私のために裂かれ 血を流されたイエス

2022年3月13日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書14章10節~26節

今年もイースターの前の受難節(レント)の時期になりました。この時期、私たちはイエス様の受難、特に十字架を覚えてゆきたいと思います。今の世界には、たくさんの苦しみがあります。ウクライナでは正に戦争が起こっておりますし、コロナの感染は世界中で中々収まりません。個人的には、水戸に来て三回目のイースターを迎えようとしている訳ですけれども、これまでずっとコロナのことが終息しないのは、イエス様の十字架の苦しみを覚え続ける必要があるということなのではないかと思っています。

そしてこの受難節の時、イエス様の十字架がすべての人のためであったということを改めて覚えたいと思います。イエス様の十字架は、イエス様を信じる人だけでなく、まだイエス様のことを知らない人々のためでもあり、その一人一人が主のもとに立ち返るように招いておられるということでもあるからです。

 

1.「裏切り者」のユダ

今日の聖書箇所を読むと、イエス様の十字架の恵みが、すべての人のためだったということを改めて教えられます。これは、私たちが正しい者であるから、また私たちが信仰深いから与えられる恵みではなくて、私たちが罪を犯す者であっても、不信仰な者であっても、そして神様を裏切る者であったとしても、注がれている恵みであるということです。このことを今日の箇所は特に、ユダという人を通して示しています。

私たちはユダのことを、イエス様を裏切った悪者のように考えてしまうことがあるように思います。確かに彼は、イエス様を裏切り、祭司長たちに金で売るという大きな罪を犯しました。でもそもそもユダはなぜ、イエス様を裏切ったのでしょうか。このことを考えてみるとき、彼の裏切りは私たちとも決して無関係ではないということが分かります。

ユダは、「金入れを預かっていた」と別の箇所に書かれています。つまりお金の管理をする人であったということです。それだけ人々から信頼されていたということを表しています。そして、ヨハネによる福音書では、イエス様が裏切り者はユダだとはっきりと示されましたが、「だれもこのことを理解できなかった」と書いてあります。つまりそれだけユダは、「裏切るような人ではない」と皆から思われていたのだと思います。そのように人々から信頼され、お金というとても大事なものを任されていた、そういう人がイエス様を裏切る存在になってしまったのです。

聖書は、このユダに「サタンが入った」と記しています。サタンはどのようにユダを誘惑したのでしょうか。ユダだけでなく、サタンが私たち信仰者の上に働く時に起こることがあります。それは、この世の価値観と神の国の価値観が衝突するということです。このことは、今日の箇所の直前の「ベタニアで香油を注がれる」という出来事を通して示されています。実はこの出来事は、マタイによる福音書の中でも、ユダの裏切りの箇所の直前に書かれています。それは、二つの出来事の間に関連があるということを示しています。ベタニアという場所で、イエス様は、突然ある一人の女から、大変高価な香油を頭に注ぎかけられます。それを見ていた人々がこう言ったということです。

14章4節「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか』」

ヨハネによる福音書によると、これを言ったのはユダであるということです。ユダは、お金の管理を任されていたので、このように言ったとしても不思議ではないと思います。お金に関することというのは、どうしてもこの世の価値観に影響を受けやすいものです。この世の価値観というのは、いかに無駄をなくして利益を上げるか、ということです。そういった意味では、このベタニアの女性が高価な香油をすべてイエス様の頭に注ぎかけた行為は、無駄遣いであると思われてしまっても仕方がありません。でも神様の目には、これは決して無駄遣いではありませんでした。イエス様はこの女性の行いを喜び受け入れられました。すべてをささげたこの女性の行為は、神様に喜ばれる奉仕であったということです。ここで神の国の価値観とこの世の価値観との間に対立が起こっていることが分かります。いかに無駄をなくし、いかに利益を上げるかというこの世の価値観に対して、神の国の価値観は、いかに神様のためにすべてをささげるかというものでした。

ユダの裏切りの背景にも、このような価値観の対立があったと言えます。ユダを始め、多くの弟子たちは、イエス様がイスラエルという国を解放する指導者として、この世で力を発揮して欲しいと願っていました。けれどもイエス様は、これまで三度にわたって、ご自分が来たのは、エルサレムで捕らえられ、十字架にかかり死ぬためだと言われてきました。そのようなことは、この世の価値観に従う弟子たちには到底受け入れられないものであった訳です。そこでユダは、イエス様を祭司長たちに売り渡すことを決意してしまいました。今日の箇所を見ると、ユダはイエス様を引き渡す代わりに祭司長たちからお金を受け取る約束をしていますけれども、彼は決してお金目当てでイエス様を裏切ったのではないと思います。彼の中にあったこの世の価値観、そしてその価値観に基づいた彼なりの「自分の正義」というものと、イエス様の十字架が相容れなかった、それによって彼はイエス様を裏切る者となってしまったということです。このようなことは、ユダだけに起こることではないと思います。私たちも、この世の価値観に従って、「自分の正義」を求め続けるとき、人を殺し、イエス様さえも十字架につける者となってしまうことを教えられます。

 

