終わりの時に向かって

2022年9月25日 礼拝メッセージ全文

ダニエル書12章1節~13節

1.苦難の時

1節「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」

ここで、「その時」という言葉が三回繰り返されています。「その時」とはいつのことを指しているのでしょうか。それは、将来の時、この世の終わりの時のことを指しています。それが実際にいつのことなのかは、誰にも分かりません。しかし、その時とはどんな時であるのか。それは、苦難の時であると今日の箇所は伝えています。「国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難」の時であると言われています。

聖書は、この世界には終わりがあるということを明確に伝えています。そして、その終わりの時とは、まず、苦難の時であるということです。

マタイによる福音書24章6~9節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」

イエス様は、終わりの時に向かって、様々な争いや災いが起こるだろうと言われました。実際に私たちは、戦争や紛争が世界各地で起こっているということを目の当たりにしています。また、災いということでは、飢饉や地震、様々な天災が世界中で起こっています。しかし、イエス様が語られた終わりの時の特徴とは、何よりも神様を信じる人々が苦しみを受けるということでした。

ダニエルの人生は、正にそのように、神を信じる者には苦しみが及ぶということを、身をもって示すものでした。ダニエルは、ユダという国から、遠く離れたバビロンの国に連れてこられることになりました。当時まだ少年であったダニエルは、名前を変えられ、すべてを捨てて王に従うことを強制されました。それでもダニエルは、このバビロンの中でも、主だけを信じて祈り続けました。ところが、この国には王様以外の存在を拝んだり祈ったりしてはならないという法律が作られました。そのことによって彼は迫害を受け、獅子の洞窟に投げ込まれるという苦しみすら経験しました。でもダニエルはいつも、神様によって守られ続けました。

ダニエル書を読むと、天使の存在がよく出てきます。天使が、獅子の口を閉ざし、ダニエルを絶体絶命の状況から救い出しました。そして今日の箇所でも、「大天使長ミカエル」という天使の名前が出てきています。これらの存在が現わしているのは、人間の力によらず、神様のご介入によってダニエルが守られたということです。そのようなダニエルが今日の箇所で語っていることは、この世の終わりの時にも、同じように神様を信じる人々は苦しみを受けるということです。しかし、神様が遣わされる存在によって、私たちは必ず守られるということが約束されています。

私たちは、これらのダニエル書の言葉をどのように聞いているでしょうか。「世の終わり」「迫害」「天使」というような言葉は、私たちの日常生活とはかけ離れた世界のことのように思えるかもしれません。しかし、聖書の御言葉を通して教えられるのは、これは正に私たちが既に直面している現実であるということです。私たちが過ごしているこの日本という国では、真の神様を信じ続けるということが日を追うごとに難しくなっているように感じます。神様以外のものを拝むように強要されるということ、過去には天皇を崇拝するということがありましたし、それだけでなく「国家」を崇拝するような風潮は最近強まりつつあるように思います。また、ダニエルが経験したように、礼拝や祈りを禁じられたり妨げられたりするということも、私たちが徐々に経験しつつあることではないかと思います。現在起こっている新型コロナウイルスの流行、これも神様の支配のもとで起こっていることですが、その中で、神様を礼拝すること、お祈りすることを、私たちから遠ざけようとする力が働いていることを感じます。インターネットを通じてどこにいても礼拝をすることができるというのは本当に神様の恵みです。しかし、一歩礼拝の場を離れると、主を礼拝し続けること、祈り続けることが難しいということも感じます。そしてこのような難しさは、世の終わりが近づくにしたがって益々強まっていくだろうと思わされます。さらに、最近はある一つの新興宗教のことが世の中で話題となっていますが、聖書の誤った解釈、間違った教えが広められてゆくということも、世の終わりの特徴の一つです。連日報道されている以上に、私たちの身の周りでは、私たちもまだ知らない間違った教えや異端信仰がどんどん生まれてきているような状況です。これらのことを思う時に、ダニエル書が語っている終わりの時の苦難とは、既に始まりつつあると思わされます。

このように、聖書の教える終わりの時とは、まず神様を信じる人々に対する苦しみが深まる、苦難の時であるということが示されます。

 

2.救いの時

しかし、終わりの時とは、苦難だけで終わる時ではありません。それは救いの時でもあります。

1節後半「しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」

終わりの時は、苦難の時、この世の暗闇が深まる時です。しかし、その時にこそ、「救い」の出来事が起こるということを、この箇所は伝えています。

「救われる」という原文の言葉は、「逃れる」「解放される」という意味の言葉です。つまり、終わりの時は、苦難の時でありますが、神様を信じる者は、この苦難の時から逃れることができる、解放されることができるということです。

それはやはり、このダニエルが身をもって証ししたことです。彼は、獅子の洞窟に投げ込まれるという絶体絶命の状況の中から、神様の恵みによって救い出されることができました。また、聖書全体を読むと、この当時はバビロン帝国の支配の下に置かれていたユダの国も、時が満ちた時、バビロンの支配から解放され、祖国に戻って神殿を再建することができたということが分かります。神様は、ダニエルに代表される、ユダ、イスラエルの人々を決して見捨てることなく、苦難の中から救い出してくださるということを約束され、そのことを実現されました。

このことは、今を生きている私たちに対する約束でもあります。神様を信じようとする時に、この世では様々な苦しみが及んできますが、そこから必ず助け出されることができるということです。そして、この約束が完全に実現するのが、世の終わりです。終わりの時には、今私たちが経験している苦しみよりもはるかに大きな苦難がやってきます。しかし「あの書に記された人々は救われる」と言われています。聖書は、神様を信じる人々が救われる証しとしてその名を記す「命の書」があると伝えています。イエス様を信じて、天にその名が書き記されている私たちは、終わりの時の苦難から救い出されるということです。

