門を開く祈り

2022年6月26日 礼拝メッセージ全文

コロサイの信徒への手紙4章2節~6節

1.祈り合うことの力

2節「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」

神様は、私たち人間が「ひたすらに」祈り続けることを願い、求めておられます。

神様は、全知全能であり、何でもできるお方です。しかし神様は、私たち人間が祈りを通して、神様の働きに参与することができるようにして下さいました。それは私たち自身の力によってではなく、私たちのために十字架で命を捨てて、三日目によみがえってくださったイエス・キリストというお方の御名によって私たちが祈る時に、可能になりました。だから私たちは祈る時、単に願い事を神様に伝えているのではありません。イエス・キリストの御名によって、神様がこの祈りを聞き届けてくださる。そう信じて、祈り続けることができます。

しかし、そのようにして祈る私たち自身は、弱い存在です。祈る中で、ひたすらに祈り続けるのがいかに難しいことか、気づかされる者です。だからこそ私たちは、同じようにイエス様の御名によって祈る他の人々の執り成しの祈りを必要としている者です。今日の箇所を読むと、パウロもそのような祈りを必要としていたことが分かります。3節でパウロは「同時にわたしたちのためにも祈ってください」と書いています。

「祈りなさい」と人々に教えたパウロは、自分の信仰が多くの人々の執り成しによって守られていたということを、謙遜に受け止めた人でした。そのような祈りに強められてこそ、彼は大胆に教え、祈り続けることができたということです。

私は今回、息子の病気のことで、本当に多くの方々にお祈りをしていただくという恵みを体験することができました。水戸教会の皆様だけでなく、北関東地方連合の教会の先生方、そして、これまでお世話になった日本各地の教会の方々、また海外の教会の方々が、今もお祈りをしてくださっていることを心から主に感謝しています。しかし、そのような恵みの中で、神様が示されたことがありました。それは、私たちのためにお祈りくださるそのお一人お一人も、同じように祈りを必要としておられるということです。ある教会の先生は、私が息子のことでメールをした時、手術の直後で入院中ということでした。それにも関わらず、力強い励ましの言葉をくださいました。またある別の教会の方も、私たちのことを他の人から聞いて心配して、電話をかけてくださいました。話を聞くとその教会のまだ若い宣教師が召天されたばかりであったことを知りました。このような出来事を通して、私は、多くの方々にお祈りくださっていることを感謝すると共に、自分もそれらの方々のためにもっと祈らなければならないなと思わされました。まず私自身が、多くの方々から執り成して祈っていただいているからこそ、自分もまたその恵みを受けて、他の人々のためにお祈りができるようになるのだと思いました。これは、単なる人間同士の助け合いではなく、そこに聖霊の働きが起こされてゆくということです。イエス様の御名によって祈り合うことを通して、私たちは聖霊の力をより身近に感じてゆくことができます。

 

2.門が開かれるように

今日の箇所は、そのように私たちが祈り合うことを勧めていますが、パウロは、特に何のために祈るように教えているでしょうか。

3節「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています」

ここでパウロは、「神が御言葉のために門を開いてくださる」ように、祈ってくださいと言っています。これは、まず、御言葉を伝えるための機会が与えられるように、祈ってくださいということです。

この時パウロはどのような状態であったでしょうか。彼は牢屋の中にいたのです。しかしパウロは、自分が牢から出られるように祈ってくださいとは言いませんでした。かえって、「このために、わたしは牢につながれています」と言いました。普通に考えれば、御言葉を多くの人に語り伝えるためには、牢屋から出た方がいい訳です。でも彼は、自分が牢につながれていることで、かえって「わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」なると確信していました。それゆえにこそ、パウロは、自分の捕らえられている牢の門が開かれることではなく、御言葉のための門が開かれるように祈り、また祈ってくださいと願ったということです。

私たちも、神様の御心に従ってゆくとき、色々な場面で「牢につながれる」という経験をすることがあります。それは、実際に牢屋に入れられるということに限らず、様々な不自由や障害に行き当たったり、自分の願いとは違う方向に事が進んだりすることです。そのような中で、神様は私たちを見捨てられたのではなく、かえってその状況の中でこそ、福音を語る機会を与えてくださいます。

5節「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」

自分がどこに置かれているとしても、その「時」つまり機会を、よく用いなさいということです。そして、その時々に私たちが出会う人々、ここでは「外部の人」に対して、知恵をもって接しなさいと、パウロは勧めています。

