魂を救う神の言葉

2021年7月4日 礼拝メッセージ全文

ヤコブの手紙 1章19~27節

7月になりました。今月から、第一礼拝前の10時20分から、礼拝堂で子ども礼拝をオンラインとの併用で行うようになりました。コロナ禍にあって、すべての子どもたちが集まれる状況にはまだ時間がかかりそうですが、私たちはあきらめずに祈りつつ礼拝を続け、子どもから大人まで、すべての人々がまたこの礼拝堂に集まれる日が来ることを祈り続けたいと思います。

さて、7月は新約聖書ヤコブの手紙を読んでいきたいと思います。

21節後半「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」

神様の言葉は、私たちの魂を救うことができる、と聖書は伝えています。

「救い」とは何でしょうか?私は、この「救い」とは何かが知りたくて、色々な本を読んだり、宗教のことについて勉強したりしました。でもどんなに学んでも、そこに本当の「救い」はありませんでした。また、「救い」を求める魂の渇きは、どんなに一生懸命に仕事に打ち込んでも、どんなに友達と遊んでも、満たされることはありませんでした。そんな中、私は会社に入って2~3年目の頃、教会に行くようになり、イエス・キリストを通して救いが与えられるということを聞き、それを信じました。そしてそれからしばらくして、私は、この救いを他の人々にも伝えるために、神学校に入り、フルタイムの伝道者として献身したいと願うようになりました。そして当時勤めていた会社を退職することになったのですが、私はそれまでお世話になったその会社の重役の方に挨拶をしに行きました。その方は、私の話を聞いた後で、自分も役職柄、色々な方々と交流があり、お坊さんなどとお話しをする機会もあると言われました。その中で一つ分かったことがある、と言われました。それは「宗教は『癒し』を与えることはあるかもしれないが、『救い』を与えることはできない」ということでした。私は、とてもショックを受けましたが、すぐに反論することができずに、その場を後にしてしまいました。

しかし、改めて、聖書は何と言っているでしょうか?「御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と伝えています。「魂」とは何かを、明確に言葉で表現することは難しいかもしれません。聖書でいう「魂」とは、私たちの命そのもののことを指す言葉でもあります。また、私たちの感情や思いを含んだ、私たちの人格そのものを表す言葉でもあります。いずれにしても、目には見えない私たちの命や人格そのものである魂を、御言葉は救うことができるということです。この「救い」ということの中には、先ほどの重役の言った「癒し」ということも含まれています。御言葉は私たちの心や、体を癒す力を持っています。しかしそれだけではありません。「救い」とは、私たちの命、また人格そのものが癒され、解放されるということでもあります。そして「救い」はこの世のものだけでなく、私たちが死んでも生きるという永遠の命を与えられているということをも表しています。このように考えると、私たちがイエス様の御言葉を通していただいている「魂の救い」が、いかに大きなことであるかが分かります。

このような「魂の救い」を、私たちは御言葉を通してどのように受けているのでしょうか?

1 御言葉を聞く

「魂の救い」を受けるためにまず必要なこと、それは私たちが御言葉、すなわち神様の言葉を聞くということです。

19節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」

この箇所だけを読むと、「私たちはいつも黙って、人の話を聞いて、自分の感情を抑え込んでいなければならない」という風に感じるかもしれません。しかし、この箇所は、私たちが「何を聞いているのか」が大事であるということを伝えています。私たちが聖書を読む時に、礼拝をささげる時に、また、日常生活の中で色々な事を経験してゆく時に、神様が自分に対して何を語っておられるのか、を聞くことが大切であるということです。そうする時に、結果として、話すのに遅く、怒るのに遅くなっていくということです。

このことが示しているように、私たちが神様の言葉を聞くことには時間がかかることが多いと思います。そして、そのために忍耐が必要とされます。それは何が原因かと言うと、21節前半に書かれているように、私たちの心の中には「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」が存在しているからです。神様の言葉を聞いているけれども、それを受け取ることができない理由がここにあります。

イエス様は、「種を蒔く人のたとえ(マタイによる福音書13章1~23節)」の中で、このことについて語っておられます。ここでイエス様は、御言葉を「種」にたとえています。種が一面に蒔かれるように、御言葉は私たちの心に蒔かれていると、イエス様は語られます。しかし多くの種は実を結ぶことができません。それは、ある種が道端に落ち、鳥が食べてしまうように、悪魔が蒔かれた御言葉を奪い取ってしまうからです。また、ある種が石だらけの地に落ち、根を張らずに枯れてしまうように、御言葉を受け入れても艱難や迫害のためにすぐつまずいてしまうからです。また、ある種が茨の間に落ちて塞がれてしまうように、思い煩いや誘惑が御言葉の種を塞ぎ、実を結ぶことができないからです。しかし、良い土地に落ちた種が多くの実を結ぶように、御言葉を聞いて悟る人は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶようになると言われています。このイエス様のたとえ話が示しているように、神様はいつも、あらゆることを通して、私たちに語り、御言葉の種を蒔いておられます。そして、今日の箇所、21節にあるように、この御言葉は私たちの「心に植え付けられ」ています。ところが、私たちの生きるこの世は、神様のものではない「人の言葉」で満ちています。朝起きてから夜寝るまで、私たちは色々な人の言葉に接して生きています。また、何かを知りたいと思ったら、今はインターネットで調べれば、簡単に世界中の人の意見や情報を得ることができます。そのようにあふれる「人の言葉」ではなく、あくまで「心に植え付けられた御言葉」を受け入れるように、今日の箇所は教えています。なぜなら、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができる」からです。

