日々新たにされて

2022年6月19日 礼拝メッセージ全文

コロサイの信徒への手紙3章5節~17節

1.新生の体験

9~10節「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」

この聖句は、今年度私たちの教会の年間聖句として選ばれた御言葉です。私たちの教会、そして私たちの一人一人が、主によって日々新たにされてゆくように願い求めます。私たちが新たにされてゆくのは、私たち自身の力によるのではなく、主であるイエス様の力によることです。この御言葉の中で、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」と言われています。これは、私たちが自分で「古い人」を脱ぎ捨て「新しい人」を身に着けるということではありません。それは今、私たちがイエス様を主であると信じているなら、私たちは「既に」古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けた、ということなのです。そのことは、この箇所の原文で、「脱ぎ捨て」「身に着け」という部分が、過去を表す形で書かれていることからも分かります。この手紙を書いたパウロは、コロサイのクリスチャンに向けて、あなたがたは、イエス様を信じたことによって、既に古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのだよ、と語りかけているということです。

このように、イエス様を信じて、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を着るということ、このことを教会では「新生」の体験と呼ぶことがあります。それは、イエス・キリストを信じることによって、私たちが新しく生まれるという体験のことです。このような体験について、パウロはガラテヤのクリスチャンに向けては、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテヤ2:20)」と書いています。私たちは、イエス様を主であると信じた後も、日々たくさんの罪を犯す者です。信仰を失いそうになってしまうこともあるかもしれません。けれども私たちは、イエスは主であると信じ告白したその時から、全く新しい人生を歩みだす者となっています。それは、わたしたちの古い自分が死に、キリストと共にある新しい自分が生きることとなったということなのです。パウロはそのように、このコロサイの人々が、既に古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を着るという新生体験をしたのだということを思い起こさせようとして、この手紙を書いています。それは、私たちに向けられた言葉でもあります。私たちが、イエス様を信じることによって与えられた新生の体験を思い起こすようにと、神様は今日私たちに語っておられます。

 

2.日々新たにされる(聖化の体験)

それと同時に、今日の箇所は、この「新しい人」が、日々新たにされてゆくものでもあるということを伝えています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです(10節)」。イエス・キリストを信じることによって、新しく生まれるという新生体験は、人生の中で一度きりの体験です。しかし、私たちは新しく生まれた者として、この地上の人生において、日々新しくされ続けてゆきます。どのように新しくされてゆくのかというと、「造り主の姿に倣って」、つまり、「万物は御子によって、御子のために造られました(コロサイ1:16)」と言われているところの、造り主であるキリストの姿にならって、新しくされてゆくということです。このことを、私たちが清められてゆくという意味で、「聖化」の体験と呼ぶこともある。そして、新生の体験が私たちの力によるものでなかったのと同じように、この聖化の体験というものも、私たち自身の力によるのではなく、キリストの力によるものです。

今日の箇所は、私たちがそのように日々新たにされてゆくという体験が、具体的にどのように進んでゆくのかを示しています。

5節「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」

ここでパウロはまず、「古い人」の特徴として、地上的なものに対する欲望に心が支配されている様子を示しています。その欲望とは、ここに第一に書かれているように、性的なことへの欲望が挙げられます。また、貪欲と言われていることの中には、金銭や名誉、快楽など、あらゆる「地上的なもの」への欲望も含まれていると思います。

これらのことを考えてみた時に、私たち自身の心の内はどうでしょうか。これらの欲望から全く自由にされたと言える人はいないと思います。しかし、そのように私たちが自分自身の貪欲の罪に気付けるということ自体が、まさしく神様の働きなのです。7節では「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」とある。私たちも、本当の神様を知らない時には、貪欲を罪として気づくことができませんでした。この世の欲望に従って生きること、それは世の中では人に迷惑をかけない限り、許されることであるかもしれません。しかし私たちは本当の神様を知る時に、貪欲ということがただ道徳的・倫理的な問題なのではなく、神様に対する罪であるということを知ります。なぜならそれは、神ではないものに心が支配されているということ、この箇所にあるように、偶像崇拝の罪であるからです。

 

私は、神学生の時に妻と出会い、結婚に導かれましたが、その婚約期間の間に、妻の実家である秋田を訪問したことがありました。その際、当時妻が通っていた教会の夜の祈祷会に参加しました。その教会はとにかく熱心に祈る教会で、私は自分の信仰がいかに生ぬるいものであったかを実感しました。そして、祈祷会の後教会からの帰り道の車の中で、私は心に刺さるような痛みを感じていました。どうしたの、と妻に聞かれて、私はその痛みが、自分が神学生でありながら、また、結婚を控えている身でありながら、いかにこの世の欲望に支配されているのかを悟ったことから来たのだと分かりました。私はその途端、子供のように大声で泣き始め、神様に悔い改めの祈りをしました。