ここで、「外部の人」という言葉が出てきます。これだけを聞くと疎外感を感じる表現にも思われるかもしれません。しかし、「外部の人」とは、自分とは関係ない人々という意味で言われている訳ではありません。それは、3節に出てくる「御言葉のための門」という言葉から示されるように、御言葉の「門の外にいる人々」という風に私たちは受け取ることができます。私たちは誰でも、イエス様という門を通ってこの中に入ることができる者です。イエス様はおっしゃいました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる(ヨハネ10:9)」。これには誰も例外がありません。私たちの一人一人も、そしてこのパウロも、みんな同じ門を通って、中に入った者であるということです。そこに優劣も上下も一切ありません。パウロという人がどのように救われたのかと思うと、彼は、イエス様に出会った時、目が見えなくなり、周囲の人々に手を引いてもらって、やっとのことでこの門を入ったような人物であった訳です。それは私たちの一人一人も同じではないでしょうか。ただ神様の一方的な憐れみによって、そして自分のために祈ってくれた多くの人々の執り成しによって、私たちもイエス様という門を入る者となりました。

そのようにイエス様を信じて歩みだした私たちはまた、かつての自分と同じ様に、この門の前に立っている人に出会ってゆきます。神様は、私たちが日々そのような人々と出会う機会を、「よく用いなさい」、そしてその時に「知恵を求めなさい」と願っておられます。でもこれは、自分の力では決してできることではありません。どんなに私たちが福音を伝えたいと願っても、その人々のために救いの「門」を開くのは私たちではありません。3節で「神が」御言葉のために門を開いてくださるように、と言われているように、この門を開かれるのは、神様ご自身です。だからこそ、私たちは、この門が開かれるよう祈ります。そして、わたし自身がこの門を通った時、そこに数多くの人々の祈りがあったように、今も、わたしのために祈っている人がいます。時が満ちれば、神様は必ずその祈りを聞いてくださいます。そして私たちは、自分の目の前の門が開かれてゆくのを見ることができるのです。

 

3.しかるべく語れるように

そして今日の箇所でパウロが「祈ってください」とお願いしたもう一つのことは何でしょうか。

4節「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」

パウロは、神様から与えられた機会に、「しかるべく」語ることができるように祈ってくださいと願いました。これは、具体的には6節に言い表されていることです。

6節「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」

「塩で味付けされた言葉」とは何でしょうか。実は聖書の中で、塩は色々な箇所に出てきます。その中で、旧約聖書のレビ記を見ると、穀物を献げものとして献げる場合には、塩をかけて献げなければならないという決まりがあったことが分かります。つまり塩をかけられることによって、その献げものは、神様のために清められたもの、神様のために取り分けられたものとされることができたということです。このように、塩は、物事を清め、神のために取り分ける、つまり「聖別する」ためのものとして用いられています。

今日の箇所でパウロは、この「塩」で味付けされた言葉で語りなさいと言いました。それはつまり、どんな時も、この世に帳尻を合わせるのではなく、あくまでも神によって清められた者、神のために取り分けられた者として語りなさいということです。

ではそれは、具体的には私たちがどのように語るということなのでしょうか。6節の言葉をよく見ると、塩で味付けされた「快い」言葉で語りなさい、となっています。この「快い」というところの原文では、「恵みによって」という言葉が使われています。つまり、「塩で味付けされた言葉」で語る、ということは、「恵みによって」語るということだということです。私たちクリスチャンが、本来の塩味をもって語るなら、つまり「神様に取り分けられた者」として言葉を発するなら、それは決して塩辛過ぎるものにはならず、かえって聞く人に恵みを与える快いものになるということです。

それはなぜでしょうか。この世の中で、清いこと、綺麗ごとや理想だけを語れば、それは人に快いものとして受け入れられることはありません。しかし、イエス様にある本当の塩味、清さは、人々に恵みをあたえるものです。それは、イエス様が、完全に清い方であるのと同時に、十字架ですべての罪汚れを私たちのために負ってくださった方だからです。神様の清さは、人間の罪を明らかにします。しかしもし、それだけであれば、その言葉は塩辛過ぎて、誰も救われることはできません。でも神様は、御子イエス様によって、だれでもこの方を信じるなら、罪赦される者となることができるという恵みを与えられました。そして私たちが、このイエス様の恵みによって、その塩味によって語るなら、私たち自身の言葉の中にも、塩辛さの内に神の恵みが表されてゆきます。それはつまり、私たちの罪が示されると同時に、それらすべてを赦してくださるイエス様の恵みを伝えられてゆくということです。

私たちが言葉を語る時、人々に接する時に、そのようなイエス様の塩味が伝えられてゆくように、お祈りをしてゆきたいと思います。このことも、私たち自身の力や知恵によっては、決してできることではありません。でもイエス様が私たちと共にいてくださり、私たちがイエス様の御言葉にとどまってゆくならば、このようなイエス様の恵みと清さが同時に伝えられ、人々が救われてゆくことができる、このことを信じることができます。

このように信じるからこそ、私たちは今日の箇所の初めの部分に引き戻されてゆきます。私たちの一人一人は祈りを必要としています。それと同時に、多くの祈りを必要としている方々がおられます。その人々に対して、私たちが、時をよく用いて、そして、イエス様の塩味によって、語ってゆくことができるように、互いにお祈りをしてゆきたいと思います。その時に神様は、私たちの祈りを聞いて下さり、救いの門が開かれてゆくのを見ることができます。