この終わりの時の苦難が続く期間について、今日の箇所は「一時期、二時期、そして半時期(7節)」「千二百九十日(11節)」と伝えています。そして別の箇所では「三年半、四十二か月(黙示録11:2, 13:5)」と書かれています。これらはほぼ同じ期間を指しており、世の終わりの最後には、定められた苦難の期間があるということを伝えています。そして、この終わりの時の最後に、救いが完成されるということをダニエルは預言しました。それは、すなわち、キリストの再臨です。

Ⅰテサロニケ4:16-17「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」

世の終わりの苦難の期間の最後に定められた時が満ちると、イエス・キリストが再びこの世に戻って来られるということを聖書は伝えています。「神のラッパ」が鳴り響く時、天からイエス様ご自身が降って来られるのを、すべての人が見ることになります。その時、「キリストに結ばれて死んだ人たち」、つまりその時までに主を信じて天に召された人たち、がまず最初に復活し、「わたしたち生き残っている者」、その時に生きて主を信じている人たちが、一緒に空中で主イエス・キリストと出会うために引き上げられてゆくということが起こります。

私たちがイエス・キリストを信じて救いを得るということは、私たちがただこの世において、心の平安を得るということではありません。この世がすべて終わる時に、イエス様がもう一度戻って来られて、神様が支配される新しい天と地に生きる者となるということです。そこには「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、とヨハネの黙示録は伝えています。そのように、私たちは完全にこの世の苦しみから解放された天の御国に引き上げられるということを聖書は約束しています。

13節「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」

私たちの人生にはそれぞれ終わりの時があります。それと同じように、この世界にも終わりの時があります。その「終わりの時」は、神様を知らないこの世の人々にとっては、死と滅びの時であります。しかしこの箇所で、イエス様を信じて神様の救いを得る私たちにとって、終わりの時は「憩い」の時となると言われています。私たちは神様のもとで永遠に憩うことができる存在であるということです。そしてそれだけでなく、最後には「お前は立ち上がるであろう」と言われています。ここで「運命」という言葉が出てきますが、この原文の言葉は「受ける分」「割り当て」という意味です。私たちは天に上げられる時、ただ憩いを得るだけでなく、神様が用意しておられる「受ける分」「割り当て」を得て立ち上がることができるということです。これが実際にどのようなものなのか、私たちは今直接見ることができませんが、神様はイエス様を信じる一人一人が天で豊かな報いを受けて生きることができるようにしてくださいます。

 

3.伝道の時

このように、聖書が伝える終わりの時とは、苦難の時の末に、イエス・キリストの再臨という救いの業が起こされる時です。

そうであれば、終わりの時に向かっているこの世に生きている私たちは今、どのように生きてゆけばよいのでしょうか?

3節「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」

「目覚めた人」とは、「理解した人」という意味の言葉です。つまり、神様の救いの計画を理解した人、という意味です。それは、終わりの時にはこれまでにない苦難がある、しかし最後にはイエス・キリストの再臨を通して、神の国が完成されるという神様のご計画を理解し、信じる人たちのことです。

そして、私たちがそのように神様の救いの計画に「目覚めた人」であるならば、この世にあって、大空の光、闇夜の星のように、輝いて生きる者となります。それは、私たちが、イエス様の光、救いの知らせを、暗闇の中にある人々に伝えてゆく人となってゆくということです。

創世記は、太陽や月、空の星々のすべては、神様によって目的をもって造られたということを伝えています。その目的とは、この地を照らすため、「季節のしるし、日や年のしるし(創世記1:14)」となるため、ということでした。私たちは、日が昇ると一日が始まったということが分かりますし、星が出ると今がどんな季節かを知ることができます。そのように神様は、太陽や月、空の星々のすべてを、御自身の目的のために造られました。それと同じように、神様は、私たちの一人一人を、御自身の目的にために造られました。その目的とは、イエス・キリストを信じることを通して、私たちが神の光をこの世の暗闇の上に照らしていくということです。イエス様を知らず暗闇の中にある人々に神様の福音を伝えていくということです。

ダニエルは、バビロン帝国に来た時には、一人の少年でした。しかし彼には、神様の知恵と力が与えられ、激しい迫害の中でも主に従い続ける信仰を証しし続ける人となりました。彼はまさに、大空の光、闇夜の星のように、主なる神様の輝きを照らしだす人生を送る者となりました。

私たちはどうでしょうか。今、私たちが置かれているそれぞれの所には、様々な苦しみや暗闇があり、それが日々ますます強まっているということを、経験しているのではないでしょうか。しかし、そのような中で、神様は私たちの一人一人を、暗闇を照らす光として、用いようとされています。私たちは、そのような神様の招きに応え、イエス様の光によって、自分自身の内にある暗闇、周囲の暗闇を照らしてゆくものでありたいと願います。

そして私たちが特に覚えるべきことは、この終わりの時、最も闇が深まる時というのは、私たちの生きる今よりも先の時代であるということ、言い換えるなら、その時代を生きてゆくのは、私たちの次の世代の子どもたちかもしれないということです。私たちが、また私たちの次の世代の子どもたち、さらに後の世代の人々が、この世の暗闇から救い出されるように、また、ダニエルのようにその救いを証ししてゆくことができるように、私たちは日々祈り、福音を伝えてゆきたいと思います。それぞれの教会に、私たちの一人一人に、神様から与えられた目的、使命があります。それを果たして行くときに、神様はイエス・キリストの光をこの世の暗闇の上に輝かせてくださいます。