2 御言葉を行う

このように、今日の箇所はまず、私たちが神様の言葉を聞いて、それを受け入れることの大切さを教えています。

それと同時に、22~27節で語られている、もう一つのことを見てみたいと思います。

22節「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」

ここでは、御言葉は聞くだけのものではなく、行うためのものであると言われています。これは何か、前半の箇所とは真逆のことを言っているようにも思われます。前半では「聞くのに早くありなさい」と言われ、後半では「聞くだけで終わってはいけない」と言われている。これは、どういうことなのでしょうか?

この22節の御言葉は、私たちが「どのように」御言葉を聞いているのか、を問いかけている箇所であると言えます。私たちは御言葉を、どのように聞いているでしょうか?今日の箇所によるならば、そこには、二通りの聞き方があるということです。まず一つ目の聞き方は、23~24節に書かれているように、御言葉を聞いても、それをすぐ忘れてしまうような聞き方です。ここで、そのような人は、鏡に映った自分の顔を眺める人のようだと言われています。このたとえが示すように、御言葉とは、鏡のように、私たちの自分のありのままの姿を映し出すものです。御言葉を聞くことは、見たくない自分の罪や弱さを見ることでもあります。しかし、鏡の中に映った自分の像が、自分とは別の存在であるように、御言葉によって示された自分のありのままの姿を受け入れず、その前から立ち去ってしまうなら、その人は聞いても忘れてしまう人だとこの箇所は伝えています。私たちはそのように御言葉を聞いてはならないということです。

それではどのように聞いたらよいのでしょうか。その聞き方が、25節に示されています。

25節「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」

ここで、「一心に見つめ」と言われています。23~24節の「眺める」と対照的な言葉です。これは原文では、「かがんで見る」という言葉です。私の息子も1歳半を過ぎ、色々なことに興味を示すようになってきました。最近では、地面を這う虫を、かがみこんで一生懸命に見ています。そのように「かがんで見る」とは、子どものように、集中して見つめる姿勢を表しています。「律法」すなわち神様の言葉を、それほどまでに集中して聞くということ、それは、語られた御言葉を自分のこととして聞くということです。鏡の中の自分のように、どこか他人の事のように聞くのではなく、自分のこととして聞くということです。そしてこの箇所には「これを守る人」とも書かれています。「守る」というと、教えを自分の力で一生懸命守るという風に思えますが、これは原文では「とどまる」という言葉です。御言葉を自分のこととして聞いて、そこにとどまるということです。

そのように、御言葉のもとにとどまるとは、鏡に映された自分の姿の前にとどまるということです。これには忍耐が必要とされます。そこから逃げ出したくなることもあるかもしれません。しかし今日の箇所は、あくまでも御言葉のもとに、とどまるように私たちを招いています。その御言葉は、「自由をもたらす完全な律法」、私たちに完全な自由を与える言葉であるからです。御言葉によって示された弱く、不完全で、罪にあふれた自分の姿、それは、イエス・キリストの十字架によって、すでに贖われ、赦された自分の姿でもあります。だから、私たちは、鏡に映った自分の姿に、もはや支配されてはいません。御言葉は、私たちを裁くためではなく、救うために、イエス様を通して私たちに与えられています。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8:31-32)」

この御言葉が示しているように、御言葉は、私たちに罪から解放された本当に自由な生き方を教えます。そして私たちはただその教えを聞くのではなく、実際にそのような自由な人生を生きることができる者とされています。これこそが、御言葉によって魂に救いをいただいた者の生き方であると言えます。

今日の箇所の最後の26~27節には、「信心」という言葉が出てきます。これは、新改訳では「宗教」と訳されています。これは、外面に現れる信仰を表しています。もし私たちが神様を信じると言いながら、それが外見上の「宗教」ということだけにとどまっているならば、そのような信仰は無意味である、とこの箇所は伝えています。しかし、これまでの箇所から示されているように、イエス・キリストを通して与えられる救いは、ただの外見上の「宗教」ということではなく、私たちの魂に本当の自由と解放を与えることのできる御言葉を伝えています。私たちはそれをただ聞くだけでなく、その言葉を聞いて、そのもとにとどまって、それを行うことによって、私たちの「信心」、すなわち、イエス様を信じる心が、単なる外見上のものではないということを確認してゆきます。このような魂の救いを与える神の言葉を聞くのに早く、そのもとにとどまるものとなりたいと思います。