはこの時、八十三歳であったことが分かります。彼は、弟モーセと異なり、ずっとエジプトのイスラエル人の家庭で過ごしました。彼のそれまでの人生については、聖書で多くは語られていません。しかし、6章の後半にある系図を見ると、彼が同じイスラエル人の妻を迎えたということは分かります。この点でも、ミディアン人の妻を迎えたモーセと大きく異なります。アロンは、イスラエルの民の一員として、堅実な人生を歩んでいたであろうことが想像できます。
そのようなアロンでしたが、長い間別れていたモーセと、再会を果たすことになります。少し前の4章の中には、次のように記されています。
「あなたには、レビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう(4章14節)」

この箇所にあるように、アロンは雄弁な人物でした。それは、「唇に割礼がない者」であったモーセとは対照的でした。しかし、その雄弁さは、弟モーセを助けるために、神様からアロンに与えられた賜物でした。その賜物は、モーセと共に働くことで発揮されることになりました。そしてアロンは、モーセに語られた神の言葉を、人々に取り次ぐための預言者としての役割を果たしてゆきました。しかし、今日の箇所以降の流れを見ていくと、アロンは言葉を語るだけでなく、モーセの代わりに杖を使って数多くの奇跡を行うということもしています。とにかく彼は、今日の箇所以降、常にモーセと共に行動してモーセの働きを支えてゆきました。
そして後に、このアロンが、大祭司として、イスラエルの民のための執り成しを行う者となりました。アロンはまさか自分にそのような役割が与えられるとは、この時には想像していなかったでしょう。アロンは兄であり、雄弁な者でした。しかし、そのような立場や、能力とは関係なく、主のために彼に定められた役割がありました。その役割を果たすために、彼は、弟モーセと再会し、共にファラオのもとへ向かいました。
ここで一つ疑問が生まれます。アロンは、弟モーセの助け手となることに、葛藤を感じなかったのか、ということです。これまで見てきたように、アロンとモーセは、それまで全く異なる人生を歩んで来ました。アロンとモーセ程の劇的な経験はないとしても、このようなことは、兄弟姉妹関係の中では珍しいことではないと思います。そして、兄弟は近い関係であるからこそ、妬みや葛藤の生まれやすい関係であると言えます。アロンとモーセについては、八十年も離れ離れになっていたのですから、その間にすれ違いがあっても不思議ではありません。後の箇所を読むと、それがずっと後になって現れてきたことが分かります。
民数記12章1~2節「ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、『モーセはクシュの女を妻にしている』と言った。彼らは更に言った。『主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。』主はこれを聞かれた」

これは、出エジプトの後で、イスラエルの民が荒野にいた時の出来事です。ミリアムとアロンは、弟が外国人を妻としていたことを批難しています。そして、モーセを通してしか主の言葉を聞けない事実を否定しようとしています。この言葉に現れているように、アロンの心のどこかには、長年外国人として生活してきた弟に従うことへの不満があったようです。また兄として、弟の上に立ちたいという本音もそこには隠れていたように思えます。
しかし、今日の箇所でのアロンは、モーセの助け手としての役割に徹しています。6節に「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った」とあるとおりです。アロンの心の内には、弟モーセに従うことへの葛藤があったかもしれません。しかしそれでも、主が命じられたとおりに、アロンはモーセを助けてファラオに主の言葉を語りました。二人がお互いを尊重し、主のために働いたことにより、出エジプトの出来事が導かれてゆきました。

 

3.ファラオの役割

ここまで、モーセとアロンに神様から与えられた役割について見てきました。しかし最後に、彼らの敵であるファラオにも、神様は役割を与えられていたことが示されます。
「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる(3~5節)」

ここで、主はファラオの心をかたくなにされた、とあります。なぜ主は、ファラオがすぐにモーセとアロンの言うことを聞くようにされなかったのでしょうか。それは主が、ファラオにも役割を負わせていたためでした。ファラオがすぐに受け入れなかったからこそ、エジプト人は数多くの奇跡を目にすることになり、それが結果的に主の偉大さを世界中に伝えることにつながったということです。パウロは次のように書いています。
「聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです(ローマの信徒への手紙9章17~18節)」

人が御言葉を受け入れるのも、かたくなになるのも、神様の御心によるものだということです。ファラオのように神に敵対していると思われる人でさえ、神様は用いて下さり、すべてのことを益として下さいます。そしてファラオがかたくなであったからこそ、モーセとアロンは一致して、主のために働くことができました。ここにも主のご計画が現わされていたということです。

今日の箇所から、モーセにも、アロンにも、そしてまたファラオにも、神様の与えられた役割があったということが分かります。神様は、その一人一人が、神の時に出会うようにして下さいました。そのように、私たちも一人一人、神様から役割が与えられて、この地上で生かされています。私たち一人一人は、不完全で、弱い存在です。しかし、主イエス様によって贖われ、罪赦されて、主のために力を合わせて共に働く者とされています。自分自身の状態や、置かれた状況に関わらず、主の呼びかけに答えるときに、私たちは自分に与えられた役割を力強く果たし、神様の栄光とされてゆきます。そのすべてを導いて下さる主に感謝します。