執り成しの祈り

2021年10月24日 礼拝メッセージ全文

詩編72節1~20節

1.ダビデによる執り成し

1節「ソロモンの詩。神よ、あなたによる裁きを、王に、あなたによる恵みの御業を、王の子に、お授けください」

この詩は、「ソロモンの詩」となっていますが、内容を見ると、むしろソロモンのためにダビデが書いた詩であったと思われます。20節には「エッサイの子ダビデの祈りの終り」とあります。ダビデは、高齢になったとき、息子であり後継者であるソロモンのために祈り、このような言葉を遺したのだと思います。

私たちがもし、自分の子どものために祈ることがあるとしたら、その最初に祈ることは何でしょうか。ここでダビデの祈りはまず、「あなたによる裁きを、王に、あなたによる恵みの御業を、王の子に、お授けください」というものでした。つまり、神の知恵によって正しく人を裁くことができるようにと、これから王になるソロモンのために祈っています。それだけ、王の働きというのは、イスラエルの民にとって重要なものであり、王の良し悪しによって、イスラエルの進む道は大きく変わりました。それゆえに、この詩編の王に対する祈りは、ダビデがソロモンのために祈ったときだけでなく、イスラエルの歴史を通して、民の王に対する執り成しの祈りとなりました。

この箇所から、私たちは執り成しの祈りについての大事な教えを学ぶことができます。それは、執り成しの祈りとは、第一にその人が神様に従って正しく歩むことができるようにと祈ることであるということです。

7節「生涯、神に従う者として栄え、月の失われるときまでも、豊かな平和に恵まれますように」

ふだん私たちが執り成し祈る人のためにまず願うことは、その人の上に平和があるようにということではないでしょうか。7節には「平和」という言葉がありますが、聖書原文のヘブライ語では「シャローム」という言葉です。この言葉は、肉体的、精神的、霊的な意味において平和が与えられるということを指します。その平和は、人間の力によって作り出されるものではなく、神様に従うことを通して、恵みとして与えられるものです。このことは、ダビデ自身が、その生涯を通して経験したのだと思います。自分の力で、自分の目に良いと思われることを行っていく人生は、一見気ままで楽しいものですが、そこに本当の意味での平和はありません。ダビデも多くの失敗を犯しましたが、最終的には、主に従うことが最も大切なことであると悟り、そのように神に従って歩むことができるように、ソロモンのために執り成して祈りました。

 

2.イエス様による執り成し

このような執り成しの祈りを、私たちのすべてが必要としています。今日の箇所は、王のための執り成しの祈りですが、これは、私たちのための祈りでもあります。私たちがどのような人間であるか、どのような職業についているかに関わらず、神様は私たちを「王」として用いようとしておられるからです。

ヨハネの黙示録1:5-6「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」

私たちは誰もが、「主イエス・キリストの十字架の死はわたしの罪のためだった」と信じる時に、イエス様の血潮によって罪から清められ、解放されます。それは私たちの一人一人が、神の器として、神の栄光を現わしていくようになるためです。この箇所では、イエス様の贖いによって、私たちは「王」「祭司」とされていると言われています。今日の箇所との関連では、特に私たちが「王」とされているということに目を留めたいと思います。

聖書の言葉は、ある特定の時代に、ある特定の人によって書かれたことに間違いありませんが、しかしその言葉は、神様自身の言葉として、私たちの一人一人に向けられたものであります。今日の箇所で、ダビデ王からソロモン王に向けられた祈りは、イエス様から私たちに向けられた祈りでもあります。

今日の箇所を読む時に、私たちは王に対するあまりにも大きな期待に、戸惑うかもしれません。

8節「王が海から海まで、大河から地の果てまで、支配しますように」

11節「すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように」

全地を支配するような王の姿は、自分には関係がないと思われてしまうかもしれませんが、これは、全地に及ぶ、神様の権威について教えています。王は、神から権威を与えられた存在として、全地を、そしてそこに住むすべての人々を治める者とされています。このことが、真の王である主イエス・キリストが来られたことによって、成就されました。そしてこの神の権威が、私たちに与えられるようになりました。それは、主であるイエス様の御名の権威です。私たちの一人一人は、弱く小さな罪人です。しかし、イエス様の御名の権威によって、私たちは神の栄光を現わす王として、遣わされた場所で用いられてゆくことができます。

ローマの信徒への手紙8章34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」

イエス様が、私たちのために、神の右に座って執り成していて下さいます。私たち自身には何の力も権威もなくても、イエス様が私たちのために執り成しておられるということによって、私たちは力をいただいて、今日を生きることができます。

 

3.わたしたちの執り成し

このように、イエス様によって罪赦され、そして執り成されている存在である私たちは、その恵みを受けて、人々を執り成す者として召されています。

15節~17節には、イスラエルの民が、王のために常に祈っていたという姿が表されています。それは、王が神様の祝福を受けますように、そして、その祝福が国全体に及びますようにという祈りでした。このように、執り成しの祈りというのは、祈られた人のところだけで留まるのではなく、その祝福が、祈る者にも、そしてその周囲にも流れ広がってゆきます。

私たちは、主であるイエス様から日々執り成されて生きておりますが、それは、私たちがその赦しの恵みをいただいて、他の人々のために執り成して祈ることのためでした。

執り成しの祈りとは、私たちがその人のために自分の力で何かをしようとするのをやめ、それを祈りに変えるということです。私たちは、人に何かをしたい、人に何かをしてもらいたいという時に、それを言葉で伝えたり、実際にそれを行ったりすることがあるかもしれません。しかし、それよりもはるかに難しいのは、それらを主の御手に委ねて、その人のために執り成し祈るということです。これは、私たちが自分の力で生きることをやめること、自分に死ぬということです。

ダビデも、息子ソロモンのために、数多くの教えや、財産を遺したと思います。しかし最も価値があったのは、彼のために執り成し祈ったこの詩編のような祈りでありました。イエス様が私たちにしてくださった最も重要なこと、それは、私たちのために十字架で死んでくださったということです。イエス様は、神の子として全能の力を持っておられたのに、それをすべて捨てて、私たちのために死んで下さいました。それは、父なる神様の御前に、私たちを執り成すため、私たちの罪が赦されるためでした。そして、死から復活されたイエス様は今も、私たち一人一人のために、執り成し祈っておられます。神様は、私たちが、このイエス様の執り成しの恵みを受け取り、その恵みによって、他の人のために執り成して生きるようにと招いておられます。それは、私たちが自分の力に頼って生きるのではなく、神様の力に頼って生きるように、変えられてゆくということです。このような執り成しの祈りを通して、イエス様の恵みと祝福を私たちは経験してゆきます。