2.すべてをささげられたイエス様

それに対してイエス様は、この世の価値観とは全く逆の、神の国の価値観に従って、最後まで生きられました。イエス様は「自分の正義」を求めるということは決してなさらず、かえって私たちの罪をすべて背負って、十字架で死んでくださいました。

イエス様は、ユダが裏切ろうとしていたことを知っておられました。それでも、ユダを避けることも、とがめることもされませんでした。むしろそれまでと同じように、神の家族として、寝食を共にされました。

12節~21節には、イエス様が過ぎ越しの食事のユダを含めた弟子たちと共になさったことが書かれています。この箇所を通して、私たちは改めてイエス様は全知全能の方なのだということを教えられます。イエス様は、過ぎ越しの食事をする場所がどこにあるか、既に知っておられました。13節~16節で、本当に超自然的な方法で、食事の場所が示されています。この出来事を通して、弟子たちは改めて、イエス様は何でも知っておられる、ということを実感したと思います。この時ユダは既にイエス様を裏切ろうとしていた訳ですが、自分のことも知られているかもしれないと思い、恐れを感じたのではないでしょうか。しかしそれでもイエス様は、この過ぎ越しの食事を、あえてすべての弟子たちと一緒にされました。それは、十字架を通して注がれる神の恵みがすべての人のためであるということ、そしてそれは特に裏切る者、罪を犯す者のためであったということを示すためでした。このことも、この世的に考えてみると、何という無駄遣いでしょうか。自分のことを裏切ると分かっている者に、他の弟子たちと同じ恵みを与え、そのことによってイエス様は最終的には裏切られ、十字架につけられていってしまう訳です。しかしこれこそが、私たちの理解をはるかに超えた、神様の愛というものを示していると思います。私たちの罪や、隠していることもすべて知っておられる上で、イエスはそのような私たちを、愛によって受け入れて下さる方であるということです。

この神様の愛を、目に見える形で表したのが十字架であり、今日の箇所の「主の晩餐」という出来事です。

22節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である』」

この時イエス様が裂かれた「パン」とは、私たちが普段食べる食パンのようなものではなく、酵母を入れない「種無しパン」でした。これはイスラエルでは「マッツァー」と呼ばれるもので、過ぎ越しの食事の際に用意されるものです。この種無しパンの特徴とは、手で裂くと、ボロボロになってしまうということです。私たちの教会でも、主の晩餐式の際、この種無しパンを使用していますが、私が手で裂くと、ボロボロになり、中々きれいには割れません。しかしこれこそが、イエス様の体が十字架で裂かれたということを示していると思います。イエス様は、ボロボロになるまでに十字架で苦しまれ、死なれました。それは私たちを救うためであり、そこまでしてすべてをささげてくださった神様の愛を、この時弟子たちは受け取り、また今でも私たちは主の晩餐式を行うたびに受け取り続けています。

23~24節「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」

ここで、「彼らは皆その杯から飲んだ」とあります。この時、そこにいた弟子たちは一つの杯を分かち合ったということです。現在では、主の晩餐式を行う時、一人一人に分けられたカップを通してぶどうの液をいただくことが多いと思いますが、この時の杯は一つでした。このことが表しているのは、イエス様の血というイエス様の赦しの恵みに、私たちは皆同じようにあずかる者となったということです。イエス様は、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。つまり、十字架の恵みは、イスラエルの民だけでなく、すべての人々のため、そして罪を犯す者や裏切る者のためにも注がれるものであるということを示されたということです。

イエス様は、このようにして自分が十字架にかかってゆくということを示されました。それは、弟子たちの一人一人がイエス様のもとに立ち返り、罪を悔い改めることのためでした。

 

3.誰でも立ち返るなら赦される

ユダは、他の弟子たちと共に、このような主の晩餐の恵みにあずかりました。しかし、それにも関わらず、ユダは悔い改めることをせず、最終的にはイエス様を裏切る者となってしまいました。後にユダは、イエス様を裏切ったことを後悔して、受け取ったお金を祭司長たちに返しに行きました。ここを見ると、ユダが悔い改めたかのようにも見えますが、ユダは最後まで「自分の正しさ」というものを追い求めた人でありました。自分がそのお金を返せば、少しでも罪が軽くなると考えたのだと思います。しかしイエス様が求めておられるのは、私たちが人のもとにではなく、神様のもとに立ち返ることです。私たちが「自分の正しさ」を求めてゆくとするならば、そこに終わりはありません。どんなに自分の行いを正しても、私たちの内側には必ず罪が残っています。でもイエス様は、そのようなあなたのありのままの姿をわたしのもとに持って来なさい、と、この時ユダに対して、そして今私たちの一人一人に呼びかけておられます。私たちがイエス様のもとに立ち返るなら、どんな罪もどんな裏切りも完全に赦していただくことができる、このような恵みを私たちはイエス様の十字架を通して与えられています。私たちはどうでしょうか?十字架でイエス様の体が裂かれ、血を流されたのは、わたしのためであった、そのように私たちが受け取ることをイエス様は願っておられます。この恵みを受け取るときに、私たちは罪赦され、本当のいやしをいただいて生きてゆくことができます。このイエス様に希望を持って、今の苦しみの中を共に歩んでゆきましょう。