重荷を手放す

2021年5月16日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録15章1~21節

使徒言行録15章は、エルサレムで行われた使徒会議について伝えています。聖書の中で、会議について書かれていることは稀であると思いますが、それはただ人が集まって何かを決定したということではなく、神の霊の導きの中で、重要な事柄が決められていったということです。このエルサレム会議では、異邦人、すなわちユダヤ人以外でクリスチャンとなった人たちに関する一つの重要な決議がなされました。それは、異邦人がクリスチャンとなる場合、ユダヤ人の律法をすべて守る必要はないということです。現在の私たちがそうであるように、人は皆、ただイエス様を信じることによって、無条件で救われるのだということが確認されました。

どうしてこのような議論が起こったのでしょうか。

それは、異邦人が無条件で救われることを問題視する人々がいたからです。

1節「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」

この話の舞台は、アンティオキアという場所です。ここは、サウロやバルナバの宣教によって、多くの人々がイエス様を信じるようになった場所でした。その救われた人々の内の多くは、ギリシャ語を話す異邦人でした。そのような異邦人のクリスチャンたちに、ユダヤからやって来た人々は「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言いました。

このような「○○しなければ救われない」という考えは、世の中の宗教一般の根底に流れている考え方であると思います。

「善い行いをしなければ救われない」「一生懸命修行して心を清めないと救われない」、このような主張は、ある意味とても分かり易いものです。特定の行いをすれば、又は、特定の宗教儀式をすれば救われるという教えは、分かり易いだけでなく、人に達成感を与えます。それゆえ、ほとんどの宗教は、このような教えを教えています。

しかし、今日の箇所でこのことを主張している人々は、イエス様を信じるクリスチャンです。彼らは、ユダヤ人から、イエス様を信じるクリスチャンになったのでした。クリスチャンになった彼らがこのような教えをしていたということは、当時の初代教会の中に、もうすでにこのような異端的教えが入り込んで来ていたことを示しています。

ところで、この「〇〇しなければ救われない」という考え方は、教会の歴史の中で繰り返されてきたことでもあります。例えば、中世の教会は、免罪符というものを発行しました。これは、免罪符を購入すれば、犯した罪が軽減されるというものです。その背景には、お金や善行を積むことで、救いに近づくことができるという考え方があります。苦しみの中にある民衆にとって、このような教えはとても分かり易く、広く浸透しました。

このように、行いによって救われようとするのを、律法主義と呼びます。律法は、神から与えられたものですが、律法主義は人間が作り出したものです。それは、福音が語られ始めてから今に至るまで、人間が直面してきた問題です。今日の箇所で、ユダヤからやってきた人々が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と言ったように、私たちも「○○しなければ救われない」、「〇〇しなければ祝福されない、罰を受ける」といった考え方をしてしまうことがあるかもしれません。それは、福音を聞いてもなお、行いによって救われようとしてしまう、人間の罪の性質を示しています。

しかし、行いによって救われ得ないということは、私たちの誰もが知っていることであり、それは、ユダヤ人たち自身が一番よくわかっていることであると思います。

10節「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか」

ここでペトロは、使徒たちの代表として立ち上がって、意見を述べています。彼は、自分たち自身が、律法を守れないことを良く知っているのではないかと論じています。軛(くびき)とは、家畜を馬車や牛車につなぐために首に懸ける木の棒のことです。ここでペトロが「軛」と言っているのは、律法のことです。律法を完全に守ることは、使徒たちにも、その先祖たちにもできなかった、そのことは、旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を見れば明らかなことです。そこには、神の掟に背き続けた人間の罪の歴史が赤裸々に書かれています。

そして、ペトロが指摘しているように、私たちもまた、イエス様の教えをすべて自分の力で守ることができる者では到底ありません。

ところが私たち人間は、そうと分かっても、自ら負うことのできない軛を背負おうとしてしまう者です。この「軛」は、今日の箇所の直後の15章28節では「重荷」と表現されています。なぜ、人は負いきれない軛、重荷を負おうとするのでしょうか?そこには、私たちの先祖も、その先の先祖も、同じ重荷を背負ってきたという、プレッシャーも存在していると思います。重荷は、世代から世代へと受け継がれてゆき、それを手放すことは、自分の力ではもはやできなくなります。だから人は、先祖が負いきれなかったからこそ、自分でもその重荷を背負い続けてしまいます。そして、自分では負いきれないその重荷を、今度は他の人にも負わせようとしてしまいます。今日の箇所に出て来るファリサイ派の人々のように、「あなたがたは○○しなければ救われない」と、人に重荷を負わせてしまうのです。

そのような重荷の負の連鎖から、人はどのように抜け出すことができるでしょうか?