今日の箇所でパウロは、地上的なものへの貪欲を「捨て去りなさい」と語りました。これは、私たち自身の力でできることでは到底ありません。しかし神様は、聖霊の働きによって、私たちの心の内に罪に対する気づきを与えて下さいます。また、悔い改めと神の助けを求める祈りをも与えてくださいます。そのようにして神様は、ご自身の力によって、私たちを新しい者にしてくださいます。これは、一度きりの体験ではなく、私たちが日々経験してゆくことです。そのようにして、私たちの心は日々、新たにされてゆくことができるのです。そのようにして変えられた私たちの心は、私たちの行いにも変化をもたらします。

8節「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」

ここでパウロは、この世の欲望に支配された「古い人」の心は、満たされないことへの怒りや人々に対する悪い思いを生むということを伝えています。ヤコブの手紙4章1節でも、私たちの間に戦いや争いが起こるのは「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因」であると言われています。私たちがどれだけ、戦いや争いを止めようと願っても、また、その原因となる怒りや憤りを消し去ろうと願っても、それは、私たち自身の力でできることではありません。やはり、私たちを内側から新しくしてくださる、キリストの力が必要なのです。イエス様は、私たちを全く新しい神の子とするために、十字架にかかり、死んでくださいました。そのことを信じる時に、まず私たちの内側の心が新しくされます。そしてその心は、私たちの外側に現れる、人に対する言葉や態度に変化をもたらします。今日の箇所の12節以降には、そのようにイエス様によって新しくされた人の姿が伝えられています。ここで語られているのは、私たちが自分の力によって達成するべき目標のようなものではありません。私たちはイエス様ご自身の力によって、このような姿へと日々新しくされているのだということを、今日覚えたいと思います。

 

3.愛による完成

しかし、そのように私たちが日々新たにされてゆく歩みの中で、決して忘れてはならない、最も大切なことが14節に書かれています。

14節「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」

私たちが日々新たにされてゆく歩みというものは、最終的には、キリストの愛によって、私たちが完成されてゆくということであるということを、この御言葉は伝えています。ここで「きずな」と訳されている言葉は、新改訳聖書では「帯」と訳されていて、すべてを結び合わせるものを表していると考えられます。それはつまり、神様の「愛」が、私たちの存在のすべてを統合するということです。

私たちは、イエス様の力によって「日々新たにされて」ゆく存在であります。しかし、この地上の人生を生きる限りは、決して完全な存在となることはありません。日々、様々な罪や過ちを犯しますし、古い自分に戻ろうとしてしまう時もあるかもしれません。でも、そのような私たちの一人一人を、イエス様は「愛」によって、統合された一人の存在としてくださるのです。イエス様が十字架にかかり死んでくださったということを信じる時、欠けがあり、弱さがあり、罪がある私たちの存在が、イエス様の愛によって統合され、完成されてゆくということを私たちは信じてゆくことができます。私たちはそのようなイエス様の愛を経験してゆくことができる者です。

私事ですが、私は、今日で結婚7周年を迎えることができました。本当に今日まで私たち夫婦を支え導いてくださった神様に感謝します。振り返ってみると、私にとって結婚生活というものは、イエス様の愛によって私自身が新たにされてゆくという経験であったのだと思います。自分にとって一番身近な存在である家族は、自分の良いところだけでなく、弱さや傷、新しくされていない部分についても、一番よく知っています。そのような関係の中でこそ、赦し合い、祈り合うことを通して、私たちは神様の愛を経験してゆくことができます。これは、結婚生活に限らず、私たちが神様の愛によって、隣人と向き合う時に私たちが経験することではないかと思います。私たちは皆、キリストの愛を知り、その愛によって、お互いに愛し合うように招かれています。それゆえに、今日の箇所に続く18節以降では、まず家族に対する愛、そして隣人に対する愛についての勧めが記されているのだと思います。その愛は、私たち自身を新たなものにしてゆくと同時に、私たちの家族を、隣人を、そして私たちの教会を新しいものとしてゆくということを信じます。

11節「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」

私たちの間には、様々な違いや問題があるかもしれません。しかし、イエス様は私たちのもとに来てくださり、私たちに愛を与えてくださいました。そして私たちはこのキリストがすべてであり、このキリストがすべてのもののうちにおられる、ということを信じる者となりました。このキリストの力によって、また、何よりも大切なこのキリストの愛によって、私たちが、私たちの家族が、また、私たちの教会が日々新たにされて、完成へと導かれるように、共にお祈りをしてゆきましょう