マタイによる福音書11章28~30節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

イエス様は、すべての人が軛や重荷を負っているという事実を、まず認められました。そしてそれらは、人間が自分で負うべきものではなく、イエス様ご自身が十字架で負って下さるものだと言われました。イエス様は「わたしのもとに来なさい」と言われて、私たちが負っている負いきれない重荷を手放すように、招いておられます。私たちはこのお方のもとにすべてを手放すとき、本当の「安らぎ」を得ることができるのです。

ペトロは、そのようにイエス様にすべてを手放すことのできる「恵み」を知りました。それで、今日の箇所の11節で「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と語っています。この「恵み」は、何人であろうと関係なく、すべての人に与えられました。これを「恵み」と呼ぶのは、受ける側の私たちには、何の条件もいらないからです。ただ無条件で与えられるもの、それを恵みといいます。私たちはただこの恵みを信じることによって救われる者とされています。

 

この恵みは、どれだけ知識として理解しても、実際に受け取るまでは、本当の意味での恵みとはなりません。それはこのペトロ自身が経験したことでした。彼は、元々は、どちらかというと自分で重荷を背負ってしまうタイプの人であったと言えると思います。ペトロは、他の皆が裏切っても、自分だけはイエス様に従いますと豪語しました。しかし結局彼は、イエス様が捕らえられると、イエス様のことを知らないと三回言ってしまいました。その時彼は、自分の力の限界、弱さを思い知ったことでしょう。ところがそのようなペトロのもとに、復活したイエス様が現われて下さって、彼を愛で包み、再び立ち上がらせて下さいました。イエス様はペトロに、「あなたはわたしを愛しますか」と三回言われ、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。その時、ペトロは、自分のありのままを愛して、用いて下さる主の恵みを体験しました。そして、恵みによって救われたということを知ったペトロは、その恵みを伝えていく器とされました。そしてペトロは、自分だけでなく、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも、同じ恵みが注がれているということを知りました(使徒言行録10章)。

このエルサレム会議は、最後にヤコブが御言葉を引用して、決議へと導かれました。

16~18節「『その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。』昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる」

ここで引用されているのは、旧約聖書アモス書の9章11~12節です。この御言葉は、メシアの到来によって、異邦人も救いに入ることができるようになるという恵みを伝えています。この御言葉だけでなく、聖書は一貫して、すべての人に注がれている神の恵みを伝えています。しかし旧約聖書に精通していたユダヤ人も、多くの人はその福音の真理を理解することができませんでした。それは、御言葉を恵みではなく、重荷として受け取ってしまったことに原因があると言えます。これは私たちも経験することです。御言葉を読むことや聞くことは大切ですが、気が付くと、御言葉を「自分が守らなければならない教え」のように捉えてしまうことがあります。そうであれば、御言葉は恵みではなく重荷となり、それは自分の心の中でますます重くなっていきます。そして、その結果として、他の人にも重荷を背負わせるようにすらなってしまいます。

しかし、御言葉を恵みとして受け取るなら、私たちはその逆のことを経験します。御言葉はわたしたちを重荷から解放し、そのことにより私たちの周囲の人々も、重荷から解放されてゆくでしょう。このエルサレム会議を通して、人々は、イエス様を通して与えられている恵みを受け取ることで一致しました。そのことによって、異邦人は、律法の重荷を背負わされることなく、ただイエス様の恵みによって救われるということが確認されました。そして福音は、驚くべきスピードで、全世界へと伝えられてゆきました。私たちもまた、あらゆることで、重荷を背負ってしまうことがあるかもしれません。しかし、御言葉は、イエス様を通して、私たちをその重荷から解放することができます。私たちがその恵みを受け取り、重荷を主に手放してゆくとき、福音の恵みは、喜びと感謝をもって、より多くの人々に伝えられてゆくでしょう。